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アイヌ文様の小物開発 白老の福祉施設 町のPR狙う

2018-01-02 | アイヌ民族関連
北海道新聞01/01 22:00 更新
 【白老】アイヌ文様をデザインした缶バッジとマグネットを生活介護事業所「愛泉園」(町竹浦)が開発した。町内で整備が進むアイヌ文化復興の拠点「民族共生象徴空間」の2020年開設に向けて、新たな白老土産として売り出す方針。白老町をPRするとともに施設で働く障害者の工賃アップを図りたい考えだ。
 缶バッジとマグネットには北海道や白老町にゆかりのあるヒグマやシマフクロウ、白老牛などの動物の絵とアイヌ文様のモレウ(うずまき)やアイウシ(とげ)をあしらった。デザインはいずれも20種類。愛泉園の丸山貴俊支援係長が図柄を考案し、町内のアイヌ民族博物館に監修してもらった。
 愛泉園は社会福祉法人白老宏友会が運営し、現在は知的障害者25人が通っている。アイヌ文様をデザインした商品の開発製作には利用者の半数以上が携わり、一つ一つ手作りしている。
 グッズ販売の収益は利用者の工賃に還元するほか、郷土色豊かな商品作りに取り組むことによって、利用者に社会とのつながりを感じてもらう狙い。製作を指導する担当職員は「利用者の目の輝きが違い、いつも以上に一生懸命作業している」と話す。
 缶バッジとマグネットは1個200円。アイヌ民族博物館や町内のホテル、観光協会など6カ所に設置したカプセル玩具の自動販売機で試験販売しており、試作中のTシャツやトートバッグもグッズに加えた上で本格的な販売に乗り出す方針だ。丸山さんは「デザインを増やしながら人気があるものを見極めて、商品を拡充したい」と話している。(田鍋里奈)
※アイウシの「シ」は小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/154634

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北海道命名150年 節目の年、イベント多彩

2018-01-02 | アイヌ民族関連
北海道新聞01/01 05:00
 新年を迎えた1日、北海道は命名から150年の節目となった。道や経済団体、北海道アイヌ協会などでつくる「北海道150年事業実行委員会」は8月の記念式典をはじめ、年間を通して多彩なイベントを企画する。各地でも官民を挙げて関連行事や取り組みが予定されており、先人が積み重ねてきた歴史を振り返り、未来を見つめるメモリアル・イヤーとなる。
 2018年は、政府が蝦夷地(えぞち)の名称を北海道と定めた1869年(明治2年)から150年目。実行委は、その由来となる「北加伊道(ほっかいどう)」を政府に提案した幕末の探検家松浦武四郎を記念事業のキーパーソンに選んだ。6回にわたる蝦夷地調査で、アイヌ民族と心を通わせた武四郎の生きざまを通し、「共生」の精神を発信したい考えだ。
 記念事業は1月以降、道内各地でめじろ押しだ。北海道150年を盛り上げるキックオフイベントとして、札幌モーターショー(19~21日)などの会場でPRブースを設けるほか、2月5日には女優吉永小百合さんらが出演する映像と音楽の祭典「キタデミー賞」を開催する。
残り:252文字/全文:709文字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/154582

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TVアニメ『ゴールデンカムイ』、新春ゴールデンスタッフ対談を公開

