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イルカのように泳ぎ「海の遊牧民」となっている子どもたちの実態に迫る

2016-04-17 | 先住民族関連
GIGAZINE-2016年04月17日 07時00分00秒
正式な国籍を持たず、独特の言語を話し、インド洋上で暮らすタイの先住民族がモーケン族です。「海の遊牧民」と呼ばれるモーケン族の子どもたちは魚やナマコを捕るため、1日の大半を海の中で過ごしますが、あるスウェーデンの学者がモーケン族の子どもの目の仕組みがイルカやアザラシに似ていることを発見し、大きな話題となりました。「潮が引くと、子どもたちは泳ぎ出します。しかし、その様子は私がこれまで見たことがないものでした。海底深くへと潜っていく彼らの目は大きく開かれ、まるで小さなイルカのようでした」ということで、イギリスのニュースメディア・BBCがモーケン族の子どもたちの秘密に迫っています。
BBC - Future - The ‘sea-nomad’ children who see like dolphins
http://www.bbc.com/future/story/20160229-the-sea-nomad-children-who-see-like-dolphins
インド洋のアンダマン諸島などで、「カバン」と呼ばれる家船で暮らしているのがモーケン族。モーケン族は正式な国籍を持たず、ゆえに医療や教育などの公的サービスを受けることができませんが、伝統的な慣習を守り、現在でも狩りや漁をして暮らしています。
近年の調査で明らかになったのは、モーケン族の子どもたちは、大陸で暮らす子どもたちと目の仕組みが違うということ。通常、人間は陸地での生活に最適化されているので、空気中で目を開けた時にクリアな映像を見ることがきますが、水中では角膜の屈折率が失われてしまうため、ぼんやりした映像しか見ることができません。
しかし、モーケン族の子どもは暗い海の中でも驚くほど瞳孔のサイズを小さくすることが可能で、水中でも1.0の視力を保つことができます。これは、カメラの絞りを小さくすることで焦点距離を深くし、ピントを合いやすくするのと同じ原理です。
モーケンの子どもたちが泳ぐ様子や、どのように海の世界を見ているのかは以下のムービーから確認可能です。
How Moken children see with amazing clarity underwater - Inside the Human Body - BBC One - YouTube
モーケン族の子どもたちが持つ視力の秘密は、1999年、スウェーデン・ルンド大学の視覚生理学者アンナ・ギズレン氏が明らかにしました。ギスレン氏は実際にモーケン族が暮らす島を訪れ、彼らと暮らしを共にしました。ギスレン氏は「潮が満ちてくると、モーケン族の子どもたちは海に飛び込み、海深くまで潜ります。そして、釣りのためのハマグリや貝殻、ナマコなどを捕ってくるのですが、その時、彼らの目はしっかり見開かれ、何の問題も起こっていないように見えました」と語っています。「その様子は私が今までに見たことがないものでした。しっかりと目を開いたまま海底へ潜っていく彼らは、まるで小さなイルカのようでした」
ギスレン氏はモーケン族の子どもたちにいくつかのテストを実施。テストの内容は、子どもたちに水の中に顔をつけてもらい、水中で線が書かれたカードを見せ、顔を上げて線の向きを答えてもらうというものでした。徐々に線を細くすることで難易度を上げていった結果、モーケン族の子どもたちはヨーロッパで暮らす子どもたちの2倍もよいテスト結果を記録したそうです。
はじめ、「子どもたちの目の構造は、根本的に自分たちとは異なるのではないか?」と考えたギスレン氏ですが、陸上でのモーケン族の子どもたちの視力は同年齢のヨーロッパの子どもたちとほぼ同じだったため、この仮説は理屈があいませんでした。そうなると、残された可能性は、モーケン族の子どもたちは水晶体の形を変えることができるか、瞳孔を小さくするのができるのかのいずれかです。
ギスレン氏は、モーケン族の子どもが、これまで人間に可能と思われていた大きさよりもさらに小さく瞳孔を収縮させることが可能なのだと結論づけています。ただし、瞳孔の収縮だけでは彼らの水中における視力を説明できないので、瞳孔の調整力に加えて水晶体の機能も進化しているとの見方です。瞳孔の収縮させ、水晶体の形を変化させることで水中でものを鮮明に見ることができるという仕組みは、イルカやアザラシが物を見る仕組みと似ているそうです。
一方で、ギスレン氏がモーケン族の大人に対しても子どもと同様の実験を行ったところ、大人には水中での特異な視力はないと判明。これは、大人の水晶体は子どものものほど柔軟でないことが理由だと見られています。水中での驚異的な視力を持たない大人のモーケン族は、それ故にハンティングや釣りによって獲物を仕留めています。
大人になると能力が失われてしまうことから、ギスレン氏はモーケン族の並外れた視力は遺伝的なものではなく、子ども故の能力と訓練の2つから培われたものだと推測し、同年齢のヨーロッパの子どもたちにも水中でものを見る訓練をしてもらいました。水中で線の書かれたカードを見て方向を答える、という訓練を1カ月・11セッションにわたって繰り返してもらったところ、ヨーロッパの子どもたちでもモーケン族の子どもと同程度の能力が身についたそうです。ただし、ヨーロッパの子どもたちはみんな海水にやられて目が赤くなってしまったとのことで、モーケン族の子どもたちは全く目を赤くせずに30回以上も潜水を繰り返すため、この点は異なります。
近年になってモーケン族が注目された理由の1つは特異な視力にありますが、スマトラ沖地震の際に津波を察知し、集落の老若男女1200人が高台に逃げていたため、死亡したのは体が不自由で逃げ遅れた男性1人だったと報道されたのも理由の1つです。しかし、この時、海辺の居住地の多くが破壊され、食糧や建築材料の供給源である干潟や森がガレキに覆われてしまうなど大きな被害を受けました。タイ政府はモーケン族に援助を申し出ており、タイ本土に移住させ国立公園での仕事を提供していますが、ギスレン氏は「彼らを助け、現代文化の中で安全を提供しようとすると、彼ら本来の文化を失わせてしまう」として、援助の難しさを語っています。
http://gigazine.net/news/20160417-sea-nomad-children/

