先住民族関連ニュース

先住民族関連のニュース

ウポポイ直行バス運行 登別温泉発 土日祝の需要12月まで調査

2024-07-24 | アイヌ民族関連

宮木友美子 有料記事

北海道新聞2024年7月23日 21:20(7月23日 21:39更新)

【登別】道南バス(室蘭)が、登別温泉から胆振管内白老町のアイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」への直行便の運行を始めた。12月28日までの土日祝日限定の試験運行で、登別温泉の宿泊客の需要を調査する。

 試験運行便は片道の1便で、20日から運行を始めた。「足湯入口」バス停を午前9時5分に出発。その後登別温泉地区のバス停6カ所を経由し、「ウポポイ前」には同45分着。「高速竹浦」バス停から乗車する場合を除いて非予約制。料金は大人千円、小学生以下500円。

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https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1041463/


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「挑戦楽しんで」 白老出身・映像制作会社の中谷さん 白翔中で講演

2024-07-24 | アイヌ民族関連

武内敦貴 有料記事

北海道新聞2024年7月23日 18:43

自身の経験を基に働き方についてアドバイスする中谷さん(中央)

【白老】白老出身で東京の映像制作会社に勤める中谷公祐(なかやこうすけ)さん(32)=東京在住=の講演会が、白翔中で行われ、自身の働き方などを伝えた。

 町内の中学生に将来の夢や目標を考えてもらう町教委の「プロフェッショナル講演会」の一環で、18日に開催。中谷さんは北海道栄高、東京学芸大を卒業後、広告業界の道へ進み、現在はCMの企画などを手がけている。白老に事務所を構え、町の移住PR動画を作成した中谷さんを講師に招いた。

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https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1041323/


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「日本遺産」候補地の小樽、点数評価プロセスへ 「上川アイヌ」は再審査

2024-07-24 | アイヌ民族関連

本郷由美子熊谷知喜東桜子 会員限定記事

北海道新聞2024年7月23日 17:00

 地域の文化財を観光振興につなげる「日本遺産」について、文化庁は23日、2021年度に候補となった3地域のうち、小樽市の「北海道の『心臓』と呼ばれたまち・小樽」が「点数評価プロセス」に進むと発表した。今後、正式な日本遺産への昇格をかけ、同年度に「条件付き認定」となっていた4地域と点数を競う。

 18年度認定の「カムイと共に生きる上川アイヌ」(上川、十勝管内12市町)は、認定の6年後に行う継続審査の結果、再審査の対象となった。いずれも、現地調査や計画の再提出を経て12月ごろに結果が発表される。

 日本遺産は、地域の有形・無形文化財をつなげ、ストーリーに仕立てて発信するための認定制度で、15年度に同庁が始めた。全国で104件、道内関連は5件が認定されている。

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 「上川アイヌ」は、アイヌ民族の伝承がある大雪山系周辺の景観や儀式、舞踊など21の文化財で構成。18年度に認定されて今回の継続審査を受けた13地域で唯一、再審査となった。文化庁は「審査中」として理由を公表していない。12市町などでつくる「大雪山麓上川アイヌ日本遺産推進協議会」会長の西木光英・上川管内上川町長は「再審査に向けて構成自治体、構成団体と連携を図りながら文化庁との協議を進めていきたい」と話す。

 道内では、23年度に檜山管内江差町の「江差の五月は江戸にもない」が再審査を受け「条件付き認定」となっている。

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1041258/


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日本遺産、認定済み5件「再審査」=18件は認定継続―文化庁

2024-07-24 | アイヌ民族関連

時事通信 2024-07-23 18:18

 文化庁は23日、地域の文化財を活用して観光振興につなげる「日本遺産」のうち、2015年度と18年度に認定された計30件について改めて審査した結果、北海道、三重県などの5件を「再審査」としたと発表した。年内に行う再審査の結果次第で認定取り消しの可能性もあるが、これまで取り消された例はない。
 一方、富山、大分両県の2件を他のモデルとなる「重点支援地域」に選定。福井県の「海と都をつなぐ若狭の往来文化遺産群」は、特に優れているとして初の「日本遺産プレミアム」に選んだ。18件は認定継続で、残る4件は別に評価を行う。
 再審査の5件は、15年度に認定された茨城、栃木など4県の「近世日本の教育遺産群」▽三重県の「祈る皇女斎王のみやこ 斎宮」▽奈良県の「日本国創成のとき」▽熊本県の「相良700年が生んだ保守と進取の文化」―と、18年度認定の北海道の「カムイと共に生きる上川アイヌ」。

https://sp.m.jiji.com/article/show/3292081


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<室蘭>アイヌ文化の魅力PR 長谷雄一さん(59)

2024-07-24 | アイヌ民族関連

三浦高志 有料記事

北海道新聞2024年7月23日 10:35

長谷雄一さん

 胆振総合振興局環境生活課の職員。アイヌ文様を描くワークショップなどを年10回ほど開くなど、アイヌ文化のPRに取り組む。

 札幌市出身で1989年に道庁入り。室蘭保健所で10年以上働いた後、全道各地で勤務した。3年前にアイヌ施策担当に。現在は民族共生象徴空間「ウポポイ」(白老町)開業4周年記念のフォトラリー「いぶりのイコロ」を9月末まで行っている。・・・・・

https://www.hokkaido-np.co.jp/article/1041092/


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【特集】開館4年 アイヌ文化の発信拠点“ウポポイ”の模索

2024-07-24 | アイヌ民族関連

NHK07月23日 18時57分

胆振の白老町にあるアイヌ文化の発信拠点、「ウポポイ」についての特集です。
今月でオープンから4年を迎えました。
年間100万人の来場者を目標に掲げていますが、現在は、その3割程度にとどまっています。
より多くの人を呼び込むことで、アイヌ文化への関心を高め、理解の促進につなげようと、模索が続けられています。
※この特集についてはデータ放送では映像をご覧いただくことができません。
映像はNHKの公式番組配信サービスの「NHKプラス」で放送後1週間、配信しているほか、インターネットのニュースサイト「北海道NEWSWEB」にも掲載しています。

https://www3.nhk.or.jp/sapporo-news/20240723/7000068645.html


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ウアイヌコㇿ宣言 齋藤玲子 現代のことば

2024-07-24 | アイヌ民族関連

京都新聞 2024年7月23日 15:50

先月、(公財)アイヌ民族文化財団が「ウアイヌコロ宣言」を発表した。「レイシャル・ハラスメントを許さない」という信念のもと、ハラスメント行為…

続きを読むには無料会員登録や有料プランの利用申し込みが必要です。

https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/1297182


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【ふらり大人のひとり旅~料理家・山脇りこさんの「界」めぐり】VOL.2『界 ポロト』(北海道・白老温泉)