2018-01-02 | アイヌ民族関連
ニフティニュース2018年01月01日 12時00分 マイナビニュース

画像提供:マイナビニュース
2018年4月からの放送開始が予定されているTVアニメ『ゴールデンカムイ』より、新春ゴールデンスタッフ対談として、難波日登志監督とシリーズ構成の高木登氏による対談の模様が公開された。
○●新春ゴールデンスタッフ対談 [監督]難波日登志?[シリーズ構成]高木登
――初めて原作コミックを読んだときの印象はいかがでしたか?
難波 実は監督の仕事を依頼いただく前から、知人に勧められて読んでいたんです。冒険あり、友情あり、グルメあり、ギャグもあればグロいシーンまである、ごった煮な内容で、本当に面白かったですね。でも、そのときは単なるいち読者でしたし、読みながらアニメ化のハードルはかなり高そうだと感じていたので、まさか自分に監督の話が来るとは思ってもいませんでした(笑)。
高木 作品の存在は知っていて、いつか読みたいと思っていたのですが、実際に読んだのは今回のお仕事をいただいてからです。とにかく面白いのひと言に尽きます。僕は活劇をやりたい人間なので、自分がやりたいことがすべて詰まっている漫画だと思いました。
――アニメ化するうえでポイントだと思われたのは、どんなところでしょう?
難波 キャラクターの描き方や世界観を構成するディテールも含めて、作品のコアな部分をいかに忠実に映像化するかですね。アイヌの文化ひとつとっても野田(サトル)先生がよく調べて描かれているので、そこはアニメでも嘘はつけません。とはいえ、僕らはアイヌの存在自体は知っていても詳しい文化までは知りませんから、野田先生とお話させてもらうだけでなく、北海道まで取材に行ったり監修の中川(裕)先生にご協力いただいたりして、少しずつ勉強をしながら制作を進めています。
高木 やはり原作の良さを削がないことですね。これは本作だけに限らず、原作ものをやらせていただくときはいつも意識していることです。ただ、決められた話数のなかでシリーズ構成をするとなると、原作そのままというわけにはいかない部分も出てきます。そこはいつも頭を悩ませるところです。
難波 あの盛りだくさんな内容をギュッと濃縮して、TVアニメのシリーズに落とし込む作業ですからね。
高木 具体的にどうしたかは今の段階では話せませんが、大変でした(笑)。
――シリーズ構成をまとめるにあたって、難波監督と高木さんの間ではどのようなやりとりがあったのですか?
難波 まずは高木さんに叩き台となる構成案を上げていただいて、それをもとにお互いに意見を出し合っています。長編の漫画をアニメにしようとすると、内容の取捨選択が必要なところも出てきますので、この部分はもっと膨らませましょうとか、逆にここは少し削りましょうといったやりとりはけっこうやっていますね。
高木 最初の段階では入れていたけど、何度かやりとりを重ねるなかでやむなく落としたものもありますよね。とにかく原作が非常によくできていて、たとえ細かな描写であっても、それがのちの展開に必ず影響を与えているんです。ですから、削った場合は必ずどこかに歪みが生まれてしまう。そこの辻褄を合わせる調整が大変で。
――1話あたりの情報量も相当多くなりそうですね
高木 元の原作からしてそうですからね。普通はアクションが多めの作品だと、1話あたりに盛り込める原作の話数がけっこう多かったりするんです。ページ数を使ってアクションを見せる漫画と違って、映像のアクションは時間がスピーディーに流れますので。でも、この作品はその考えが通用せず、読み通りにいかないことが多いです。単なるアクションものに収まらない作品ですね。
――埋蔵金を巡るアクションやサスペンスだけでなく、歴史やグルメといった、いろんなジャンルの魅力を備えた作品ですからね
高木 僕はジャンルミクスチャーが好きなので、『ゴールデンカムイ』のごった煮感は非常に楽しいです。
難波 象徴的な言葉として「一攫千金サバイバル」とは言ってますけど、それだけじゃないですからね。当時を生きた人やアイヌならではの感性だったり、個性的なキャラクターの変態性までもがギュッと詰まってますから(笑)。その変態的なキャラクターにしても、背後にはそうなるに至った理由があって、そんな彼らが争いを繰り広げるところに面白さがあるんです。高木さんの手腕でそこをうまくまとめ上げていただいているので、あとは僕らがどう映像に落とし込むかですね。
高木 恐縮です。
難波 いえいえ、今回は高木さんと組むことができて本当に良かったです。正直な話、アニメ化を意識して原作を読み直したときは、このボリュームをどうまとめたらいいのか?と不安になりましたから。そこに光が差したのは、やっぱり高木さんが上げてくださった第1話のシナリオを読んだときなんです。高木さんの話にもありましたが、最初は1話あたりの分量を読むのが本当に難しかったので。
高木 アニメの場合、普通は同じ時間の実写映像に比べてシナリオに盛り込める分量が多いんですよ。今回はアクション描写も多いので、そのあたりも踏まえて書いたんですけど、最初は全然多かったですよね。
難波 ええ。いざ絵コンテにしてみたら、シナリオの内容がなかなか収まらなくて苦労しました。こっちで絵的に必要だと思う描写を足しちゃうせいもあるんですけど、それにしても入れるべき要素が多くて。自分のペースで読み進める漫画と違って、アニメはリアルタイムでどんどん状況が進んでしまうので、観る人が置いてけぼりにならないようにする段取りもある程度必要ですからね。でも最初の苦労があったおかげで、今は1話あたりの分量がなんとなくつかめてきています。
――野田先生とやりとりをする機会もあったのですか?
難波 ええ。最初にご挨拶も兼ねて打ち合わせをさせていただいたのですが、そのときにアニメ化にあたっての要望をお聞きしています。直接お会いできたことで、野田先生が『ゴールデンカムイ』という作品にいかに心血を注いでいるかが伝わってきましたし、いい加減なものは作れないぞ!といい意味でプレッシャーにもなりました。その後もシナリオやコンテが上がるたびにお見せして、気になるところは指摘していただいています。
高木 シナリオ会議に出席されている担当の編集者さんを通じてご意見をいただいていますが、シナリオに関して言えば、今のところそんなに細かな指摘はないです。第1話のシナリオを読まれたときに、これなら大丈夫と信用していただけたのです。それだけに、こちらとしてはプレッシャーを感じます。
難波 野田先生のチェックは、主に絵に関わる部分が多いですね。当時の三十年式歩兵銃の扱い方にしても、絵コンテで描いたアクションの流れが実技と少し違っていたりすると、ちゃんと指摘してくださるんです。僕たちもそれなりに調べてはいるのですが、野田先生のレベルにはなかなか追いつけません。他にもシチュエーションに対してキャラクターの表情が合っているかなど、本当に細かなところまで見てくださってます。
――杉元(佐一)役に小林親弘さん、アシリパ役に白石晴香さんの出演が発表されています。どういった経緯でキャスティングが決まったのでしょうか?
