先住民族関連ニュース

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余録 古里の方言が懐かしくなるころ…

2016-12-19 | アイヌ民族関連
毎日新聞2016年12月19日 東京朝刊
 古里の方言が懐かしくなるころかもしれない。年末年始に久しぶりに帰省する人も多い。岩手県から上京した石川啄木(いしかわたくぼく)が古里なまりを聞きたいと駅に行く。その気持ちは地方出身者にはよく分かる。JR上野駅のホームには、かの有名な歌の碑がある。<ふるさとの訛(なまり)なつかし停車場の……>▲明治以降、政府は国の近代化を目指し、共通語の普及に力を入れた。一方、学校で方言の使用を禁じられた地方もあり、お国言葉の衰退を招く。沖縄では方言を使うと罰として「方言札」と書かれた板切れを首にかけられた▲国連教育科学文化機関(ユネスコ)は消滅の危機にある言語を公表している。世界の言語約6000のうち約2500に上る。日本ではアイヌ語、八重山(やえやま)語、与那国(よなぐに)語、奄美(あまみ)語などだ▲アフリカのケニアは英語とスワヒリ語が公用語だ。教育現場でもこの二つの言語を中心に使う。少数部族の言葉は廃れていく。部族間の交流が進んで共通語の使用が増えたことも影響しているようだ▲悲観する材料ばかりではない。NHKドラマ「あまちゃん」の影響もあるのか、若者の間で方言がよく使われているらしい。仲間意識や自分のよりどころを確かめる意味もあるのだろうか。東日本大震災で被災者は「がんばっぺし」の言葉に励まされた。方言は懐かしいだけでなく、心を動かす力がある▲方言で話すのが恥ずかしく、ためらうことがある。けれど忘れてしまうのは寂しい。<ふるさとの訛りなくせし友といてモカ珈琲(コーヒー)はかくまでにがし>。啄木と同じ東北生まれの劇作家・歌人の寺山修司(てらやましゅうじ)の作品だ。彼は生涯、なまりが抜けなかった。
http://mainichi.jp/articles/20161219/ddm/001/070/065000c


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(政治断簡)領土交渉、アイヌ民族の問い 編集委員・松下秀雄

2016-12-19 | アイヌ民族関連
朝日新聞 2016年12月18日05時00分
 10年前に亡くなった萱野茂さんは、アイヌ民族でただ一人、国会議員を務めた人だ。参議院の会議録を開くと、日本とロシアの北方領土交渉をこう評していた。
 「北方領土はアイヌの国だった。持ち主であったアイヌの頭越しに、おれのだ、おれのだと引っ張り合いしているように聞こえるわけです」
 萱野さんは択捉島の地図を示し、ここには314のアイヌ語地名が載っています、四島の島名もすべてアイヌ語、アイヌ民族の先祖が住んでいたところですと説いた。
    *
 日ロ両国は、アイヌ民族の地に国境線を引いて囲い込んだ。歴史を調べると、彼らがなめた辛酸が浮かぶ。たとえば1884年、日本は北千島の住民を色丹に強制移住させる。生きる糧を失い、病に苦しみ、大半が命を落とす。
 重い民族の原体験。私がその立場なら、日本政府や「和人」側が島々を「日本固有の領土」という時、心穏やかにいられるだろうか?
 萱野さんのあと、もっとも議席に近づいたアイヌの人は民族史研究者の多原香里さん(44)。2007年の参院選では62万票を得た。夫の故郷、スイスで暮らす多原さんに電話してみた。
 「ええ、私も萱野先生と同じ感想です。先住民族のアイヌが領土交渉の蚊帳の外に置かれ、無視されている」
 多原さんも「固有の領土」論に手厳しい。そんな「ありもしない」主張を続けたことが、交渉停滞の一因とみる。代わりに唱えるのが、アイヌ民族が権利を主張し、日本への返還につなげる方法だ。
 アイヌに限らず、過酷な体験を強いられた先住民族。だが、次第に権利が認められてきている。07年に国連で採択された先住民族の権利宣言には、奪われた土地や資源に対する権利が記された。北方領土の先住民族、アイヌが交渉に加わって権利を唱えれば、ロシアも否定しがたいのでは? ロシアは多民族による連邦国家で、憲法に「人口の少ない先住民族の権利を保障する」と書くのだから……。
 「誰のものでもない歯舞群島の小さな島をアイヌに渡し、エコツーリズムの拠点にできたら」と思うけれど、四島を独占するつもりはない。目的は、ともに領土問題の解決にとりくみ、差別や偏見を除くこと。「単一民族国家」かのような意識が残るこの国も多民族・多文化からなりたつ、と知らせることだ。多原さん、いまだ「100%の国民として受け入れられていない」と感じているのだ。
    *
 領土問題を考えると、「日本とは何か」「日本人とは誰か」に突きあたる。
 きっと、返還が実現した時も、同じ問題に直面するだろう。いま島に暮らす人たちをロシアに追い返すとか、言葉や文化を奪って同化するといった乱暴なやり方は、21世紀には採りえない。
 言葉も習慣も違う人を受け入れ、「私たち」という意識を育み、支えあう。多民族・多文化共生へ、意識や仕組みを切り替える。問われるのはその点ではないか。
http://digital.asahi.com/articles/DA3S12711711.html?_requesturl=articles%2FDA3S12711711.html&rm=150