2024-07-24 | アイヌ民族関連

サライ 2024/7/23

北海道の南西部、太平洋に面する白老町。新千歳空港からJRで約40分、札幌からも1時間ほどの距離という、訪ねやすい場所である。町には植物起源の有機物を含んだ珍しいモール温泉が湧き、この湯を存分に堪能できるのが、ポロト湖畔に位置する『界 ポロト』である。また、この地は古くからアイヌ民族の集落として知られ、2020年にオープンした『ウポポイ(民族共生象徴空間)』が宿に隣接する。

じつは山脇さんはアイヌ文化が豊富に紹介される漫画『ゴールデンカムイ』全巻を読破。アイヌ民族の文化に触れたいと、以前ウポポイを訪ねていたが、『界 ポロト』は初めて。わくわくしながらエントランスに到着。

清々しい白の装いでアプローチを歩く。

施設の中心は火の神様がいる暖炉

「え、ここが宿の入り口? とちょっと戸惑いました」と山脇さんが驚くように、シンプルな意匠の入り口から進んでいくと、視界が開け白樺が並ぶアプローチへ。あっという間に、この施設の世界観へ誘われていく。ロビーの正面には湧水が引かれた池があり、その先にはポロト湖が続き、館内にも白樺の柱が林立。周辺の自然と溶け込むような雰囲気だ。

そして、この宿を象徴する暖炉が鎮座。暖炉は、アイヌ民族が火を囲み集う場を踏襲して設置されている。施設がコタン(集落)で、その中心に“火”の神様(カムイ)がいるというストーリーだ。暖炉の前に座り、アイヌ民族のお茶「野草茶」を味わい、まずはひと休み。

「ここから見れる景色はとても気持ちを和やかにしてくれますね。心が落ち着きます」(山脇さん)

さっそく客室にチェックイン。客室はすべてポロト湖に面するレイクビュー。ご当地部屋「□の間(しかくのま)」と呼ばれ、アイヌ民族の伝統的住居“チセ”から着想を得て設計。テーブルはチセの中心にある炉をイメージし、アイヌ文様の壁紙やクッション、アート作品が飾られ、落ち着いた佇まいだ。客室にも白樺の柱が配されていて、特別室にはテラスと露天風呂が付く。

「水と森と空だけ。なんて贅沢な眺めでしょう! できることなら、3日、いや1週間か10日はここで過ごしたい!」と山脇さんは大満足の様子。日本ではない、どこか北欧の国に来たのかと錯覚するような雰囲気だ。

ポロト湖に続くような美肌の湯

さっそく、お楽しみの温泉へ。入浴の前に、温泉についての解説「温泉いろは」もぜひ聞いておきたい。湧き出たときからコーラ色のモール温泉は太古の時代から長い年月をかけて堆積した植物による亜炭層という地層を通るという成り立ちや、温泉を五感で楽しむコツなどを短時間で伝授してくれる。

ロビーから見えていた赤銅色のとんがり屋根の湯小屋が「△湯」(さんかくのゆ)。この湯小屋は、アイヌ民族の家屋の屋根の特徴である丸太組みの三脚構造(ケトゥンニ)を基本構造としている。湯上がり処にはトドマツの丸太が組まれ、その構造がよくわかる。この湯上がり処からのポロト湖の眺めも素晴らしい。ポロト湖では冬はワカサギ釣りが楽しめると知り、山脇さんは「絶対絶対また冬に来たいです」と大興奮だった。

「△湯」は内湯に続き露天風呂が広がる構造で、ポロト湖に続くようだ。温泉はまるで体に濃いローションを塗っているかのようで、潤い成分のメタケイ酸は200以上ある美肌の湯である。山脇さんも温泉の素晴らしさに心を奪われたようだ。

「想像をはるか上に越えていく素晴らしさでした。間違いなく人生ベスト3に入る湯です。露天風呂へのアプローチがユニークで、赤茶色の湯の暗い室内から、一転して明るい露天風呂へ。この暗闇から光へのアプローチは、夜が明けるとか、なにかが解決する、なにかがわかった! といったニュアンスに通じて、なんども行き来してしまいました。露天風呂からは湖にいる魚の姿も見えました。ここから出てそのまま湖に入ったらさぞやみんな驚くだろうなーと思いながらお湯に浸かっていました。日中は湖を、夜は星を眺めて入りました」

もうひとつ、「〇湯(まるのゆ)」という、ドーム天井の丸い穴から光が差し込む神秘的な雰囲気の温泉もある。

夕食は北海道の山海の恵みを存分に

夕食は北海道の食材を中心に構成された会席料理。先付はジャガイモのすり流しにいくらとキャビアをのせたもので、ヒグマの置物と一緒に登場する。「山の神」とも呼ばれるヒグマに感謝し、食事がスタート。

煮物椀を挟んで、八寸やお造りなどが盛られる「宝楽盛り」が登場。なんと、アイヌ民族が使っていた丸太の舟を象った器の上に、様々な料理がふんだんに盛り付けられて供される。八寸はサーモン棒寿司、つぶ貝の柔らか煮など、お造りはぼたん海老、ニジマス、鰈。そして酢の物はなまこぽん酢だ。

このあと、脂ののったキンキの酒蒸しや牛肉の陶板焼きを経て、台の物は毛蟹と帆立貝の「醍醐鍋」である。ブイヤベース風の濃厚な鍋で、毛蟹と帆立貝の旨みが凝縮されている。鍋の〆は雑炊で、チーズを加えて旨みをプラスして味わう。

「どれも北海道を感じられるお料理なのがとてもよかったです。なかでもお造り。私は魚の国・九州の長崎で育ったので、ほかの土地で刺身に感動することはあまりなかったのですが、この地ならではの美味しさで、魅力に開眼しました」と、山脇さんは北海道の日本酒とともに楽しんだ。

夕食後は、ロビーで「コタンの宵の集い」に参加。アイヌ民族にとってお酒は、願いや祈りを捧げる大切な儀式に欠かせないものという。北海道のウイスキー、ジン、ワインなどの中から好みのお酒を選び、この時間に感謝しながらグラスを傾ける。ひとり旅だからこそできる、静かに自分と向き合うひとときを堪能できる。