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白老観光協会「積極的にPRを」 2カ国語表記2種類のパンフ作成

2016-04-17 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 (2016年 4/16)
 白老観光協会(高橋二郎会長)はこのほど、外国人観光客に対応した新しい観光案内パンフレットを作成した。「誘客版」と「着地版」の2種類があり、いずれも日本語と英語の2カ国語で表記している。国際共通語である英語を活用して町内の魅力を発信し、外国人観光客を中心とした入り込み拡大につなげるのが狙い。事務局は「道の駅などにも置かせてもらい、積極的に白老町の観光PRを進めたい」と話している。
 同協会が作成した誘客版パンフレットはA4判フルカラーで4ページ。見開きページではポロトコタンや仙台藩白老元陣屋資料館、虎杖浜温泉など主要な観光スポットを紹介。裏表紙に外国人向けに白老町の位置を記した地図などを掲載している。
 着地版パンフレットもA4判フルカラーで、登別温泉地区を含めた町内全体の地図を盛り込むため観音開きタイプの8ページ仕立てにした。観光スポットや体験施設、飲食店などの場所が地図上で分かるようになっており、JR白老駅と虎杖浜駅の周辺を拡大したマップや胆振管内全体を紹介する広域地図も盛り込んでいる。
 また、目的地へ効率的にアクセスできるようQRコードを初めて採用するなど工夫も凝らした。いずれも町の白老おもてなし環境整備事業を活用し、それぞれ5万8400枚を作成した。
 同協会によると、JR白老駅前に設置している事務所兼観光案内所の利用者数は2011年以降、年間3000人超の右肩上がりで推移。外国人観光客も年々増加し、15年は500人に上っている。
 担当者は「約2割が米国人でJRやレンタカーを利用するケースが多い」と、札幌からの交通アクセスの良さを強調。案内所を利用しないケースを含めると「少なくとも1000人以上の外国人が来ているはず」といい、来町時の対応強化とニーズの掘り起こしなどを狙いに初めて2種類のパンフレットを作成したという。
 各パンフレットは観光協会や町役場、しらおい創造空間「蔵」、仙台藩白老元陣屋資料館をはじめ、札幌市や登別市の観光案内所などに配布済み。今後も着実な事業展開を進め、国立アイヌ文化博物館(仮称)を含めた民族共生の象徴空間の20年開設を見据えた対応を図る考えだ。
http://www.tomamin.co.jp/20160437503

