nippon.com-[2016.12.19] 山本 芳美【Profile】
日本の入れ墨は、出現や消失を繰り返し、江戸時代に形も美しさも大きく発展する。その知られざる歴史をひも解く。
古代から日本各地で習慣とされたイレズミ
皮膚に傷をつけて色素を入れ、文様や図、記号、線などを残すイレズミは、人類の最も古い身体加工法の一つで、世界中で行われてきた。割礼(かつれい)や纏足(てんそく)、首の伸長などと同様に起源は定かではない。しかし、日本で出土する土偶や埴輪(はにわ)の線刻から、古代よりイレズミの習慣が存在したと推定される。
日本の南端にある奄美群島から琉球諸島にかけて、女性は「ハジチ」と呼ばれるイレズミを指先から肘にかけて入れる習慣があった。記録として残されているのは16世紀からだが、それ以前から行われていたと推測される。特に手の部分のイレズミは、女性が既婚であることを表し、施術が完成した際には祝福を受けるなど、通過儀礼の意味合いも持っていた。島ごとに施術される範囲や文様が異なっており、ハジチがない女性は来世で苦労するという伝承が残る島もあった。
一方、北方の先住民族、アイヌの女性たちも唇の周辺や手などにイレズミを入れていた。北から南まで、イレズミは日本各地で広く行われていたことが分かる。日本の創生神話を描いた『古事記』(712年)と『日本書紀』(720年)にも、辺境の民の習慣や刑罰としてイレズミが言及されている。
そうした中、7世紀中頃から日本における美意識は大きく変わる。全体的に肉体美よりも、着衣や香りなど暗い室内でも映える「美しさ」を偏重するようになった。イレズミは徐々に行われなくなり、これに触れる文献や絵画資料も17世紀初期まで途絶えてしまう。
復活、そして世界でも特異な美へ
戦国時代を経て、社会が安定した江戸時代になると、イレズミの歴史は再び動きだす。遊女と客との間で、永遠の愛を誓う意味で小指を切ったり、互いの名前を体に彫ったりしたとの記述が文献に現れ始める。やがてこの身体的加工は、侠客(きょうきゃく)の間でも誓い合いの方法として用いられるようになっていく。
また、建築や祭りの準備などの仕事に従事し、町内の警備役や消防も担った鳶(とび)や、飛脚(ひきゃく)などにもイレズミは好まれた。これらの人々は、身動きの取りにくい着物姿よりも、ふんどし一丁で仕事をすることが多かったが、地肌をさらすことは恥ずかしいとも考えたため、イレズミを身にまとったのだ。やがて社会では「鳶にイレズミはつきもの」とのイメージが強まり、イレズミが入っていない若い鳶には、町内の旦那衆が金を出し合って彫らせることもあった。火事場で火消しとして戦う鳶は、江戸の「粋」の象徴であり、鳶のイレズミは彼らが住む町内の誇り、「華」でもあったからだ。
鳶たちは、龍のイレズミを入れることが多かった。これは龍が雨を呼ぶと信じられ、自身を霊的に守る意味があったからだという。そうした需要が増えるに従い、簡単な文字や図から始まったイレズミは、徐々に複雑化、拡大化していく。やがてそれは、人の肌に絵や文字を彫ることを専業とする彫師の出現にもつながった。
大衆文化の世界では、イレズミを入れた侠客が「弱きを助け、強きを挫(くじ)く」理想像として浮世絵に描かれるようになった。やがて、それは憧れの対象となり、19世紀前半には、浮世絵師の歌川国芳(くによし)が中国の小説『水滸伝』の主人公たちの全身にイレズミを描き、大評判となる。さらに、歌川国貞(くにさだ)などが、今度は歌舞伎役者にイレズミを描きこんだ浮世絵を発表して人気を博した。この流れは実際の歌舞伎にも影響し、「白波五人男」(1862年)などの演目で、イレズミ模様の肌襦袢を着用した役者が主役級の役を演じるようになる。こうした浮世絵や歌舞伎の刺激もあって、元々拡大の一途にあったイレズミの施術範囲は、さらに全身へと拡大していったのだ。
イレズミを強く規制した明治政府
武士階級には、身体を傷つけることを厭(いと)う儒教思想が浸透したため、イレズミは広がらなかった。また、1720年から、刑罰の付加刑として額や腕などにイレズミを入れる「黥刑(げいけい)」も導入されたため、庶民の間にはイレズミを嫌う人もいた。江戸幕府はイレズミに対し何度か規制を加えたが、あまり効果はなく、19世紀後半には流行が最高潮に達した。
その後、政権を握った明治政府は、鎖国を解き、欧米並みの文明国家を目指した。その結果、約400年間ほとんどやってくることがなかった、海外からの賓客や旅行客、船員が来日するようになる。これらの人々は日本を旅する中で、混浴の習慣や、全身にイレズミがあるふんどし姿の男たちが街を闊歩(かっぽ)していることを、日本特有の風俗として旅行記につづった。