静謐な滞在を満喫した翌日。まずは朝食。小鉢やメヌケの焼き物、珍味とともに味噌味の鮭とジャガイモのすり流し鍋が存在感を放つ。“オハウ”という山菜や肉、魚などを入れて煮たアイヌ民族の汁ものから着想を得ていて、やさしい味わいだ。これにバターを加えるとぐっとコクが増す。

食後はトラベルライブラリーで、カモミールやカレンデュラ、ラベンダーなどのハーブでつくるオリジナルのハーブティーを。ここには北海道の歴史や文化、自然、工芸にまつわる本が並ぶ。

「並べられたタイトルを見るだけでも好奇心を刺激されました。夜はここから本『イヨマンテの夜』をお借りして、部屋でゆっくり読み、ひとりだからこそ、のとても良い時間を過ごせました」(山脇さん)

チェックアウト前に、ご当地の文化を体験するご当地楽「イケマと花香の魔除けづくり」を体験する。木の化石のような“イケマ”は根、魔除になる植物の根の意味で、その根茎を儀式などに使い、魔除けとして日常的に身につけていたとのこと。手順に従ってイケマとハーブを袋で包むお守りを作る。山脇さんは作ったお守りをさっそく自身のバッグに付けた。

チェックアウト後には、スタッフが案内する「ウポポイ園内ツアー』に参加。2023年12月から始まった「ウポポイ園内ツアー」はアイヌ文化をより深く知る宿泊者限定のアクティビティである。

『界 ポロト』の館内には、随所にアイヌ民族の暮らしや文化から着想したモチーフが見受けられたが、『ウポポイ』園内で解説を聞くことで、改めてその文化を確認するというもの。特典として、スタッフが選ぶ「おすすめアイヌ語カード」とフォトアルバムがプレゼントされる。

山脇さんの「おすすめアイヌ語カード」は“ヌプリ”。山脇さんの苗字“山”のアイヌ語だ。ツアーの後も、園内の博物館などを丹念に見て回り、アイヌ文化に浸り、滞在を締めくくった。

『界 ポロト』

北海道白老郡白老町若草町1-1018-94
電話:0570-073-011(界予約センター)
料金:1泊3万1000円~(2名1室利用時1名あたり、サービス料・税込み、夕朝食付き)

『界 ポロト』公式サイトはこちら

山脇りこさん
長崎生まれ。料理家・エッセイスト。「きょうの料理」(NHK)をはじめ、テレビ、ラジオ、雑誌などで活躍中。『明日から料理上手』(小学館)のほか、台湾料理の本など台湾関連の著書も多い。旅のエッセイ『50歳からのごきげんひとり旅』(大和書房)が12万部を越えるベストセラーに。

【今回のひとり旅ワンポイント】

白老、アイヌ民族の伝統に触れる、学ぶ、ということで、その思いから、装いは白にこだわって楽しもうと決めていました。列車に乗ることもあり、らくちんだけど、きちんと見えるスタイルを。そうなのです、私は札幌から特急すずらんに乗ってこちらへ。北海道となれば車での移動をイメージしがちですが、ひとりでレンタカーはちょっと心細い。ここへはJRで来られるのがとてもいいです。札幌から1時間ちょっとの列車旅が期待も高めてくれました。

●「界」について

「界」は星野リゾートが全国に展開する温泉旅館ブランドです。「王道なのに、あたらしい。」をテーマに、季節の移ろいや和の趣き、伝統を活かしながら現代のニーズに合わせたおもてなしを追求しています。また、地域の伝統文化や工芸を体験する「ご当地楽(ごとうちがく)」、地域の文化に触れる客室「ご当地部屋」が特徴です。

https://serai.jp/tour/1193211


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『ゴールデンカムイ』で注目 南樺太の歴史とは?戦前の日本経済に貢献した過去を知る

2024-07-24 | アイヌ民族関連

武将ジャパン2024/07/23

日露戦争直後の北海道を舞台にした大人気作品『ゴールデンカムイ』。

14巻終盤から本作の舞台は「樺太」へと移動し、15巻からはこの土地を旅する杉元ら先遣隊の足跡を追うことになります。

日露戦争後に日本領となったこの地は、北海道と似ているようで、異なる場所でした。

・北海道より降雪が早い

ヒグマだけではなくクズリという猛獣が存在する

・住民は、日本人だけではなく、樺太アイヌ、ロシア人らが含まれる

・特産品はフレップワイン

猛者である杉元すら「樺太やばいな」と連呼する“未知の場所”でした。

現在はロシア領となった樺太ですが、明治時代初期までは日本の領土。日露戦争後は南のみ日本領に復帰するものの、太平洋戦争の最中に奪われていきました。

では日本領であったころ、樺太の人々はどんな暮らしをしていたのか。

本稿では南樺太の歴史を振り返りたいと思います。

※よろしければ、以下、樺太の歴史と合わせてご覧ください。

ロシアから圧迫され続けた樺太の歴史 いつから日本じゃなくなった?

日露戦争で取り戻した南樺太

そもそも江戸幕府が樺太を意識し始めたのは、いつ頃なのか?

ロシアが進出してきた江戸時代の後期頃からでした(以下、関連記事)。

江戸・明治時代の日露関係はアイヌを見落としがち~ゴールデンカムイで振り返る

当時の幕府は、ロシアとの交渉をとにかく先延ばしにする外交方針。

煮え切らないその対応に苛立ったロシアは、クシュンコタン(のちの豊原・現在のユジノサハリンスク)を襲撃します。

ロシアにとって樺太は“不凍港”を持つ魅力ある島でした。

こうした動きを警戒し、警備に当たったのが会津藩や仙台藩など奥羽の有力諸藩です。

間宮林蔵に探険を行わせたのも、このあとのことでした。

黒船来港以来の幕末期にも、北蝦夷と呼ばれた樺太最南端の警備を奥羽諸藩が担当していましたが、戊辰戦争により、奥羽諸藩はそれどころではなくなってしまいます。

そして明治新政府の発足。
蝦夷地は北海道となり、開拓が始まりました。

樺太も開拓すべきという意見があったのですがが、明治3年(1870年)、イギリスが強引に干渉してくるのです。

「樺太なんて、古船一艘の価値もない土地です。ロシアにくれてやればいい」

西郷隆盛や、幕臣出身でアイヌとも交流のあった官吏がこれに反発。

しかし新政府は押し切られてしまいました。

こうしてロシア領にされた樺太。日露戦争で日本軍が樺太に攻め込み、快勝をおさめます。

ロシアは樺太を占領していたものの「囚人の島」と呼ばれたほどの扱い。

革命前夜であり、政情は不安定でした。

帝政ロシア・ロマノフ朝が滅亡しロシア革命が起きるまで

樺太を死守する気はさらさらないロシアと、奪還に意欲を燃やす日本。モチベーションの時点で、かなりの差があったのです。

「樺太の戦い」は日露の最終戦 サハリンの地図が南北に切れている理由

しかし日露戦争は、日本の勝利とはいえ、実態は薄氷を踏むようなものであり、賠償金も領土も、日清戦争より少なく、国内には不満が渦巻きました。

ロシアを相手にポーツマス条約が結ばれ日比谷焼打事件が勃発した

続きを見る

そんな中、なんとか得られた南樺太です。

実に貴重な獲得領土でした。

銭湯の客「兄ちゃんたちが戦ってくれたから 日本は南樺太を取り返せた おかげでこの港町はこれからもっともっと栄えるだろう 本当にご苦労様でした」
杉元「……儲かるのは商人だけだろ」
(『ゴールデンカムイ』1巻3話)