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【謎解き歴史紀行】関ヶ原の合戦に敗れた石田三成、その末裔の知られざる足跡を辿る

2016-04-17 | アイヌ民族関連
サライ.jp 4月16日(土)21時0分配信
慶応4年(明治元年)8月、榎本武揚(えのもと・たけあき)ら旧幕府海軍は品川沖を出帆して、北を目指した。
旧幕府海軍は10月に蝦夷地(北海道)に到着し、箱館(函館)を守備していた弘前・松前藩兵等の明治政府軍との戦闘を開始した。旧幕府軍は、政府軍を各所で退け、箱館府知事・清水谷公考(しみずだに・きんなる)は、青森へ逃亡した。旧幕府軍は無人の五稜郭を占拠し、さらに、松前城を落として松前一帯を占拠、松前藩主・松前徳広も津軽領へと逃亡した。
翌、明治2年4月、明治政府軍は、蝦夷地を旧幕府軍から奪還すべく、雪の消えるのを待って続々と津軽海峡を渡った。その中に、「軍事総轄」として、弘前藩兵を率いる杉山上総(すぎやま・かずさ/成知、龍江とも)の姿があった。
「出デハ軍務ヲ司リ、入テハ政務ヲ参画シ、内外ノ功績顕著ナル」と、評された上総は、弘前藩12代藩主・津軽承昭(つがる・つぐあきら)をよく補佐し、特に弘前藩の軍務のトップとして、函館戦争をリードした人物だった。
杉山家は、石田三成の次男・源吾重成を家祖とし、代々、弘前藩の重臣として重きをなした家だった。上総も、藩の重臣として、未曽有の動乱に対処していたのである。
幕末の杉山家当主・上総よりも200年前、同様に軍勢を率いて津軽海峡を渡った杉山家の人物がいた。石田三成の孫である杉山八兵衛(吉成)である。
八兵衛は、津軽家に出仕後、累進して、1300石という大身の禄を食み、「番方(藩の軍事組織)」の中核を担う重臣となった。その実力は幕府も認めており、その子「勘左衛門」は、「証人(幕府が大名やその重臣からとった人質)」として江戸にとどめ置かれるほどだった。
その八兵衛の、もっとも著名な功績が、4代藩主・津軽信政の時代の寛文9年(1669)に、弘前藩兵を率いて津軽海峡を渡り、寛文蝦夷蜂起(シャクシャインの乱)鎮圧に貢献したというものだった。
■蝦夷地に対する最前線基地
「北狄(ほくてき)の押(おさえ)」という言葉がある。弘前藩が、幕藩体制化における自己の立ち位置を明確化し、藩政時代を通じて自己認識の要とした言葉である。「北狄」はいうまでもなく、中華思想における東夷・西戎・南蛮・北狄のうち、中華の北方の民族を指す言葉である。弘前藩は津軽海峡に面するという地理的環境から、蝦夷地に対する本州側の窓口であることを自任していた。いわば、蝦夷地に有事があった際の最前線基地として自らを位置づけ、その事実を藩内外にアピールするための文言だったのである。
弘前藩は、寛文蝦夷蜂起の際に、当事者である松前藩を除いて唯一出兵した実績を持ち、そのことが「北狄の押」という自己認識を深める契機となったと考えられている。
津軽信政の後を継いだ、5代藩主・津軽信寿(つがる・のぶひさ)の代に編纂された、弘前藩の官撰史書『津軽一統志』では、編纂直前の信政の時代については、寛文蝦夷蜂起に関する詳細な記述にほぼ限定される。また、同時期に行なわれた、幕府への家格上昇運動(十万石への高増を要望した運動)において、「北狄の押」という言葉が使われるようになる。
弘前藩にとって寛文蝦夷蜂起での出兵は、「北狄の押」という自己認識を生んだだけでなく、内では、その記録を信政の功績として位置付けることで家臣への求心力を高め、外では、幕府への奉公の実績として顕示するという役割を担ったと考えられる。こうして、「北狄の押」は、藩政期を通じた、弘前藩にとって、もっとも重要な自己認識となっていくのである。
■杉山八兵衛の出陣
日本の近世最大の民族衝突とされる寛文蝦夷蜂起は、寛文9年6月から7月にかけて、シブチャリ(北海道静内町)の首長・シャクシャインを中心として蜂起したアイヌたちが、蝦夷地に滞留していた和人たちを襲撃するかたちではじまった。
もともとは、アイヌどうしの漁労・狩猟のなわばりをめぐる争いに端を発したものだが、その争いを調整できなかった松前藩や、アイヌ社会の生業圏などを侵害し、秩序を混乱させた和人たちに対する不満がアイヌの中に渦巻いていた。シャクシャインたちは、そうした不満や社会不安に衝き動かされて、立ち上がったのだ。