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命名150年目、なぜ「北海道」に? /北海道

2016-12-19 | アイヌ民族関連
毎日新聞2016年12月18日 地方版
松浦武四郎が「北加伊道」と提案
 なるほドリ 2018年で「北海道」と命名されて150年目になるんだってね。
 記者 幕末にロシアの日本進出が進み、国境問題への危機感が高まりました。それまでは国境があいまいだったからです。江戸幕府や明治政府は当時、北海道を蝦夷(えぞ)地と呼んでいました。蝦夷とは中央政権から見て異民族という意味です。日本の領土として明確にするため、名前を改めることになり、1869(明治2)年8月15日の太政官布告で、蝦夷地を北海道とすることが周知されました。
 Q どうして「北海道」になったの?
 A 明治政府の官僚でもあった探検家の松浦武四郎が「北加伊道」という名前を提案しました。松浦は1863(文久3)年にまとめた「天塩日誌」で、「アイヌ民族の長老から『カイ』は『アイヌ』を指すと聞いた」などと記しており、「北加伊道」に「アイヌ民族が暮らす北の土地」という意味を込めたと言われています。ちなみに、「道」は律令国家で全国が東海道や南海道など七道に分けられていたことにならったものです。提案後すぐに、政府は「加伊」を「海」に改め、北海道としました。
 Q へー、そんな意味があったんだね。ところで松浦武四郎ってどんな人なの?
 A 1818(文化15)年に三重県で生まれ、10代のころから日本全国を旅していたそうです。ロシアの脅威を知り、26歳のときに当時はまだあまり知られていなかった蝦夷地を調べることを決意します。58(安政5)年までに計6回調査し、アイヌの人々とも親交を深めました。69(明治2)年に開拓使が設置され、開拓の現地責任者である開拓判官に任命されました。しかし、アイヌ民族への差別や暴力をなくしたいという松浦の訴えが聞き入れられず、翌年に辞職してしまいました。2018年には生誕200年を迎えます。
 Q 北海道という名前が決まった時、アイヌ民族の反発はなかったの?
 A 政府はアイヌ民族にも戸籍を作り、日本国民とした一方、旧土人として差別しました。開拓者に漁場や農地などを独占させたり、優先的に払い下げたりして、アイヌ民族を迫害しましたが、アイヌ側の当時の記録が見つかっておらず、詳しいことは分かっていません。
 Q そうなんだ。150年前の北海道ってどんなところだったんだろうね。
 A 明治以前の北海道の産業は漁業が中心だったため、内陸部は原始林に覆われていました。当初、裁判所などの行政機関は箱館(函館)に置かれていましたが、ロシアへの対応などのため、札幌を開拓の拠点とすることになりました。街の整備は1871(明治4)年に始まり、現在のような碁盤の目の道路や偕楽園、最初の官立学校である資生館などが作られました。
 Q 一から街を作ったんだね。150年目を記念する事業もあるんだってね?
 A 道が「150年道民検討会議」を設置して事業展開を考えており、18年夏ごろに記念セレモニーを行う予定です。今はPR用ロゴマークの選定を行っており、近く三つの最終候補からインターネット投票と審査委員の投票結果で決定します。また、道庁赤れんが庁舎も改修され、館内には松浦武四郎を紹介する展示も企画されています。<回答・今井美津子>
明治維新前後の道内できごと◇
1802年 幕府が蝦夷奉行(のちの箱館奉行)を設置
  45年 松浦武四郎が初めての蝦夷地調査
  54年 日露和親条約を締結
  67年 大政奉還
  68年 明治と改元
  69年
   6月 蝦夷開拓御用掛に松浦を任命
   7月 開拓使を設置
   8月 蝦夷地を北海道と命名。道内を渡島・後志・石狩・日高・天塩・十勝・根室・胆振・釧路・北見、千島の11国86郡に分ける
      開拓判官に松浦を任命
  70年 松浦が開拓判官を辞職
  71年 札幌に開拓使庁を設置
http://mainichi.jp/articles/20161218/ddl/k01/070/176000c