マンガ『ゴールデンカムイ』の中で、杉元は銭湯で客とこんな会話を交わしますが、それは、こうした状況を踏まえたものです。

このときまさか、自分が樺太に行くとは思いもしなかったでしょう。

杉元一行がたどり着いた南樺太。そこは、古船一艘どころではありません。

商人以外もたんまり利益を得ることのできる、豊かな島でした。

杉元が訪れた頃は、樺太民政署が樺太庁に変わった頃と同時期と推察されます。

日本による統治が、進んでいった時期でした。

魚介類が豊富! ニシンが取れる

『ゴールデンカムイ』4巻収録。

37話から登場する辺見和雄は「ヤン衆」の一人です。

「ヤン衆」とは、北海道で盛んだったニシン猟に従事する、季節労働者のことです。

東北地方出身者が多く、辺見のようなおたずね者でも紛れ込みやすい労働現場でした。

当時の北海道でニシンは、猫でもまたぐ「猫またぎ」と呼ばれたほど。魚が好きな猫すら食べないほど、ニシンが大量に捕獲されたという意味がこめられています。

あまりの量の多さから、食料ではなく燃料として用いられたほどでした。

辺見のようなヤン衆が向かった先は、北海道だけではありません。

南樺太が日本領となると、まず注目を集めたのはその豊富な漁獲量であったのです。

南樺太が日本領となる前の明治20年代(1890年代)頃から、日本人漁業者が樺太へ進出。ロシア側でも、彼らに漁場を開放することが利益につながると考えるようになります。

漁獲されたニシンは、辺見の妄想でもおなじみの圧搾機「角胴」で肥料「鰊粕」にされ、日本に向けて送られます。

また昆布は、清国向けの輸出品として重視されておりました。昆布はアイヌ語由来の単語で、古来より北の味として和人に珍重されてきました。

清国が欲しい海産物としては、乾燥ナマコもあげられます。「海参(ハイシェン)」と呼ばれる乾燥ナマコは、中国料理の高級食材です。

こうした漁業は「薩哈嗹島漁業(サハリン島漁業)」、短縮して「薩島漁業」。

彼らは日本とロシア政府の狭間にありながら巧みに立ち回ります。

そんな状況ですから、南樺太が日本領となり、「薩島漁業」から「樺太漁業」に転換したことは、非常に喜ばしいことでした。

故郷でじっとしているよりも、漁業で発展する北海道や樺太で稼ぐ方がよい――。

東北地方の人々は、こうしてヤン衆となったわけです。

樺太漁業の行き詰まり

樺太に行けば、鮭が食い放題で金もごっそり稼げるぞ」

ヤン衆の中には、そんな業者の甘言に釣られ、親の目を盗み実印を押す若者もいたのだとか。

ゴールデンカムイ』12巻収録第114話では、アイヌのコタン(村落)が飛蝗(こうがい・バッタなどによる災害)により大打撃を受けます。結果、コタンに住むアイヌのキラウシは、和人の元で出稼ぎをすることになりました。

当時は、北海道のみならず樺太でも、アイヌやニヴフといった原住民たちが漁場で出稼ぎをしていたのです。

ただし、出稼ぎ労働者としての生活はバラ色ではありません。

劣悪な条件と寒冷な環境で酷使され、脱走を起こす労働者もおります。

不衛生で医師もいない労働現場では、病人も続出。あまりに劣悪な食事のため、彼らの間では脚気が蔓延し、集団逃走がしばしば起こったほどです。

時代が降ると、彼らは逃走とは別の手段で訴え出ます。

雇用主に訴え出たのです。

「こんな劣悪な労働環境じゃ働けない!」

「何の実入りもないようなもんだ!」

訴えるだけではなく、事務所を破壊することも……こうした労働者の蜂起以外にも、問題がありました。

北海道のニシン漁は、あまりの乱獲が祟り、昭和を迎えた頃から急激に数が減っていきます。当時の北海道や樺太でも、さすがにこれはやり過ぎではないか、と不安視する声があったのです。