これを明治政府は、欧米から見た日本の未開部分として問題視し、明治5(1872)年、彫師(ほりし)と客になることの双方を法的に規制した。そして、20世紀初めには、常に衣服を着ることが社会的に定着したこともあり、イレズミは着衣の奥深くに秘められたものとなっていく。逆説的だが、この取り締まりの時代に「イレズミは隠してこそ、精神的にも美しく深みを持つ」との考えがより強まった可能性があると追記しておく。
ところで、女性たちのイレズミが習慣としてあった沖縄やアイヌでも深刻な影響を受けた。イレズミを隠れて行う人もいたが、警察に逮捕され、野蛮で遅れたものとして手術や塩酸などで除去された。今では、これらの地域の先祖伝来であったイレズミの習慣は、完全に途絶えてしまっている。
海外に渡った彫師の活躍
一方で、来日した人々の中には、イレズミを「日本土産」とする人々がいた。王子時代のジョージ5世(エリザベス女王の祖父)やロシアのニコライ2世が日本でイレズミを入れたことは、記録や証言から確認できる。また、海軍の隊員や旅行客が英米の新聞などに日本でのイレズミ体験を語ったことで、強い興味を抱く人々も現れ始めた。その好奇心に応えたのが、海外に渡った日本人彫師たちだった。
当時の彫師たちは、国内では表商売として、現在の町の広告看板業にあたる「絵ビラ屋」や「提灯屋(ちょうちんや)」の仕事をし、イレズミの仕事は隠れて行っていた。その一部の彫師が、より自由な仕事を求めて、香港、シンガポール、フィリピン、タイ、インド、英国、米国などに渡ったのだ。このことは19世紀末から20世紀初めに英国と米国で活躍した日本人彫師について研究した小山騰(のぼる)や、それに引き続く筆者の研究により明らかになっている。
海外に渡った彫師たちは、船の乗組員や乗客相手の仕事が多かったこともあり、港の近くで仕事場を持つかホテルを間借りするなどして、各地を転々としていた。例えば、19世紀末から20世紀初めまで、ロンドンやニューヨークで仕事をしたYoshisuke Horitoyoと名乗った彫師は、新聞記者に対して中国や香港、パリなどでも仕事をしたと述べ、特に香港ではフィリピン初代大統領のアギナルドに彫ったことがあるとも語った。
日本人彫師はその高い技術から人気が高かったが、客はほとんど簡単に仕上がる小さめの「タトゥー」を欲し、日本のように長期に通ってもらえる客は少なかったため、技術を存分に発揮できなかったようだ。
第二次世界大戦を経て、普通の人々の営みへ
第二次世界大戦で敗戦した日本は、1948(昭和23)年にイレズミを取り締まりの対象から完全に外した。連合国軍総司令部(GHQ)の占領下となり、各地に米軍基地が設置されると、彫師は軍港のある横須賀で、寄港する米軍兵を客に商売を始めた。ここでも日本的な図柄ではなく米国風のタトゥーが好まれ、朝鮮戦争やベトナム戦争時は大変にぎわったという。
オーストラリア戦争記念館所蔵(https://www.awm.gov.au/collection/HOBJ4707/)
長くイレズミが社会の表舞台から遠ざけられた日本で、彫師が出版や展覧会などの活動を始めたのは70年代からであった。この時期に、ファッションデザイナーの三宅一生や山本寛斎が、日本のイレズミから着想を得たタトゥー・スーツをそれぞれ発表している。80年代には、米国などのロックバンドがタトゥーを入れていたことから、これに興味を持った日本の若者が増加。その後は、タトゥー人気の広がりによって、伝統的なイレズミを好む人も増えている。
事」、国立新美術館、2016年3月16日~6月13日(撮影:ニッポンドットコム編集部)
2014年に関東弁護士連合会によって行われた、20代から60代までの男女計1000名を対象にした無作為調査によると、16人がイレズミを入れていた。人口の1割から4分の1にも達する海外でのタトゥー施術率と比べれば低率だが、日本でもイレズミがファッションレベルで定着を始めたと言えよう。
参考文献
Christine Guth, 2004 Longfellow’s Tattoos: Tourism, Collecting, and Japan, University of Washington Press.
小山 騰 2010 『日本の刺青と英国王室――明治期から第一次世界大戦まで』藤原書店
玉林晴朗 1936 『文身百姿』文川堂書房
山本芳美 2016 『イレズミと日本人』平凡社
バナー写真:豊原国周「三福揃しいきの声瀧 江戸時代 文久3年」(アフロ)
http://www.nippon.com/ja/views/b06701/