新しい司法への期待は大きいですね。
昨日の朝日新聞社説から抜粋します。
プロが法の支配を支える。だからこそ、民は法や裁判に信頼を寄せるのだろうが、半面、プロ任せの歴史は日本に独特の裁判風土をつくりあげた。
審理は精密だが、時間がかかる。用語や手続きがわかりにくい。行政には理解があるのに、市民感覚からかけ離れた論理が目立つ。憲法の番人なのに憲法判断には消極的だ。
こうした風土に対する批判は、裁判所を利用する側の市民や弁護士らの間でくすぶっていた。
改革の目玉である裁判員制度のスタートは2年後に迫った。無作為に選ばれた国民が裁判官と一緒に法廷で、有罪か無罪かを決める。裁判に市民感覚を採り入れ、審理も早めるのが狙いだ。
裁判員が担当するのは重大事件なので、死刑を言い渡すこともあるだろう。参加することの意義は分かるとしても、気が重いという人は多いに違いない。
無理もない。裁判への市民の参加は欧米では珍しくないが、日本では1928(昭和3)年から15年間、陪審制があっただけだ。
陪審制の背景には大正デモクラシーがあった。とはいえ80年も前に、プロが独占する司法に対して法律家から疑問の声が投げかけられていたのだ。
この疑問に答えを出せる時代に、私たちは居合わせている。もしも裁判員に選ばれたら、と不安を持っている人も、歴史的な変革に参加できると前向きに考えたらどうだろうか。
昨日の朝日新聞社説から抜粋します。
プロが法の支配を支える。だからこそ、民は法や裁判に信頼を寄せるのだろうが、半面、プロ任せの歴史は日本に独特の裁判風土をつくりあげた。
審理は精密だが、時間がかかる。用語や手続きがわかりにくい。行政には理解があるのに、市民感覚からかけ離れた論理が目立つ。憲法の番人なのに憲法判断には消極的だ。
こうした風土に対する批判は、裁判所を利用する側の市民や弁護士らの間でくすぶっていた。
改革の目玉である裁判員制度のスタートは2年後に迫った。無作為に選ばれた国民が裁判官と一緒に法廷で、有罪か無罪かを決める。裁判に市民感覚を採り入れ、審理も早めるのが狙いだ。
裁判員が担当するのは重大事件なので、死刑を言い渡すこともあるだろう。参加することの意義は分かるとしても、気が重いという人は多いに違いない。
無理もない。裁判への市民の参加は欧米では珍しくないが、日本では1928(昭和3)年から15年間、陪審制があっただけだ。
陪審制の背景には大正デモクラシーがあった。とはいえ80年も前に、プロが独占する司法に対して法律家から疑問の声が投げかけられていたのだ。
この疑問に答えを出せる時代に、私たちは居合わせている。もしも裁判員に選ばれたら、と不安を持っている人も、歴史的な変革に参加できると前向きに考えたらどうだろうか。