さらに杉元らが樺太に渡った明治40年(1907年)頃ともなると、肥料業界に変動が起こり始めました。

満州鉄道を用いて、満州から安価な豆粕が輸入され始めたのです。

化学肥料も増加しています。

肥料としての鰊粕は、重要性が低下してゆきました。

・出稼ぎ労働者の反発

・ニシンの枯渇警戒

・肥料としての鰊粕の地位低下

こうした条件が重なり、南樺太では“次の産業”が求められることになりました。

パルプ生産一大地

杉元らは旅の途中、樺太の森林を通ります。

ヒグマのみならず、クズリにまで襲われてしまう一行。あの描写を読んでいると、樺太やべえ、森怖え、と思ってしまいます。

しかし、この森林こそ樺太の資源でした。

樺太の原住民は森林と共生して過ごしておりました。

ロシアによる支配中も、せいぜい燃料にする程度しか、森林は伐採されてません。

そのため日本が南樺太を手にしたとき、広大な森林が残されておりました。

樺太庁は明治43年(1910年)に「林産物大口売払内規」、翌明治44年(1911年)には「樺太森林原野産物特別処分令」が施工されます。

樺太で森林を伐採し、パルプ生産を開始するということです。

当時は、時代の状況もこれを後押しします。

ヨーロッパを巻き込んだ第一次世界大戦による輸出増加。

関東大震災の復興需要。

時代の要請に応えたのが、樺太のパルプです。

王子製紙の工場は9カ所に及び、現代でも7カ所の跡地が確認できるほどの隆盛となりました。

なお、こうした林業等に従事する季節による出稼ぎ労働者は「ジャコジカ」とか「ジャコ」と呼ばれました。

アシリパの父・ウィルクも、かつてそう呼ばれていたことがのちに判明します。

皆さんのご想像どおり、こうした林業は、環境破壊をもたらしかねないものです。

伐採すれば、それまで覆われていた地面が露出し、どうしたって環境に影響を与えてしいまいます。

かくしてパルプ産業が始まってから、大規模な森林を枯らしてしまう虫害が発生。山林火災も起こりました。

樺太庁は森林保護対策を取りましたが、それでも盗伐、誤伐といった計画外の森林消費は防ぎきれません。

林業は、樺太経済の大動脈となりました。

環境保護が大事といえども、こうなってしまっては中々セーブが利かないものです。

長いこと人の手が入らなかった、樺太の森林や、その環境は、日本領となることで大きく変化してしまったのです。

またパルプ工場は、大量の電力も消費しました。

そうなると必要とされるものが、発電所とその燃料です。

大正2年(1913年)、パルプ生産と並行して、樺太での炭坑が開封。

それまで樺太の石炭は保護のため封鎖されていたのですが、パルプ工場の発展は、樺太での炭坑だけでなく鉄道網整備も進めることになりました。

魚を捕り、森林を伐採していた樺太の生活風景が一変し、鋼業と工業へと変貌していったのです。すると……。

戦時体制での苦難

パルプを生産し、石炭を掘り、日本の経済を支えた樺太。

しかしその扱いは、公正とは言いかねるものでした。

島民の参政権は認められず、投票できる範囲は町村制度のみです。

国の中央に樺太の声を届けるためには、他の地方から樺太事情に詳しい政治家が議員となることを応援するしかありません。

樺太は、内地(日本)と外地(本土以外の日本領土である朝鮮半島や台湾)の中間にある位置づけでした。

政府中央は、樺太の工業や資源を期待するものの、支援や投資は限られたものです。

「犠牲的精神で日本に尽くせ」という傾向で、中央から一段低い冷たい目で見られていました。

そんな樺太は、戦時中の昭和17年(1942年)内地に編入されることになる一方で、厳しい目が浴びせられます。

樺太では稲作が出来ず、輸入米に頼っておりました。

しかし、日中戦争、そして太平洋戦争が始まると、日本列島全体が食料難に陥ります。

樺太では、農業生産よりも手っ取り早く現金を得られる林業が発展しておりました。これを転換し、自給自足せよとの方針転換が迫られたのです。

エンバクのようなものを食べて生きてゆけ、と樺太の島民は勧められたのでした。

昭和15年(1940年)に赴任してきた長官・小河正儀は失言を連発しました。

「そもそも樺太では食料を消費しすぎである」

「よく噛めば半分の量で済む」

侮蔑的な言葉に、島民は反発を見せたのです。

こうした危機感の中で、樺太では食料増産、備蓄を進めました。

昭和20年(1945年)8月のソ連侵攻時、樺太には8ヶ月分の備蓄食料があったほど。食料不足への危機感が、こうした備蓄を生んだのでした。

林業も、戦時下では変貌します。

パルプではなく、針葉樹林から絞った針葉油が生産されるようになっていったのです。

石炭も増産され、本州へ運ばれてゆきました。

資源提供源として期待される一方で、食料すら自力でまかなうしかない――それが戦時下の樺太でした。

失われた樺太

太平洋戦争が末期に入ってゆくと、日本政府は終戦を望むようになります。

昭和19年(1944年)、サイパンで日本軍が大敗、内閣は水面下で和平を検討し始めます。

仲介者として、ソビエト連邦へ目を向けられるようになりました。

その際は、見返りとして南樺太を譲渡する――そんな案が、進められていたのです。

日本がソ連に期待した根拠は「日ソ中立条約」にありました。

しかし、これを過剰に頼りにしたことは、さすがに甘かったのではないか?と思われる点もあります。

当時、ソ連を侵攻したナチスドイツと日本は同盟国。敵の敵は味方どころか、日本は敵の味方と言えるわけです。

ポツダム宣言にスターリンが署名しなかったことも、米英と対立しているのだと、日本政府を安堵させました。

ところが実際は、独ソ戦争を終えた後、スターリン以下ソ連が、極東へ侵攻する手はずを着々と進めていたのです。

昭和20年(1945年)、それまで比較的平和であった樺太にも、戦火が迫り始めました。

2月頃から、米艦が流氷の切れ目に出現。

5月29日「天嶺丸」、6月15日「第一札幌丸」が魚雷により撃沈されます。浜辺には「USA」と書かれた袋も流れ着き始めました。

7月2日、海豹島が米軍の砲撃を受け、海軍兵士5名が死亡します。

そして、これを皮切りに、米軍による砲撃や鉄道への地雷設置がなされるようになったのです。18日には「宗谷丸」が撃沈され、150名以上が犠牲となりました。

北樺太の国境付近でも、ソ連軍の動きが目撃されるようになりました。

海からはアメリカ。

陸からはソ連。

樺太にいた第88師団は、混乱するばかりです。

アメリカとソ連、どちらに備えるべきか?

