京都新聞1/20(土) 19:10配信
京都府精華町の国立国会図書館関西館で閲覧した731部隊の平澤正欣軍医の博士論文には不自然な点がある。当時の学術論文でも実験にサルを使う場合、通常は「タイワンザル」などと特定して書く。「特殊実験」とは人間にペストを感染させた生体実験だと、複数の研究者が指摘している。
平澤軍医は戦死したが、終戦後の1945年9月、京都帝国大医学部は博士号を授与した。医学者を派遣するだけでなく、軍医らに博士号を出す学術的権威の仕組みとして帝国大学は731部隊を支えた。軍事機密の判を押され、公開されなかった学術論文。
京大に対し、人道に反した不正な論文だとして、今月にも「731」学位検証を求める会を設立する準備が、京滋で進められている。
京都帝大医学部4年の時に731部隊長石井四郎の講義があったと、昨年105歳で亡くなった日野原重明・聖路加国際病院名誉院長は何度か語ってきた。「細菌、ウイルスを食事や動物を介して患者に感染させて、何週間で熱がこのように出て、脳死を起こして死んでしまうというグラフなどもありました」(2012年「医師のミッション-非戦に生きる」)
731部隊の実態を知る元隊員は戦後73年を経て、もう少ない。だが、歴史的な資料を次代に継ごうとする人はおり、貴重な資料が京都にもある。
立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)に09年、「竹澤正夫資料」が遺族により寄託された。731部隊員の生活や武道日誌。極秘印が押された「野戦防疫給水部勤務ノ参考」。ノモンハン事件に731部隊が出動、銃撃され重傷を負うなどした「国境事変出動日誌」もあった。
中でも戦友会誌のため戦後寄せられた北條円了軍医大佐の書簡と直筆原稿は貴重だ。ドイツで細菌学も研究した東京帝国大医学部卒。731部隊でチフス研究をした経過を述べ、敗戦時にドイツから戻る途中、米国で勾留され尋問された様子も記す。癖のある字で、長文だが、北條軍医は自分が生体実験をしたとは一言も書いていなかった。
竹澤氏は元731部隊員だが、武道師範で太平洋戦争開戦に同部隊を離れている。戦後は警察で武道教師として勤務、戦友会の事務局も務めた。戦中は、研究施設とは遠く、少年隊員の「東郷学校」教育や自治会と、普段の暮らしのあったことが資料から読み取れる。細菌研究と無縁だったからこそ資料を廃棄せず、戦友会活動にも熱心だったのかもしれない。
2006年、竹澤氏は長野県で亡くなった。孫の男性(31)は遺品を整理している時、「石井四郎」とある書簡に気付いた。731部隊は中学生の時に森村誠一氏の「悪魔の飽食」を読んで知っていた。
祖父は戦争の話をせず、祖父が野戦病院で命を取り留めたと祖母から聞かされたぐらい。祖父は几帳面で731資料を封筒で分類し、アルバムには説明も付されていた。「森村誠一さんの731部隊についての本に、祖父は線を引いていました。戦後、複雑な思いだったでしょう。731部隊は施設を爆破し証拠隠滅したとされますが、極秘資料を祖父が持ち帰ったのは奇跡的です」
731部隊の人体実験を巡って論争があり、追及する研究者に「売国」などと匿名の罵倒がネットで飛び交う。身内が負の歴史に関わったことを公にするのは勇気がいったのか、聞いてみた。
「いいえ。自宅で保管するよりも、1次資料を散逸させず、歴史の暗部を探究する人に役立てたい」。孫はデリケートな隊員の個人情報も含む資料に対応できる博物館を全国で探し、平和ミュージアムに行き着いた。(12回続きの8回目)
■【次回】 不失其正。そう書かれた扁額(へんがく)が明治35年築の京大医学部資料館、旧解剖学講堂に掲げてあるという。中国の古典「易経」から、正しさを見失わないことの意。731部隊の系譜をたどり、石井四郎と病理学教室清野教授が出会った大正時代へ、樺太のアイヌ民族の遺骨へとさかのぼる。医学部資料館を訪れると、扁額は修復中で取り外されていた。
http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20180119000140
