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北海道大の墓地発掘、札幌地裁で和解成立し――アイヌ遺骨85年ぶりに返還

2016-04-15 | アイヌ民族関連
週刊金曜日編集部 2016年04月14日 14:51

北大の「アイヌ納骨堂」にはまだ大量のアイヌ人骨が残る。(2015年8月7日、撮影/平田剛士)
1930~70年代、北海道大学医学部の歴代教授らが研究名目で各地のアイヌ墓地を発掘するなどして1000人以上の遺骨を収集し、大半が留め置かれている問題で、返還を求めて同大学を訴えていた地元出身者らと大学の間の和解が3月25日、札幌地裁(本田晃裁判長)で成立した。
和解の条件に従い、大学は、構内に保管中の大量の人骨のうち、1931年から35年ごろにかけて当時の医学部解剖学第1・第2講座の山崎春雄・児玉作左衛門教授らが浦河町杵臼コタン(集落)の墓地から掘り出してきた12人分を、この夏にも地元に返還する。原告側は計900万円の賠償金請求を取り下げた。
同日記者会見した原告のエカシ(長老)小川隆吉さん(80歳)は「裁判長に感謝したい」と述べた。また、児玉教授に墓地を発掘されるなどして地元から持ち去られた64人分の遺骨返還を求めて訴訟中の浦幌アイヌ協会(浦幌町、19人)の差間正樹会長(65歳)は「うれしい。浦幌への返還も実現させて地元で慰霊できるようになれば、私たちアイヌがひとつになるチャンス」と笑顔を見せた。
かつて教授たちは公然と墓を掘り、大量の人骨を持ち去った。大学は世紀を超えてこの問題を放置し続けた。原告のうち城野口ユリさん(1933年生まれ)は返還の報を聞かずに昨年、他界した。
こうした末の「和解」に複雑な思いもあるだろうに、なんと寛容なアイヌ原告たちの言葉だろう。でも私たち和人が胸をなで下ろすのはまだ早い。大学や日本政府はこれまで一度も被害者に謝罪すらしていない。それを和人社会も見過ごしてきた。
原告支援を続ける植木哲也・苫小牧駒澤大学教授(哲学、科学技術社会論)は「こんな事件がなぜ起きたのか、私たちはまず事実を知らなければ」と話す。「真の和解」はきっとその先にしかない。
(平田剛士・フリーランス記者、4月1日号)
http://blogos.com/article/171859/

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民博で特別展「夷酋列像」 アイヌの風俗、鮮やかに巧みに

2016-04-15 | アイヌ民族関連
産経ニュース-2016.4.14 13:00更新
 たまに、名前はかすかに記憶しているにもかかわらず、作品を知らず、実物を初めて見てうなってしまうような画家がいる。大阪府吹田市の国立民族学博物館で開催されている特別展「夷酋列像(いしゅうれつぞう)-蝦夷地イメージをめぐる人・物・世界-」で、蠣崎波響(かきざき・はきょう)(1764~1826年)が描いた日本画を見たときが、そうだった。
 波響は森鴎外の『伊沢蘭軒(いざわらんけん)』のなかで記されていると知ってはいたが、『渋江抽斎(しぶえちゅうさい)』を読んであまりに退屈し、蘭軒まで及ぶことなく、ここまで縁のない人物だった。ところが、この展覧会で絵を知り、興味をそそられるようになった。
 松前藩の家老にして、一級の絵描き。もとは藩主の息子だった、といえば、どこか酒井抱一とイメージが重なる。
 その代表作が、函館市中央図書館に2点、そして、なぜかフランス・ブザンソン美術考古博物館に11枚が残る「夷酋列像」だ。
 描かれているのは寛政2(1790)年に藩主の命によって描かれた12人のアイヌの有力者である。彼らは前年、和人の横暴に蜂起した東蝦夷地のアイヌたちに対して、戦いをやめるように説得した人物たちだった。京都にもたらされて光格天皇の天覧におよぶほどの話題を集めたその絵は、ときの政治の中枢部にあった松平定信らも関心を示したとされる。
 そのおもしろさは当時のアイヌの風俗を鮮やかに、そして巧みに描きだしている点にある。木綿服姿もあれば、清との交易で得た中国服(蝦夷錦)姿もある。弓ややりなど武器を持つ者や、犬や熊をつれ歩く者、獲物の鹿を背負う者もいる。立ち姿、座り姿などポーズも多様で、見る者をあきさせることがない。
 波響は、それを丹念に描いた。着物の柄ひとつ、男たちのヒゲや髪の毛、体毛までゆるがせにせず描き込む。着物のひだの影までも丁寧に表現することで、蝦夷錦の鮮やかな色彩が浮かび上がる。宋紫石(そう・しせき)に学び、円山応挙らと交友した画家の力量は、この絵だけでなく「遊鯉西王母図」などの美人画からもうかがえる。
 右代啓視(うしろ・ひろし)・北海道博物館歴史研究グループ学芸主幹は「豪華な衣装で飾っているのは、松前藩の広報戦略ではないか。フランスに渡った点も謎につつまれている」と話す。後世、多くの画家たちに模写されたあと、絵は忽然(こつぜん)と消え、1984年にフランスで“発見”されるまで、その存在は忘れ去られた。里帰りしたその作品は、アイヌの装飾品や民具などと一緒に19日まで並んでいる。(正木利和)
http://www.sankei.com/life/news/160414/lif1604140014-n1.html

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標津湿原調査、教材に

2016-04-15 | アイヌ民族関連
釧路新聞  2016年04月14日
 国の天然記念物・標津湿原での保全対策調査事業の成果を盛り込んだ子ども向けの副教材を製作した。  町教委は2013年度から3カ年、湿原保全の方策を探るため総合調査を実施。まとめられた報告書を教育にも活用しようと、分かりやすい内容の「別冊」として編集し直した。標津湿原は、国指定史跡・伊茶仁カリカリウス遺跡と共にポー川史跡自然公園として一体管理されており、別冊では自然や歴史、文化を網羅。小学~高校の社会や理科、アイヌ文化学習に対応している。  A5判フルカラー210㌻。今後、地元の「ふるさと学習」に使用されるほか、町図書館や同公園で閲覧できるようにする。同公園の小野哲也学芸員は「来園時の解説で伝えきれない、地域の歴史や文化に関心を持ってもらえたら」と話している。
http://www.news-kushiro.jp/news/20160414/201604143.html

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