ハッキリした命令は伝わらぬまま、結局、彼らはソ連の侵攻を迎えることとなりました。

そして8月11日。ついにソ連軍が国境越え。

彼らが自動小銃や大砲で武装していたのに対して、日本軍はわずかな小銃や機関銃、空き缶や瓶で造った手榴弾しかありません。

どうにか半日以上は持ちこたえたものの、国境は破られてしまいます。

8月15日。
日本本土で玉音放送が流れても、樺太の戦争は終わりません。

住民たちは、女性までもが義勇軍を組織させられることもありました。老人や女性と子供から避難が始まりましたが、取り残される人も大勢おります。

逃げ惑う人の頭上には、空爆が容赦なく降り注ぎますした。

逃げるために、足手まといとなる我が子を捨てる親。年老いた親を置き去りにする子すらいたほどでした。

真岡郵便電信局事件で散った乙女たち ソ連軍の侵攻前に集団自決

続きを見る

8月25日、ソ連が大泊を占領し、宗谷海峡が封鎖されました。

樺太の戦争は、こうして終わりを告げたのです。

逃げ切れずに残された人々もおりました。

シベリアの強制収容所まで連行されて、抑留された人も少なくない状況(シベリア抑留)。宗谷海峡封鎖後、密航して帰国できた人もおりましたが、全員がそうではありません。

終戦後、日本領南樺太からソ連領サハリン州なったこの地では、日本人が無国籍者として暮らすこととなりました。

公式引揚げと戦後

昭和21年(1946年)10月。

サハリン州民政局により、公式の引き揚げが始まります。それまで日本人は収容所に収監され、苦しい生活を送ることとなりました。

結局、この公式引き揚げは、昭和24年(1949年)まで続けられました。中には、帰国できなかった人々もおります。

病気に罹る等、様々な事情で残らざるを得なかった人々。

日本国籍を取得できなかったニヴフ、ウイルタの人々。

そして、朝鮮半島の人々です。

南樺太には、朝鮮半島出身の人々が多数おりました。

林業や炭坑採掘のために連れて来られた人もいれば、出稼ぎのためにやって来た場合もありました。

かように南樺太は、日本人のみならず、樺太アイヌ、ニヴフやウイルタといった先住民、朝鮮人、ロシア人と、様々な民族が入り乱れて発展してきた島なのです。

混乱と暴力の中、命を奪われてしまったのも、日本人だけではありません。

そして戦後。
残留した日本人と朝鮮人が結婚する例が、サハリンでは多く見られました。

現在でも、逃げられなかった日本人の子孫が、日系ロシア人としてサハリンに在住しています。

朝鮮系ロシア人はさらに多く、コミュニティが形成されております。

サハリンでは、コリアン料理店や食材が人気を集めているほど。絵葉書には、日本風の建物が印刷され、神社や製紙工場の跡が残されています。

それはこうした歴史をふまえたものだったのです。

エノノカのような樺太アイヌ。北方領土にいたアイヌは、敗戦により大きな打撃を受けました。アイヌは日本国民とみなされます。しかし樺太や北方領土はソ連領とされたため、生まれ故郷をあとにするしかなかったのです。

政治に翻弄され、故郷を失ったかれらの苦難を思うと、やりきれぬ思いがこみあげてきます。

最盛期、日本国籍を持つ人々が、実に40万人も暮らしていた――南樺太。

漁業や林業で、日本に資源を提供し続けた場所でありながら、戦争下では見捨てられたような扱いを受け、悲劇が起こっています。

そのことだけではなく、現在、樺太の存在感が日本で低いことも、虚しさを感じてしまいます。

ゴールデンカムイ』は、そんな樺太を主人公たちが冒険する土地に選びました。

これをきっかけに、読者を中心として、樺太への関心も高まることを、切実に願います。

https://bushoojapan.com/jphistory/kingendai/2024/07/23/116084


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米潜水艦攻撃で沈没の「対馬丸」 水中調査を検討 自見担当相

2024-07-24 | ウチナー・沖縄

毎日新聞 2024/07/23 17:32

 自見英子沖縄・北方担当相は23日の記者会見で、太平洋戦争中に学童疎開船が米潜水艦の攻撃で沈没した「対馬丸事件」に関し、対馬丸の水中調査を検討する考えを示した。「水中等の調査によって対馬丸の現在の姿の撮影や遺品収集ができれば、(那覇市にある)対馬丸記念館の質を高めることにもつながる。国として必要な支援ができるように調整していきたい」と述べた。政府は沖縄関係予算の2025年度概算要求に必要な経費を計上する方向だ。

 対馬丸を巡っては、1997年に鹿児島県沖で船体確認調査が実施されている。【池田直】

https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/politics/mainichi-20240723k0000m010197000c.html


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先住民文化に焦点を当てたニュージーランドとの交流イベント=台湾〔BW〕

2024-07-24 | 先住民族関連

時事通信 2024-07-23 09:34

 【ビジネスワイヤ】台湾の中央通信社は、ニュージーランド・台湾経済協力協定が11周年を迎える今年、ニュージーランドと台湾の先住民文化の結びつきに焦点を当てたイベントが開催されていると発表した。ニュージーランドのマオリと台湾先住民の人々は、多くの歴史的遺産を共有し、これまでも盛んに交流してきたことを背景に、3月にはオークランドでマオリと台湾の16の先住民族をテーマにした油絵展が開催され、今月10日にニュージーランドで開催された第13回世界合唱大会には台湾の合唱団も出場した。また、ゴベット・ブリュースター美術館では4人の台湾先住民アーティストを招き、今月6日から10月13日まで特別展を開催し、彼らの作品を公開している。〈BIZW〉
 【注】この記事はビジネスワイヤ提供。英語原文はwww.businesswire.comへ。

https://sp.m.jiji.com/article/show/3291755


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「台湾最後の秘境」屏東県 大阪で観光説明会

2024-07-24 | 先住民族関連

観光経済新聞 2024年7月23日

 台湾最南端の屏東(ピンドン)県は1日、大阪市のシェラトン都ホテル大阪で、旅行会社やマスメディアの関係者らを招いての観光説明会を開いた。高雄からのアクセスの良さや先住民族の文化に触れられる観光スポット、温泉などの見どころを紹介し、誘客への協力を求めた。

 同県のプロモーションを受託するKNT―CTホールディングスの台湾近畿國際旅行社が企画、実施した。パフォーマンス集団「羽・撃舞藝術」が、先住民族であるパイワン族の伝統的な楽器と歌の演奏などを披露したほか、映像と音楽に合わせて、屏東県の四季折々のイベントや見どころを紹介した。

 プレゼンテーションで各観光地を説明した屏東県政府交通旅遊處の倪國鈞・副處長は「屏東は気温も高いが、情熱も高い。大阪の皆さんも情熱的で、親しみを感じている。屏東は台湾最後の秘境。ぜひたくさんの人に訪れてほしい」とあいさつ。

 日本式の温泉旅館などもある四重渓温泉についても語り、「炭酸泉で美肌効果があり、『台湾四大名湯』とされている。露天風呂は山からの風が心地よくお勧めなので、ぜひ体験しに来てほしい」とアピールした。

 屏東県では今年12月31日まで、台湾の旅行事業者を対象に、条件を満たす交通手段と宿泊施設を利用して旅行する外国人観光客に対して、助成を行っている。対象は10人以上のグループで、助成上限額は1万台湾ドル。詳細はhttps://pttrip.pthg.gov.tw/参照。

https://www.kankokeizai.com/「台湾最後の秘境」屏東県%E3%80%80大阪で観光説明会/


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台湾料理で台湾文学の魅力再発見!「おいしい”本を心ゆくまで-台湾珍味文學展」8月6日より開催

2024-07-24 | 先住民族関連

エルザ 2024/07/23 18:17

台北駐日経済文化代表処台湾文化センター

近年、日本で大きな話題となっている台湾料理といえば、まず「タピオカミルクティー」、「小籠包」、「マンゴーかき氷」といった庶民的なグルメが思い浮かびます。しかし、実は時を遡ること100年前、1903年に大阪で開催された第五回勧業博覧会の「台湾館」において、「台湾料理」は多くの人々の注目を集めていました。