難波 杉元はこの作品を引っ張る主人公ですから、有名無名に関わらずたくさんの方をオーディションさせていただきました。そのなかから小林さんを選んだ理由としては、彼が一番杉元のイメージに近かった、という一言に尽きます。当初はもっとキャリアのある、いかにも主人公だぜ!という方もありだと思っていたんですけど、野田先生に教えていただいた杉元の年齢が想像以上に若かったんですよね。それで二十代前半ならもうちょっと若めの声質がいいかな?と軌道修正をしつつ選考を進めていくなかで、小林さんの朴訥とした素の部分が印象に残りまして。それにアニメ作品への出演がまだそれほど多くないので、露出が少ないぶん観る人の先入観もあまりないでしょうし、この先の伸び代もかなりあるだろうと。業界的に男性の若手声優で男臭くていい声を出せる人って、そう多くないんです。この作品には一癖も二癖もある濃いキャラクターがたくさん登場しますが、そのなかで小林さんの声は杉元をしっかりと立ててくれる魅力を持っていると思います。
――アシリパについてはどうでしたか?
難波 実はアシリパのキャスティングが一番悩みました。アイヌの少女なので普通の女の子とは違う存在感が欲しいし、父親の教えで森の中で生きる術を知っているとなると凛とした、たくましさもある程度は欲しい。加えて、美味しい料理を食べたときは「ヒンナ、ヒンナ(アイヌ語で感謝を表す言葉)」と相好を崩すような可愛らしさとか、都会的ではない純朴さも必要です。とにかくいろんな要素を持ったキャラクターなので、オーディションもかなり難航しました。実年齢に合った子役の方を呼んだりもしたのですが、最終的に我々が求めるイメージに高いレベルで応えてくれたのが白石(晴香)さんだったんです。
高木 PVで初めてキャラクターの声を聴きましたが、どちらも新鮮な感じがして良かったです。杉元もアシリパも、すごくイメージに合った声でしたし。
――映像を観たあとだと、シナリオを書くときにキャラクターのセリフがキャストの声で再生されたりもするんですか?
高木 それはあります。だから欲を言うと、シナリオに入る前にキャラクターの声を知りたい。僕は舞台も書いているんですけど、舞台のときは当て書き(配役をあらかじめ決めて戯曲を書くこと)なんです。アニメでもそれができるとありがたいんですけどね(笑)。
――とくにチャレンジと言えるような試みはありますか?
難波 ヒグマを3Dで表現していることでしょうか。原作を読むとわかると思いますが、この作品におけるヒグマって特別な動物なんです。それで人間とはまったく違う存在感を出したいと思い、3Dで程よい異物感を出す表現にチャレンジしています。手描きの作画だと芝居に描き手の感情が出ますし、原作のように毛並みをびっしり描くのも難しいですからね。とはいえ、純粋に3Dだけで表現すると世界観にそぐわない部分も出てくるので、そうならないような落とし込み方を模索しながらやっています。
高木 その点、シナリオは無責任なものです。とにかく書いてしまいさえすれば、あとは監督をはじめとしたスタッフが映像化してくれる(笑)。先ほど話した情報量の多さはチャレンジと言えるかもしれませんが、それがどうなるかは僕も出来上がったものを観るまでわからないですし。
難波 膨大なボリュームの原作をTVアニメのシナリオにまとめるだけでも、けっこうなチャレンジだと思いますよ。だいたい高木さんがそれをやってくれないと、僕たちは作品を作れないんですから(笑)。
――高木さんとしては、完成した映像のどんなところが気になりますか?
高木 やはり残酷描写の部分ですね。僕はホラー映画が大好きなので、シナリオでもゴア描写を喜々として書きましたけど、果たしてどこまで映像化できるのか(笑)。ぜひギリギリまで攻めてほしいですね。
難波 上の人たちの様子をうかがいつつ、できる限りのことはやりますよ(笑)。この作品をやる限り、避けては通れない部分ですしね。そういえば、アニメ化決定の情報と一緒に出したコメントで「チャレンジ」という言葉を使ったら、普通なら放送できない表現の映像化に挑む、みたいな捉えられ方をされてしまって。もちろんそこも気になるところだと思いますが、この作品はそれだけじゃないですからね(笑)!
高木 言ってしまえば、この作品をアニメ化すること自体が相当なチャレンジですよね。
難波 そうなんです。実際にやってみて、それは身に染みて感じています。
――アイヌの文化や銃器の表現にあたっては、監修や設定のスタッフに各方面のスペシャリストが名を連ねていますね。原作の読者にとっては、アイヌ語の小書きになっている部分の発音がどうなるかも気になるところだと思います
難波 アイヌ語の発音はあらかじめテープに録ったものを用意して、キャストにはそれを聴いて覚えてもらっています。あとは、各々が芝居にどう落とし込むかということになりますね。言葉だけでなくアイヌが使う小物にしても、原作の段階でかなりしっかり描かれていますが、映像として動かすとなるとまた違った情報が必要だったりもします。なので、ひとつずつちゃんと監修を受けた上で描いているんです。それにアニメは集団作業で制作するものですから、誰にでも描ける設定でないといけません。その調整にもけっこう時間をかけています。
――動物の設定にまで専門のスタッフを立てているのに驚きました
難波 基本の設定はちゃんとしておきたいということで、今回は漫画家でイラストレーターとしても活躍されている墨佳(遼)さんにその作業をお願いしています。とにかく動物を描くのがめちゃくちゃうまい方で、上がってきたものを見たときは、この人に頼んで良かった!と思いました。
高木 僕はまだPVしか観ていませんが、監督のお話を聞いていると、第1話の完成が本当に楽しみです。
難波 ありがとうございます。あとは美術にも期待していただきたいですね。今回は美術監督には森川(篤)さんを指名させていただいたのですが、個人的に自然を描かせたら業界でも五本の指に入る方だと思います。この作品は北海道の自然も絵としておろそかにできない部分ですし、ちゃんとその表現と向き合える方にお願いできたのはラッキーでした。
――お話を聞いて、アニメの完成がますます楽しみになりました。最後に、ファンに向けてメッセージをお願いします
高木 原作ものを手がけるときにいつも思うのは、原作ファンの方と原作に対する愛情やリスペクトを共有したい、ということです。今回もそうありたいですし、その気持ちをシナリオにしっかりとこめたつもりです。ぜひ期待していてください。
難波 お話させていただいた通り、まだまだやらなきゃいけないことやチャレンジしないといけないことが山積みの状態です。それらをひとつひとつ具現化させて、ファンの皆さんに最高の形で届けたいと思っています。2018年は『ゴールデンカムイ』で突っ走りますので、ぜひ楽しみにしていてください!
TVアニメ『ゴールデンカムイ』は、2018年4月よりTOKYO MXほかにて放送開始予定。公式サイトでは、難波日登志監督直筆による新年の抱負「書き初め」を公開中。2018年1月7日(日)までの期間限定公開となるので、早速チェックしておきたい。また、2018年新年のご挨拶画像のプレゼントも行われているので、こちらも注目しておきたい。
(C)野田サトル/集英社・ゴールデンカムイ製作委員会
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薬剤師が絶賛してる「体重がスルッと、神ダイエット法」が話題にPR
「ゴールデンカムイ」の記事
とんでもない漫画の休載理由として、木多康昭氏の『重力が重すぎるため』
https://news.nifty.com/article/entame/mycom/12158-1709711/