アイヌ蜂起の報に接した幕府は、旗本として仕えていた松前泰広(松前藩主一族)を派遣して鎮圧の指揮を執らせる一方で、弘前藩等の北奥羽の諸藩に加勢準備を指示した。
弘前藩の動きは、他藩に比して素早く、そして積極的だった。7月の段階で、松前藩から通報を受け取った後、3隊・3000人の陣立てを準備した。その陣立ての一番隊侍大将が、杉山八兵衛であり、8月27日の幕府からの出兵命令を受けて、9月5日に700人余りを率いて弘前を出陣し、同8日には松前へ到着した。
八兵衛は、戦場の最前線であるクンヌイ(北海道長万部町)まで進軍することを望んだが、松前藩から拒否された。結局、実際に戦闘することはなかったが、八兵衛は戦況の変化を頻繁に国元へ報告し、その報告は幕府へももたらされた。さらに、弘前への帰陣後は、八兵衛自身が報告のために江戸へ向かった。
■祖父・三成の汚名をそそいだ江戸城登城
江戸城に登城した八兵衛は、老中等幕閣と面会し、蝦夷地での状況を報告し、さらには幕府から受けた扶持米の礼を藩主に成り代わって述べた。津軽信政の義兄で若年寄だった土井利房からは、松前への出兵と、そこからもたらされる八兵衛からの情報に対して、老中たちが「残すところのない働き」であると評価したことを告げられた。
その言葉を、八兵衛はどのような思いで聞いただろうか。脳裏には、祖父・石田三成や、遠く津軽まで落ち延び、侘しく没した父・源吾のことがよぎったであろうか。
関ヶ原合戦から69年。徳川将軍は4代家綱の時代となっていた。江戸城での幕閣との対座は、八兵衛にとって祖父・三成の汚名をそそぐ場となったのである。
そして、幕閣による杉山八兵衛に対する評価は、同時に、弘前藩に対する幕府の評価、そして弘前藩自身の自己評価となった。
当事者である松前藩以外に、幕府の命に沿って唯一軍事的行動をとることで、「北狄の押」を全うしたという弘前藩の自己認識は、前述のとおり、『津軽一統志』などによって、弘前藩の歴史に刻み込まれていった。そして、その実行者が杉山八兵衛だったのである。
■世代を超えた三成末裔の活躍
再び、明治2年に話を戻すと、杉山上総が統率した弘前藩兵は、木村杢之助(きむら・もくのすけ)隊の活躍で、函館戦争の分水嶺ともなった矢不来(やふらい)の戦いにおいて台場を攻略するなどの軍功をあげた。
その際、政府軍征討総督の太田黒亥和太(おおたぐろ・いわた/維信・熊本藩士)は、それまで満足な軍功をあげてこなかった弘前藩に対し、「貴藩は従来、北門鎖鑰(ほくもんさやく/北の守りの要)なのであるから、その任を果たす一大好機がきたではないか」と叱咤した。
その叱咤を受けた木村の奮闘で、弘前藩は矢不来の戦いを勝利に導く活躍をみせたのであるが、「弘前藩は『北門鎖鑰』なのだ」という認識が、遠く熊本藩においても存在したことに注目したい。
これは、杉山八兵衛の功績が、上総の時代まで脈々と、自他ともに認める弘前藩の実績として認識されていたということなのである。
弘前藩のよりどころとなった認識の形成に、杉山八兵衛は、実際の行動によって大きく寄与し、その認識は、200年後の上総の時代にも生きていた。八兵衛の功績を、上総は函館戦争において、さらに補強したのだといえよう。
他にも弘前藩を代表する人材を輩出した家は多いが、こと、津軽海峡を渡って実際に軍事を司り、自他ともに認める功績を挙げ得た家は杉山家だった。このことを顧みると、津軽家が危険を顧みず三成の遺児を匿(かくま)ったことは、後にいたって大きく報われたというべきではないだろうか。
維新後、上総は新たに設置された弘前県・青森県のために様々に貢献するが、新たな時代へかける意気込みは、豊臣政権の運営に尽力した先祖・石田三成をほうふつとさせるものであった。さらに、上総の子・熹之進(とうのしん)は、教育者として活躍し、藩校を前身とする東奥義塾の塾長などを務め、長く郷土の子弟教育に献身した。
このように、石田三成の主君や公へ尽くした一生は、姿やかたちを変えつつも、家風として代々杉山家に伝わったといえるのではないだろうか。
文/小石川透(弘前市文化財課)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160416-00010001-seraijp-life