本展示会では、近年日本で流行した台湾小吃から、台湾ローカルの宴席料理、さらには先住民料理までを取り揃え、台湾式宴会でよく見られる円卓形式で12種類の料理をはじめ、盛りだくさんな内容を紹介します。台湾文学作品の抜粋と展示ガイドにより、来場者に台湾の食文化を深く理解していただける内容となっています。作家たちが綴った文字を通じて、台湾ローカルの味を堪能することで、台湾文学の魅力も再発見できることでしょう。

また、8月7日午後には、誠品生活日本橋店で「本から伝わる台湾の香り」を開催し、台湾宴会料理の有名な老舗「A SHA阿霞飯店」の第4代経営者兼料理長呉健豪氏を招いて、本展示会に収録された文学作品の中から、台湾宴会料理の名物「紅米」の調理を実演いたします。どうぞお見逃しなく。

イベント概要

■「おいしい”本を心ゆくまで-台湾珍味文學展」(参加費無料)

日 時:2024年8月6日(火)~8月30日(金) AM10:00~PM5:00(土日祝 休館)

会 場: 台北駐日経済文化代表処 台湾文化センター(東京都港区虎之門1-1-12虎ノ門ビル2階)

■「”おいしい”本を心ゆくまで──台湾珍味文学」開幕イベント(VIPのみ)

日 時:2024年8月6日(火)PM2:15~PM3:45(展示会は通常通りオープされる)

■「本から伝わる台湾の香り」(参加費無料)

日 時:2024年8月7日(水) PM1:00~PM2:00

会 場:誠品生活日本橋店(東京都中央区日本橋室町3 丁目 2 1コレド室町テラス2F)

◎先着15名様 申込みは7月25日(木)PM12:00より受付(先着制)

申込みリンク ※事前にPeatixの登録が必要です(無料)

https://seihin0807axia.peatix.com/

主催:台北駐日経済文化代表処 台湾文化センター、国立台湾文学館

協力:誠品生活日本橋店、阿霞飯店、東永商事株式會社、錦源興、透島影業、Coffee Stopover、好田家、自然補給、茶町

https://beauty.oricon.co.jp/pressrelease/1967341/


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評価が変わっているのは「コロンブス」だけじゃない。“歴史”は解釈が更新されるもの

2024-07-24 | 先住民族関連

wanibooks-newscrunch2024.7.23

1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達した「新大陸発見」の偉業。現在では先住地への侵略や奴隷化などの観点から、その功績も多様な解釈からクローズアップされている。

人気バンドMrs. GREEN APPLEの楽曲「コロンブス」のミュージックビデオ(MV)が公開されるや否や、瞬く間に炎上騒動へと発展したことは記憶に新しい。探検家のコロンブスをテーマにした映像だったが、その内容が先住民への侵略や植民地支配の歴史を肯定しているとして、多くの批判を浴びることになりました。

1492年にコロンブスがアメリカ大陸に到達した偉業は、長いこと「新大陸発見」という輝かしい功績として称えられてきました。しかし、近年ではコロンブスの評価は賛否が分かれています。コロンブスの到来は、先住民にとっては侵略の始まりであり、疫病の蔓延や虐殺、奴隷化など、数々の悲劇をもたらした出来事という側面にもスポットが当たるようになったのです。

こうした変化の背景には、グローバリズムの進展や多文化主義の浸透など、現代社会の価値観が影響しています。かつては欧米中心で語られてきた歴史が、現在では多様な視点から見直され、新たな解釈が生まれつつあるのです。

農業革命は人類を幸福にしたのか?

時代の経過によってコロンブスに対する評価が変化したように、過去と現在において歴史認識が異なることが多くあります。

かつては「未開」で「原始的」な時代と見なされていた狩猟採集時代ですが、近年ではその生活様式や幸福度について新たな知見が提示されています。世界的ベストセラー『サピエンス全史』は、狩猟採集時代を再評価するきっかけになった一冊です。

人類が農業を始めたことは、一般的にポジティブな評価をされています。農業は食料生産の増加をもたらし、人口を大幅に拡大させました。また、ひとつの場所に留まる定住生活が可能になったことで、都市や国家を生み出し、科学技術や文化、経済が飛躍的に進歩したことが大きな理由です。

しかし『サピエンス全史』の著者であるユヴァル・ノア・ハラリ氏は、農業を「史上最大の詐欺である」としています。人類が狩猟採集をやめて農業を開始したことが、不幸の始まりであると言うのです。

以下で詳しく見ていきましょう。

まず農業に依存する生活は、人類に健康問題を引き起こしました。狩猟採集生活では多様な食物を摂取していたため、栄養バランスが比較的良好でした。しかし、農業生活では特定の作物(小麦や米など)に依存するため、食事が偏る傾向にありました。

結果としてビタミンやミネラルの不足が常態化し、また定住生活による運動不足も重なって、糖尿病や肥満などの病気が増加することになります。

さらに、農業による定住生活は、感染症のリスクを高めました。多くの人々が狭い地域に集中し、家畜との接触も増えたことで、疫病や寄生虫の感染が拡大したのです。

また、農業は過酷な労働条件をもたらしました。畑作業は長時間にわたる重労働を伴うため、腰痛や関節痛などの身体的な問題を引き起こしました。農業労働者は長時間働く必要があり、休息や自由な時間が極端に制限されたのです。

社会構造も大きく変わり、不平等が顕在化します。農業によって生産された余剰生産物は、権力者やエリートが支配するようになったため、富と権力が一部に集中し、支配階級と労働階級のあいだに大きな格差が生まれました。

このように、農業は人類の発展を促進しながらも、その一方で多くの人々にとって過酷で不平等な生活を強制する結果をもたらしたのです。

狩猟採集時代の人々は多様な食料を確保し、労働時間も比較的短く、現代人よりも健康で幸福だった可能性が指摘されています。農業と定住生活の開始は、食糧の安定供給と人口増加をもたらしましたが、それと同時に感染症の蔓延、頻繁な戦争、格差の拡大など、多くの問題を引き起こしたと、ハラリ氏は主張するのです。

「進歩史観」の限界:ヘーゲルとマルクス

哲学者のヘーゲルやマルクスは、人類の歴史を「未開」から「文明」への直線的な進歩の過程と捉える「進歩史観」を提唱しました。

ヘーゲルは、歴史を「人間の精神が成長していく物語」と捉えました。歴史のなかで人々の考えや価値観がぶつかり合い、その対立を乗り越えることで、より良い社会が生まれていくと考えたのです。