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「神聖な方角」が存在、アイヌ文化萌芽は擦文期

2018-01-02 | アイヌ民族関連
読売新聞2018年01月01日 20時36分

 北海道厚真町の厚真川上流域で行われた15年にわたる発掘調査で、13世紀頃に始まったとされるアイヌ文化期の萌芽ほうがが、約200年前の擦文さつもん文化期に芽生えていたことが分かった。
 共通する習俗が複数確認されたためで、研究者らはアイヌ文化の成立過程の解明につながる成果として注目している。
 発掘されたのは22遺跡。このうち、上幌内モイ遺跡では、10世紀後半から11世紀前半の擦文文化期の段階で、後のアイヌ文化期にみられる「神聖な方角」の存在が明らかになった。住居跡や儀礼の跡の配置を分析することで判明した。
 また、住居から見て神聖な方角にあたる場所でシカの霊を送る儀礼を行ったとみられる跡が、オニキシベ4遺跡の擦文文化期(12世紀)の遺構と、オニキシベ2遺跡のアイヌ文化期(14世紀)の遺構で確認された。
(ここまで357文字 / 残り431文字)
http://www.yomiuri.co.jp/culture/20180101-OYT1T50027.html

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日本の伝説を調べたら、驚きの「縄文世界」が浮かび上がってきたこれまでにない列島文化論