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30日に道考古学会研究大会、登別では初開催

2016-04-17 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2016年4月15日(金)朝刊】
 北海道考古学会(大島直行会長)の2016年度研究大会が30日、登別市富士町の市民会館で開催される。10年ぶりの地方大会で、登別では初開催。新しい分野の「近現代考古学」をテーマにしているのが特徴で、地元からは登別市の菅野修広学芸員が発表する。多くの市民参加を呼び掛けている。
 大会は例年、北大を会場に開催されており、地方開催は森町以来。道民カレッジ連携事業、登別ときめき大学連携コース事業にも位置づけた。今回は「北海道における近現代考古学の今後」を主題に展開する。
 近現代考古学は明治期以降を対象にした新しい分野で「例えば明治時代に北海道の警備と開拓に当たった屯田兵の話があるが、文献だけでは知り得ない、生活レベルなどを残された痕跡から探るもの」(菅野さん)。
 田才雅彦さん(ヘリテージマネージャー)が「北海道における近世・近代の遺跡調査と今後の可能性」、石渡一人さん(別海町郷土資料館)が「交通の要所―野付通行屋跡遺跡と史跡旧奥行臼駅逓所」と題して講演する。
 菅野さんは3番手で登壇し「ゴミ穴から見える近代アイヌの物に対する認識変化―伊達市有珠善光寺2遺跡から」について発表。同所では幕末―明治の貝塚が見つかっているが「送りの場であった貝塚からゴミ穴に変化した時代や理由」についてアプローチする。
 続いて野村祐一さん(函館市教委)が「五稜郭―幕末遺構の発掘調査と史跡整備」、黒尾和久さん(国立ハンセン病資料館)が「近現代考古学の可能性―国立ハンセン病療養所における考古学的調査から」について語る。討論「近現代遺跡をフィールドに何をすべきか」で締めくくる。
 時間は午後1時~同6時。公開研究大会のため、誰でも参加可能。入場無料。配布資料はないが、会場で予稿集(千円)を販売する。希望者は直接会場へ。菅野さんは「地元で第一線の研究成果が聞けるチャンス」と話している。
 問い合わせは学会事務局(電話0143・88局1129番)へ。
(鞠子理人)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2016/04/15/20160415m_05.html