ヘーゲルを継承したマルクスは、経済が歴史を動かす大きな力だと考えます。人々がどのように物を作り、お金を稼ぐかという「経済の仕組み」が時代によって変化し、その変化が社会全体を進歩させてきたというのです。

マルクスによれば、資本主義はいずれ限界を迎え、労働者によって共産主義へと移り変わります。この変化は歴史の必然的な流れであり「進歩」なのです。

しかし、進歩史観は、歴史を一面的に捉え、多様な価値観や文化を軽視する傾向があります。狩猟採集時代を「未開」と断定し、農業社会や工業社会への移行を無条件に「進歩」とみなすことは、現代の視点から見ると問題があると言えるでしょう。

▲三内丸山遺跡 写真:ikeda_a / PIXTA

狩猟採集の暮らしは、現代社会の抱える問題を解決するヒントを与えてくれます。狩猟採集時代の人々は自然の恵みを最大限に活用し、環境(自然)と調和した持続可能な生活を送っていました。

また共同体のなかで協力し合い、互いを尊重する文化を育んでいたことも分かっています。最近の研究では、縄文時代は1万年以上続いたというデータがあり、縄文時代をポジティブに捉える風潮が大きくなっています。縄文時代が平和だったため「人類が変化させる必要がなかった」という新しい見方ができるからです

現代社会は物質的には豊かであるかもしれませんが、精神的な豊かさや社会的なつながりは希薄になりつつあります。今回の騒動に限らず、頻繁に炎上が起きるのは、どこかで現代人は心の余裕を失っているのかもしれません。

歴史とは静止したものではなく、常に解釈が更新され続けるものです。過去の出来事に対する評価は、時代や社会の価値観によって変化し、新たな視点が生まれることで、歴史はより豊かで奥深いものとなります。

歴史から学ぶべきことは、過去の出来事を一面的に捉えるのではなく、多角的な視点から考察し、その教訓を現代社会に活かしていくことにあると感じます。

https://wanibooks-newscrunch.com/articles/-/5280


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国立公園指定を祝う 新ひだか 180人出席し記念式典【新ひだか】

2024-07-24 | アイヌ民族関連

日高報知新聞2024.07.23

国内最大のナショナルパークの誕生を祝う伊藤信太郎環境大臣のあいさつ(中央)

【新ひだか】環境省主催の日高山脈襟裳十勝国立公園指定記念式典が20日、三石本町の町総合町民センターはまなすで行われた。伊藤信太郎環境大臣や鈴木直道北海道知事、日高、十勝両管内の関係13市町村長ら関係者約180人が出席し、国内最大の国立公園の誕生を祝った。

 全国で35カ所目、道内では1987年の釧路湿原以来7カ所目の指定となった同国立公園は、陸域と海域を併せて面積約2552平方㌔㍍となり陸域では日本最大を誇る。

 日高山脈襟裳十勝国立公園は、我が国の傑出した自然の風景地であることが認められ6月25日に我が国35番目の国立公園として指定された。日高地域と十勝地域の13市町村にまたがる陸域面積が我が国最大の国立公園となる。中核である日高山脈の稜線には高山植物が氷河地形と織りなす山岳景観が見られる。山岳には広大な手つかずの森林や河川が広がり、多種多様な生き物が命を育んでいる。さらにに周辺には固有種の宝庫であるアポイ岳、切り立った崖が連なるえりも岬など大変魅力的な素晴らしい自然景観が広がっている。

 開会で、伊藤環境大臣は「美しい自然が地域の暮らしや文化と一体となって今日まで守られてきたのは、アイヌの方々を含む地域の皆様方による長年にわたる熱心な取り組みがあったからこそであると改めて敬意を表し厚くお礼申し上げる。環境省は地域の皆様と手を携えて、日高山脈襟裳十勝国立公園の最大の魅力である原生的な自然環境を保全し、後世に繋ぎ渡していく。また、関係機関と連携し本国立公園の魅力を一層高め、国民や世界中の人々にその素晴らしさを伝え、体感していただけるよう努力していく」とあいさつ。

 鈴木知事は「地域の皆さんの長年の悲願が叶ったことは関係者の皆様のたゆまぬ尽力と熱意の賜であり深く敬意を表する。このエリアには特徴的な氷河地形、世界ジオパークにもなっているアポイ岳、さらには山脈が海に達し沖まで岩礁が続くえりも岬など世界的にも珍しい景観が広がっている。また、シマフクロウやクマタカなど多様な固有種の貴重な生育地ともなっているなど、我が国を代表する風景地としてその価値をを高く評価いただいた。指定を地域の活性化に結び付けていくためには、豊かな自然を貴重な資源として守り継ぐ取り組み、そして地域の魅力として広く発信し多くの方々に訪れていただく取り組みの調和を図りながら関係者が一体となって取り組んで行くことが重要となる。道としては、日高十勝の両振興局を含め庁内の力を結集して、環境省並びに13市町村の皆さんとの緊密な連携のもとアポイ岳の登山口の整備、登山ルートの普及、ガイド人材の育成など来訪者の受け入れ環境の整備を進めていく。また、シンポジウムや各種イベントなど通じて国立公園の魅力、価値を多くの方々に知っていただくための取り組みを進めていく」と述べた。

 大西正紀日高町村会長(えりも町長)は地域を代表して「長年、早期の国立公園指定を要請してきた。正式決定され、このように盛大な記念式典が開催される運びとなり大変感謝している。平野部から眺める日高山脈は永遠と連なる印象的な山並みが原風景として地域住民の心の拠り所となり深く意識されているほか、公園区域は我が国の陸域最大の面積を誇るもの。今後、自然保護の面からは原生的な自然環境の維持や山岳から海まで連続した生態系の維持を、観光振興の面からは安全対策や登山ルールの周知、インバウンドへの対応など専門的な知見を有する皆様の力を借りながら、国立公園指定が地域活性化につながることを期待している」と述べた。

 この後、来賓の鈴木宗男参議や佐藤英道衆議、船橋利実参議、中川郁子衆議、山岡達丸衆議、石川香織衆議が祝辞を述べた。

 また、環境省の帯広自然保護官事務所の山北育実自然保護官は、13市町村から見た日高山脈襟裳十勝国立公園の魅力などを紹介。

 記念講演では、北海道大学大学院農学研究院の中村太士名誉教授が「日高山脈襟裳十勝国立公園の魅力」をテーマに専門的に解説した。

https://hokkaido-nl.jp/article/34753


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