2018-01-02 | アイヌ民族関連
現代ビジネス 1/1(月) 13:00配信 瀬川 拓郎

 船を住まいとした漂海民、山中に庵を結んだ箕づくり、放浪する芸人や修験者――日本列島の周縁には、つい数十年前までさまざまな漂泊民が生きてきた。かれらに心惹かれるのは私だけではないだろう。「私たちの知らぬところに、私たちとは別の世界が存在」してきたという民俗学者の宮本常一の言葉に、どれほど胸をときめかせたか。
 かれらの漂泊性、呪能、芸能は、しばしば縄文と結びつけて語られてきた。はたしてそうなのか。縄文文化の終焉から二千年以上経つ。それは根拠の薄弱な、縄文に仮託されたロマンにすぎない。考古学の研究者である私はそう考えてきた。その私が今回、海辺、北海道、南島という列島の周縁や漂泊民のなかに縄文の思想が生き残ってきたという、『縄文の思想』(講談社現代新書)を上梓することになった。
 本書の核をなすのは、周縁の人びとが共有してきた縄文神話の議論だ。数年前の私なら、縄文神話という言葉を聞いただけで強いアレルギー反応を示しただろう。考古学は物証による確認が困難な問題に強い自制を働かせる学問だからだ。そのような課題にあえて挑戦しようと思ったのは、ひとつの衝撃的な発見がきっかけだった。
 ある日、アイヌの神話・伝説を調べていた私は、おもわず目を見張った。そこには『古事記』『日本書紀』『風土記』の海民伝説と共通するモティーフがいくつもあったのだ。なぜ神話・伝説が共通するのか。なぜ古代海民とアイヌなのか。これまで誰も指摘したことのないこの事実の発見が、二千年を生き抜いた縄文という、予想もしなかった結論へ私を導くことになった。
 海の神のサメやシャチが、高山の山頂に坐す山の女神のもとへ往還する――古代海民とアイヌに共通する伝説のひとつだ。この伝説はかれらの他界観を反映していそうだ。というのも、かれらの他界は地下にあり、海辺の洞窟を入口とし、高山山頂を祖霊や神の世界への出口とするからだ。つまりこの伝説は、生者である海の神が山頂に坐す亡き妻を訪ねる、他界への往還伝説とみられる。
 この気づきは強力な磁場となり、さまざまな事実を引き寄せていった。たとえば、海と山を往還する祖霊や神の世界観、洞窟を他界の入口とする観念は南島にも存在する。
 興味深いことに、この同じ他界観を共有する海民、アイヌ、南島の人びとは、縄文習俗のイレズミ、抜歯、縄文人の形質的特徴を弥生時代以降も長くとどめた。共通する伝説についても、縄文起源の伝説と考えてみることができるのではないか。
古代海民とアイヌ、ふたつの結びつき
 海辺の洞窟と山頂を結ぶ他界伝説は、山形県羽黒山のほか新潟、富山、長野、神奈川、島根など各地の修験道の道場でも語られていた。他界の出口を山頂の沼とする修験者の観念は、アイヌのそれと一致する。かれらもまた縄文の世界観を伝えていたのではないか。
 農耕民は、山の女神が平地の田畑と山を往還すると考えていた。この二元的な世界観は、海と山の神の往還という縄文の二元的な世界観の構造的な変容であり、海の神を失った山の女神がひとり平地へ往還する存在になったことを意味しているのではないか。山の女神に海魚を供える奇妙な習俗はその名残だろう。
 弥生~古代の海民は、強い呪術性を帯びていたことが考古学的に明らかになっている。なかには呪術者の卜部として古代の王権に仕える者もいた。縄文人の形質的特徴を古墳時代までとどめた南九州の隼人もまた、呪能と芸能によって王権に奉仕した。
 強い呪能で注目されたのは古代アイヌも同じだ。かれらの呪能と芸能は、海と山、彼岸と此岸を往還して人びとを祝福するまれびと神の世界観、すなわち縄文の世界観に由来するものだったのではないか。
 『縄文の思想』では、周縁の人びとの生を律してきた自由と平等も縄文の思想であり、それがいまなお海辺の人びとのなかでアクチュアルな意味を担っている事実、つまり縄文の現在性についても論じた。
 縄文の思想は、農耕民化と市場経済をなぜ・どのように生き残ったのか。縄文の思想はなぜ暴力を帯びたのか。土着思想の自由と平等とはどのようなものか。その答えは、網野善彦の海民論と折口信夫のまれびと論を考古学と神話で接合しながら縄文に遡及しようとする、これまでにない列島文化論の本書でご確認いただきたい。
 読書人の雑誌「本」2017年12月号より
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180101-00053796-gendaibiz-bus_all&p=1