京都府精華町の国立国会図書館関西館で閲覧した731部隊の平澤正欣軍医の博士論文には不自然な点がある。当時の学術論文でも実験にサルを使う場合、通常は「タイワンザル」などと特定して書く。「特殊実験」とは人間にペストを感染させた生体実験だと、複数の研究者が指摘している。
平澤軍医は戦死したが、終戦後の1945年9月、京都帝国大医学部は博士号を授与した。医学者を派遣するだけでなく、軍医らに博士号を出す学術的権威の仕組みとして帝国大学は731部隊を支えた。軍事機密の判を押され、公開されなかった学術論文。
京大に対し、人道に反した不正な論文だとして、今月にも「731」学位検証を求める会を設立する準備が、京滋で進められている。
京都帝大医学部4年の時に731部隊長石井四郎の講義があったと、昨年105歳で亡くなった日野原重明・聖路加国際病院名誉院長は何度か語ってきた。「細菌、ウイルスを食事や動物を介して患者に感染させて、何週間で熱がこのように出て、脳死を起こして死んでしまうというグラフなどもありました」(2012年「医師のミッション-非戦に生きる」)
731部隊の実態を知る元隊員は戦後73年を経て、もう少ない。だが、歴史的な資料を次代に継ごうとする人はおり、貴重な資料が京都にもある。
立命館大国際平和ミュージアム(京都市北区)に09年、「竹澤正夫資料」が遺族により寄託された。731部隊員の生活や武道日誌。極秘印が押された「野戦防疫給水部勤務ノ参考」。ノモンハン事件に731部隊が出動、銃撃され重傷を負うなどした「国境事変出動日誌」もあった。
中でも戦友会誌のため戦後寄せられた北條円了軍医大佐の書簡と直筆原稿は貴重だ。ドイツで細菌学も研究した東京帝国大医学部卒。731部隊でチフス研究をした経過を述べ、敗戦時にドイツから戻る途中、米国で勾留され尋問された様子も記す。癖のある字で、長文だが、北條軍医は自分が生体実験をしたとは一言も書いていなかった。
竹澤氏は元731部隊員だが、武道師範で太平洋戦争開戦に同部隊を離れている。戦後は警察で武道教師として勤務、戦友会の事務局も務めた。戦中は、研究施設とは遠く、少年隊員の「東郷学校」教育や自治会と、普段の暮らしのあったことが資料から読み取れる。細菌研究と無縁だったからこそ資料を廃棄せず、戦友会活動にも熱心だったのかもしれない。
2006年、竹澤氏は長野県で亡くなった。孫の男性(31)は遺品を整理している時、「石井四郎」とある書簡に気付いた。731部隊は中学生の時に森村誠一氏の「悪魔の飽食」を読んで知っていた。
祖父は戦争の話をせず、祖父が野戦病院で命を取り留めたと祖母から聞かされたぐらい。祖父は几帳面で731資料を封筒で分類し、アルバムには説明も付されていた。「森村誠一さんの731部隊についての本に、祖父は線を引いていました。戦後、複雑な思いだったでしょう。731部隊は施設を爆破し証拠隠滅したとされますが、極秘資料を祖父が持ち帰ったのは奇跡的です」
731部隊の人体実験を巡って論争があり、追及する研究者に「売国」などと匿名の罵倒がネットで飛び交う。身内が負の歴史に関わったことを公にするのは勇気がいったのか、聞いてみた。
「いいえ。自宅で保管するよりも、1次資料を散逸させず、歴史の暗部を探究する人に役立てたい」。孫はデリケートな隊員の個人情報も含む資料に対応できる博物館を全国で探し、平和ミュージアムに行き着いた。(12回続きの8回目)
■【次回】 不失其正。そう書かれた扁額(へんがく)が明治35年築の京大医学部資料館、旧解剖学講堂に掲げてあるという。中国の古典「易経」から、正しさを見失わないことの意。731部隊の系譜をたどり、石井四郎と病理学教室清野教授が出会った大正時代へ、樺太のアイヌ民族の遺骨へとさかのぼる。医学部資料館を訪れると、扁額は修復中で取り外されていた。
http://www.kyoto-np.co.jp/education/article/20180119000140