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アイヌ遺骨 返還へ一歩 「盗掘判明すれば」 ドイツの学術団体、保有

2016-12-19 | アイヌ民族関連
毎日新聞2016年12月18日 東京朝刊
 【ベルリン中西啓介】ドイツにあるアイヌ民族の遺骨の返還を北海道アイヌ協会が求めている問題で、遺骨6体を保有する民間学術団体「ベルリン人類学民族学先史学協会」(BGAEU)は、日本で収集された2体を含む計4体の頭骨を初めて毎日新聞に開示した。
 このうち19世紀に札幌で盗掘された記録がある1体に関し、BGAEUは「頭骨が該当のものと判明すれば返還に応じる」と述べた。
 写真撮影なしの条件で開示された遺骨は、額中央と左側頭部に収集者のベルリン大教授ルドルフ・ウィルヒョウの頭文字を取った「RV」の表記と番号が記されていた。「RV33」の遺骨は、ドイツ人旅行者シュレージンガーにより札幌で、「RV34」は「蝦夷」(現・北海道)で収集されたという。残る2体は収集地不明だ。
 シュレージンガーが収集した遺骨は大きさから男性のものと見られ、左の頬骨付近が大きく欠けていた。この遺骨は、1880年の民族学誌に札幌で盗掘された記録がある。
 BGAEU代表のウォルフラーム・シーア・ベルリン自由大教授は盗掘ならば「返還条件の『不当な収集』に当たる」と述べた。一方、遺骨に番号が付けられたのは1912年で取り違えの可能性もあり、確定には調査が必要だという。
 シーア代表は「調査予算は我々にはなく、日本政府が行う」と述べる一方、日本からの専門家派遣などに協力する考えを示した。
 北海道大アイヌ・先住民研究センターの加藤博文教授(考古学)は「海外にあるアイヌ遺骨返還の先例となり得る大きな一歩だ」と評価。先住民族の尊厳回復という観点から「収集の不当性が証明できない遺骨も返還請求がなされるべきだ」とも指摘している。
http://mainichi.jp/articles/20161218/ddm/041/040/098000c

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豊かな自然、アイヌ文化=北方四島の価値訴え―「早期に交流道筋を」・研究者

2016-12-19 | アイヌ民族関連
時事通信社 2016年12月17日 04時38分 (2016年12月17日 23時57分 更新)
 北方四島は手付かずの豊かな自然が残り、アイヌ文化の歴史を知る上でも重要な意味を持つ。しかし、領土問題の影響で調査や保全は十分進んでおらず、研究者らは渡航制限の緩和など交流拡大を期待する。
 ロシア側研究者と合同で動植物の分布調査を続けているNPO法人「北の海の動物センター」代表の大泰司紀之さん(76)によると、北方四島は流氷の南限域に当たり、サケやカニなど豊かな海洋資源とそれをえさにする海鳥や海獣類、ヒグマなどの貴重な生態系が保たれている。専門家の査証(ビザ)なし渡航が許可された1999年までは、研究者も立ち入れない「秘境」だったという。
 大泰司さんは「交流が進んだとはいえ、期間や機材の制限も多い。自由に調査できるようになれば冬場の生態系など新たな研究ができる」と話す。「鉱山などの経済開発や密漁、乱獲の影響は十分情報が得られておらず、早急な調査と保全が必要だ」と強調。国連教育科学文化機関(ユネスコ)の世界自然遺産になっている「知床」の範囲を北方領土周辺まで広げる運動に賛意を示し、「日ロ双方の専門家で適切に管理できる体制構築が望ましい」と期待した。
 アイヌ民族に伝わる言語や文化に詳しい北海道大アイヌ・先住民研究センター准教授の丹菊逸治さん(46)は「四島の名前からも分かるように、アイヌとの関わりは深い」と話す。明治以降の開拓で北海道東部などに移住させられ、終戦時点のアイヌの島民はわずかだが、子孫や交易で訪れていた人などゆかりを持つ人は多いという。
 ただ、文化人類学の分野で日ロの共同調査は行われた例がなく、研究は思うように進んでいない。丹菊さんは「アイヌ文化は居住地と切り離せない。一緒に現地に行かないと分からなかったり、明かしてもらえなかったりすることも多い」と話す。
 ビザなし交流は、終戦前に島を離れた人は対象外とされ、渡航制限が調査の妨げとなっている。「世代を重ねる中で失われる文化もある」と危機感を募らせる丹菊さん。「すぐの返還は難しくても、アイヌが自由に先祖の土地を訪れられる日が早く来るよう願っている」と訴えた。
http://www.excite.co.jp/News/politics_g/20161217/Jiji_20161217X053.html

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