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アイヌとの共生 願い込め「北加伊道」

2018-01-02 | アイヌ民族関連
毎日新聞 2018年1月1日
北の大地 名付け親 松浦武四郎
 春を待つ浜辺に、さざ波が静かに広がる。かつて北前船の寄港地として栄えた北海道江差町。ここに江戸末期から明治にかけての探検家、松浦武四郎(1818~88年)が降り立ったのは1845(弘化2)年4月のことだ。
 「ロシアが蝦夷地に進出しようとしている」。伊勢国(三重県)の郷士(ごうし)の家に生まれ、10代から見聞を広めようと諸国を行脚していた武四郎。そんなうわさ話を海外との交易があった長崎で耳にし、当時未開とされた北の大地に目を向けたのがきっかけだった。以来、樺太(現サハリン)を含め、計6回にわたって各地を訪ね歩いた。
 道案内をしたのは先住民であるアイヌの人たちだった。「武四郎は社交的で、人とのつながりを大切にした人。調査を通じて出会ったアイヌの人たちと、次第に心を通わせていったのでしょう」。武四郎が常宿とした江差の豪商、斉藤家の子孫で、函館市在住の郷土史家、斉藤裕志(ひろし)さん(69)は思いをはせる。
 武四郎はその後、明治政府の開拓使の開拓判官に任ぜられ、蝦夷地に代わる新たな名称を政府に進言した。そこで六つ挙げたうちの一つが「北加伊道(ほっかいどう)」。「カイ」はアイヌ語で「この地に生まれた者」を意味し、「北にあるアイヌの人たちの暮らす大地」の意。それが採用され、「加伊」を「北の海」である「海」に変えて命名されたのが、1869(明治2)年のことだった。今年はそれから150年目。その名には、武四郎のアイヌの人たちへの深い思いやりと、共生への願いが込められている。【袴田貴行】
探検6回 開拓の礎築く
 松浦武四郎が初めて見た北海道は、乾燥した河原がどこまでも続くような荒涼とした大地だった。流木や倒木が行く手を阻み、うっそうとした林の中では蚊やアブの大群に襲われ、往生した。
 前後6回にわたった探検で、武四郎は最後から3回は江戸幕府の幕吏として正式な命を受けたが、最初から3回は、いわばロシアの南下政策に危機感を抱いた「憂国の志士」としての個人の活動だった。その一人の若者の意志に共鳴し、支援したのが、函館市の郷土史家、斉藤裕志さん(69)の先祖に当たり、江差の町年寄を務めていた佐八郎(1803~78年)だった。
 「北前船交易で栄えた江差は、本州から来る人を歓待する空気があった。地方に住む人々にとって、武四郎のように諸国を行脚し、各地の事情に詳しい人物との交際は楽しかったのだろう」と話す。
武四郎の探索ルート
蝦夷日誌全35巻 
 当時の蝦夷地は、松前藩があった渡島半島を松前地、内浦湾沿岸部から知床に至る南半分を東蝦夷地、北半分を西蝦夷地、樺太(現サハリン)を北蝦夷地と、大きく四つに分けて呼ばれていた。武四郎はまず東蝦夷地を目指し、最初の1845(弘化2)年に海岸線を馬や丸木舟を使って知床まで踏破。翌年には樺太勤務となった松前藩医の従者として一緒に船で渡り、それからオホーツク海沿岸を回って、2年がかりで道内を一周した。3回目の49(嘉永2)年には、松前商人の手船で函館から択捉・国後両島へ渡航。それぞれ「初航」「再航」「三航」と名付けた「蝦夷日誌」全35巻にまとめ、蝦夷地の海防強化を唱えていた前水戸藩主・徳川斉昭(1800~60年)に献上するなどした。
 幕吏になってからの3回は、3年間にわたって内陸部を精力的に調査。「石狩サッポロ(札幌)領ヲカハルシよりチトセ(千歳)通りユウハリ(夕張)、ソラチ(空知)より上川大番屋へ新道見積り書」など、多くの新道開削の建言書を作成し、現在の道路建設の基礎を作った。
小平町に銅像
 留萌市から日本海沿岸を走る小平町の国道232号沿いの道の駅「おびら鰊番屋」には、この地を4回訪れ、歌を詠んだという武四郎の銅像が建つ。北海道博物館の学芸主幹、三浦泰之さん(43)は「武四郎が残した記録は地形や自然環境などのほか、耕作地や漁場の見立てまで多岐にわたる。まさに北海道開拓の礎を築いてくれたのが武四郎だった」と話す。
アイヌの文化に親しみ
 蝦夷地を探検したのは松浦武四郎が初めてではない。それまでにも最上徳内(1754~1836年)、間宮林蔵(1780~1844年)ら著名な探検家はいたが、道案内をかってくれたアイヌの人たちと寝食をともにし、その生活にも親しんだのは武四郎だけだったようだ。
暮らしぶり漫画に
 武四郎は、アイヌの人たちが捕まえた動物の肉や自ら持参した米やみそなどを互いに分け合い、アイヌの人たちの家「チセ」に泊まったり、時には野宿をしたりしながら、アイヌの暮らしぶりに触れた。アイヌ語も熱心に学び、次第にアイヌの生活様式や独自文化の素晴らしさに気付いていったとされる。
アイヌの伝統的な踊り「鶴の舞」を描いた「蝦夷漫画」=札幌市中央図書館提供
 6回にわたった探検で、武四郎はアイヌの人々の暮らしぶりを伝える多くの記録を残した。その一つが1859(安政6)年に刊行された「蝦夷漫画」で、絵筆で色彩も再現しながら、当時のアイヌの人たちの生活文化を江戸や京都の人たちにも広く理解してもらおうと努めた。また、前年にまとめた「近世蝦夷人物誌」では、アイヌの長寿者や猟の名手のほか、彫刻の名人や踊り上手ら、100人を超える人たちを紹介。中には足が悪くて歩けない人、老親を介護する夫婦の話も取りあげ、同じ人間として分け隔てなく、アイヌの人たちのありのままの姿を親しみを込めて伝えた。
強制労働 抗議
 当時のアイヌの人たちに対しては、松前藩の商人らが漁場での強制労働をさせたり、女性たちに性的虐待を加えたりするなどの理不尽な行為が後を絶たなかった。各地でアイヌの人たちからこうした苦境を訴えられた武四郎は、数々の著作に記して批判。当時の蝦夷地の実態を明るみに出したことは松前藩をいたく刺激したとされる。ついには刺客に命を狙われ、一時、身を隠す生活を強いられたが、自らの信念を曲げなかった。
 武四郎は明治維新後、蝦夷地開発を担う開拓使のナンバー3である開拓判官となり、アイヌの人たちへの搾取や虐待に終止符を打とうと取り組んだが、意見はなかなか聞き入れられず、半年後に辞職。国から与えられた従五位の位階も返上し、以後71歳で死去するまで再びこの地に足を踏み入れることはなかった。
民族を深く理解
 「静かな大地--松浦武四郎とアイヌ民族」の著書のある元北海道大助教授の花崎皋平(こうへい)さん=小樽市在住=は「アイヌ民族を深く知り、その怒りや悲しみに触れて自己変革を遂げた探検家」と評する。【真貝恒平】
https://mainichi.jp/articles/20171228/mog/00m/040/070000c