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白老・アイヌ民族博物館の昨年度入場者4年連続増

2016-04-17 | アイヌ民族関連
室蘭民報 【2016年4月15日(金)朝刊】
 白老町若草町のアイヌ民族博物館の2015年度(平成27年度)の入場者は19万4947人で14年度に比べ3・2%増加した。増加は4年連続。外国人の入場者が5・3%増え全体数を押し上げたが、目標の20万人には届かなかった。
 年間入場者は10年度20万2803人、11年度14万4683人、12年度15万5991人、13年度18万5006人、14年度18万8891人。2000年度以降をみると、30万人台から20万人台へと漸減傾向が続き、東日本大震災後の11年度に急激に落ち込み、その後底を打ったように4年連続の増加となった。かつては年間80万人以上来場したことがある。
 国内外の内訳は、国内が12万2162人(14年度比2・0%増)、海外が7万2785人(同5・3%増)。日本を除く国別では韓国が2万5449人(同38・1%増)、タイが1万8223人(同28・9%減)、シンガポール7380人(同7・2%増)、中国6306人(同8・9%増)、マレーシア4831人(同25・1%増)など。入場者全体に占める外国人比率は14年度比1・3ポイント増の37・3%だった。
 月別では5、6、7、9、10月が2万人台、その中で6月の2万6495人が最も多かった。8、11、12月は1万人台だった。
 村木美幸専務理事は「震災直後に激減しましたが、その後は着実に増えています。16年度は入場者22万人を目標にしています。展覧会や大型連休、夏休みの企画など年間スケジュールを決め、ホームページなどを通して近隣や道外の人たちが来やすいよう工夫したい」と話している。
(富士雄志)
http://www.muromin.mnw.jp/murominn-web/back/2016/04/15/20160415m_08.html

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水の汚染が原因で恐怖の皮膚病が流行? 政府は否定・隠蔽で、カナダ先住民がブチギレ!

2016-04-17 | 先住民族関連
BIGLOBEニュース-4月13日(水)13時0分tocana
 カナダ・オンタリオにある先住民の町では、謎の皮膚病が子どもたちの間に蔓延していると、3月23日の「DailyMail」が報じている——。
■皮膚病の流行から1カ月後にようやく政府が動き出す
 16人の子どもが治療のために避難し、政府は医者を戸別訪問させて患者の発見に努めていると発表した。しかし北オンタリオ先住民グループの「Nishnawbe Aski Nation」代表アルビン・フィドラーは、この病気が蔓延し出してから、1カ月もたってやっと政府が動き出したことに不満を示す。
 フィドラーは政府が現在行っている援助に感謝を示しつつも、今まで政府は先住民を無視していたという。彼は、「緊急事態が宣言されて1カ月もたつのに、我々はいまだに衛生大臣との会合の日時を決めている始末だ。その間に事態はどんどん悪化している」と憤る。また、皮膚病に罹った子どもの写真がインターネットで広まってから、政府が急に動き出したことも指摘している。
 この皮膚病の原因は今のところ水の汚染、もしくは家のカビのせいではないかと言われているが、カナダの保健大臣は飲料水は安全だとしてこの説を否定している。しかし地域住民は入浴や洗濯に水道水を使用することを恐れており、フィドラーは政府以外の第三者の独立した水質分析結果を要求している。またNDP(新民主党)の先住民族問題評論家であるチャーリー・アンガスは、先住民族の環境には多くの問題が蓄積しており、この皮膚病は氷山の一角だと語る。
 昨年、発足したジャスティン・トルドー政権は先住民族保護を行政の基礎理念とした。トルドー首相は84億ドル(約7200億円)をファーストネイションズ(イヌイット、メティ以外のカナダ先住民)の人々の教育、及び水や地域医療サービス向上のために使うことを約束している。
■政治問題に発展するも皮膚病を早く治すことが先決
 この皮膚病は2005年にも居住地で蔓延したことがあり、「伝染性膿痂疹(とびひ)」ではないかと指摘する声もある。「とびひ」は珍しくない皮膚病だが、これだけ悪化し蔓延した背景には、先住民族の居住地の医療サービスの数不足、居住地家に大人数が詰め込まれている住環境、石鹸などの衛生日用品の価格が非常に高いことなどが影響していると考えられる。
 カナダには、54万人もの「ファーストネイションズ」が住んでいる。彼らの多くはカナダ政府より与えられた2200カ所の保留地に住むが、60年代までは電気も水道もなく下水道施設も整備されていないひどい環境であった。現在はかなり改善されたとはいえ、いまだ彼らの住環境は「平均的カナダ人」に比べるとひどく劣っているのが現状だ。
 今回の問題は子どもの皮膚病にとどまらず、「先住民族vsカナダ政府」の形をとる政治的な問題となりつつある。しかし最も気の毒なのは皮膚病にかかり、隔離された子どもたちである。政治的な戦いよりも、まずこの皮膚病を早く治すことが先決ではないだろうか。(文=三橋ココ)
http://news.biglobe.ne.jp/trend/0413/toc_160413_2543648383.html


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