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総統府前で国旗掲揚式 蔡英文総統が国歌斉唱/台湾

2018-01-02 | 先住民族関連
フォーカス台湾2018-01-01  13:02
(台北 1日 中央社)台北市の総統府前で1日朝、新年の国旗掲揚式が行なわれ、蔡英文総統や陳建仁副総統らが出席した。蔡総統は、ユニバーシアード台北大会の金メダリストや昨年国際サッカー連盟(FIFA)のランキングで過去最高位を更新するなど快進撃を見せたサッカー男子代表らのリードの下で国歌を斉唱。昨年元日の式典と同様、野党・国民党の政治色を反映する「三民主義、吾党所宗」(三民主義はわが党の指針)の部分も避けることなく口を動かした。
蔡総統は国旗が総統府の最上部に掲げられるのを見届けた後にステージに立ち、詰めかけた人々の声援に手を振って応えた。式典参加後に更新したフェイスブックには、「親愛なる国民の皆様、あけましておめでとうございます」と新年のあいさつをつづるとともに、「#2018みんなで幸せに」とハッシュタグを付け、国民の幸福を願った。
会場では高校3校のマーチングバンドによる演奏や、ローラースケートのパフォーマンス、新世代バンドの演奏なども行われた。また、社会福祉団体への寄付証明を台湾製品や朝食と交換できるチャリティー朝市も初開催された。
先住民の団体や独立派による抗議もあり、一部の抗議参加者は警察から会場外に追い出された。
(葉素萍、顧セン、梁珮綺/編集:名切千絵)
http://japan.cna.com.tw/search/201801010001.aspx?q=%E7%B7%8F%E7%B5%B1%E5%BA%9C%E5%89%8D%E3%81%A7%E5%9B%BD%E6%97%97%E6%8E%B2%E6%8F%9A%E5%BC%8F%20%E8%94%A1%E8%8B%B1%E6%96%87%E7%B7%8F%E7%B5%B1%E3%81%8C%E5%9B%BD%E6%AD%8C%E6%96%89%E5%94%B1%EF%BC%8F%E5%8F%B0%E6%B9%BE

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2つの世界をまたにかけるアマゾン奥地の先住民

2018-01-02 | 先住民族関連
afpbb news 2018年1月1日 7:00 発信地:ワイアピ/ブラジル

アマゾンの先住民ワイアピ(Waiapi)がブラジル政府と接触するようになったのは、1970年代になってからだ。彼らは今日に至るまで、欧州人が5世紀前に南米大陸に到達する以前の祖先たちと同じように暮らし、この惑星最大の熱帯雨林との調和を保ちながら暮らしている。
 アマゾン奥深くにある集落マニーリャ(Manilha)をはじめ、外壁のない草ぶき屋根の家々からなる数十の小さな居住地での生活は、一見すると別の時代のもののようだ。
 男性たちは狩猟や漁を行い、胸をあらわにした女性たちはキャッサバを収穫し、火の番をする。幼児から大人まで全員が、心身を守ってくれるとワイアピの間で信じられている天然の染料を体に塗りつけている。
 商店はなく、貨幣も必要ない。ほぼ観光向けの存在と化してしまった他の部族と違って、ワイアピはめったに部外者の訪問を受け入れることはなく、ジャーナリストもその例外ではない。
 しかし外界との距離は、次第に狭まりつつあるようで、変化の兆しはそれほど遠くないところにも表れ始めている。
 あるワイアピの男性は、電波が入ることはなくても腰巻に携帯電話をはさみ、カメラ機能を使って写真を撮影していた。また、今はガソリンが入っていないが、マニーリャには車を所有している男性もいる。森全体に点在するワイアピの集落と連絡を取り合うための太陽光発電を利用したVHFラジオもあり、草ぶき屋根の下からはけたたましい音が響いていた。
 マニーリャは熱帯雨林の奥地に取り残された集落のような印象を与えるが、この場所から出ているこぼこ道を車で走れば、ペドラブランカ(Pedra Branca)の町まで2時間もかからないことを本当は誰もが知っている。
■タイムトラベラー
 約1200人いるワイアピの大半にとっては、ペドラブランカを訪れる機会はほぼ皆無だが、ジャワルワ・ワイアピ(Jawaruwa Waiapi)さん(31)は毎週町を訪れている。2つの世界を行き来するその様子は、まるでタイムトラベラーのようだ。
 うっそうとしたジャングルの険しい丘で育ったジャワルワさんは昨年、ペドラブランカの町議会議員選挙に立候補し、見事当選した。ワイアピから立候補して当選するのはジャワルワさんが初めてだ。彼のように、ワイアピの人々が「白人の領域」と呼ぶ世界にどっぷりと浸かっている存在は非常にめずらしい。
 ぺドラブランカでは、ジーンズにこざっぱりとしたチェックのシャツを着て、デスクの後ろに座っているジャワルワさん。「町では町のルールに従わなければならない。ここでは生活のために金が必要だし、何かにつけて支払いが必要だ」と語り、「村に帰れば金は必要ない。水もタダ、薪もタダだ」と続けた。
 立候補した理由については、町議会に先住民出身者が1人もいなかったからだと語った。それは国会も同じだ。「他に誰がわれわれのために闘ってくれるのですか?」とジャワルワさんは言う。
 鳥たちの大きな鳴き声が響き、太陽の下で日々の暮らしが営まれる集落に戻るとジャワルワさん一家は肩の力が抜けるという。妻のモニンさん(24)は「子どもたちは町での生活が好きではない」と話し、「服を着たり、(川で水浴びをする代わりに)シャワーを浴びたりしなければならないから」だとその理由を述べた。
■心はいつもワイアピ
 4人きょうだいの末っ子である4歳の息子を見下ろしながら、ジャワルワさんは心配そうな表情を見せた。
 ここでは多くの若者が学業のために家を離れるのだが、一度離れてしまった後にちゃんと戻ってくるのか心配なのだ。若者の多くは、就学後に戻るとされる。それでもやはり不安は隠せないようだ。「彼が村を出て、町を気に入るようなことがあれば、ワイアピの文化を身につけようとは思わないでしょう」とジャワルワさんは言う。
 20年間離れていた後に、集落に戻って来たというカルビ・ワイアピさん(57)は「再び完全なワイアピ」になるのに4年かかったとしながら、「世界には多くの悪がある」と語った。
 しかし、ジャワルワさんの助手として定期的にぺドラブランカを訪れているカモン・ワイアピさん(25)にとって、生き延びるために重要なのは、自分が本当は何者かを思い出すことだという。
 町へ向かうAFP取材班の車に同乗したカモンさんは、郊外まで来ると車を降り、赤い腰巻を外してジーンズと革靴、ポロシャツに着替えた。
「よし、白人になったぞ」と冗談交じりに言うカモンさんに対して、服を着るとワイアピではなくなった気がするのかと質問してみた。すると彼は「いいえ、私の中身は何も変わりません」と躊躇なく答えた。(c)AFP/Sebastian Smith
http://www.afpbb.com/articles/-/3152868?cx_part=latest&cx_position=9


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