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工事現場から人骨 1500~100年前に死亡か=米国で鑑定へ/台湾

2016-04-14 | 先住民族関連
中央フォーカス台湾 2016/04/13 17:26

(花蓮 13日 中央社)花蓮市内の下水道工事現場で今年1月、白骨化した遺体が見つかった。専門家の調べで、遺体は1500~100年前に死亡した可能性が浮上し、米国で「放射性炭素年代測定」にかけられることになった。早ければ約1カ月で年代が特定できる見通し。
花蓮県文化局文化資産科によると、発見当時は警察が身元不明遺体として処理しようとしたが、台湾史前文化博物館(台東県)の林秀マン研究員が遺体のそばに陶器のかけら4つがあるのを発見。その特徴から、静浦文化が栄えた鉄器時代に死亡した台湾原住民(先住民)の墓ではないかと指摘したため、本格的な調査が行われることになったという。(マン=女へんに曼)
静浦文化は鉄器時代に台湾東部で繁栄。鉄器以外に銅や金、メノウなど海外からの装飾品や陶器なども見つかっている。アミ族の伝統文化との関連性も指摘されている。
(李先鳳/編集:齊藤啓介)
http://japan.cna.com.tw/news/atra/201604130008.aspx

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民俗学クラスタ歓喜!ウタリの言葉でアイヌ民話が聞けるサイト開設

2016-04-14 | アイヌ民族関連
おたくま経済新聞-2016/4/13
日本の先住民族のひとつであるアイヌ。2016年のマンガ大賞受賞作『ゴールデンカムイ』でその文化が描写され、ゲームやアニメで展開されている『うたわれるもの』シリーズでも作品世界のモチーフとされています。
アイヌは多彩な文化を持っていますが、文字を持たない民族である為、叙事詩(神謠)である『ユーカラ』をはじめとする種々の物語や、民族の記憶は口伝(口承)によって現代まで残されてきました。明治~昭和の時代にかけて、これらを文字で記録した金田一京助の試みも知られています。
しかし現在、アイヌ語の話者も減り、アイヌの物語をそのままの状態で聞くことは難しくなりました。2009年9月には、UNESCOの調査によって作成された『世界の危機言語地図(Atlas of the World’s Languages in Danger)』で、アイヌ語は消滅寸前の「極めて深刻な状態(Critically Endangered)」とされています。
この危機的状況の中、生きた言語としてのアイヌ語を後世に残す為、国立国語研究所と千葉大学の研究者が中心となって、アイヌの物語を「読んで・聞ける」サイト、その名も『アイヌ語口承文芸コーパス―音声・グロスつき―』が開設されました。一文ごとに、日本語と英語の対訳を見ながら、アイヌ語による語りを聞くことができます。
元になった音声資料は、千葉大学の中川裕教授が1977年~1983年にかけてアイヌの語り部、木村きみ(1900-1988)が語ったものを録音したもの。
内訳は昔話(ウエペケレ)が20編、神謡(カムイユカラ)3編の計23編、時間にしておよそ7時間分です。
これはのちに、国立国語研究所のアンナ・ブガエワ特任准教授を中心とした研究グループにより、ロンドン大学SOAS(School of Oriental & African Studies)危機言語アーカイブに収蔵され、保管されてきました。
今回コーパスで公開されたのは、2015年度の予算で実施された、そのうちの10編(ウエペケレ8編、カムイユカラ2編)。時間にしておよそ3時間分の物語です。2016年度には残り全ての物語が公開される予定です。
音声による言葉は、文字にすると失われてしまう、イントネーションや発音の微妙な違いなどの重要な情報を含みます。今回のコーパスの公開は、日本で同じように消滅の危険がある他の方言(八重山方言、与那国方言など)や、他の国の消滅危機言語の保存・公開を考える上で、非常に大きな役割を果たしそうです。
▼参考
アイヌ語口承文芸コーパス―音声・グロスつき―http://ainucorpus.ninjal.ac.jp/
UNESCO「世界の危機言語地図」http://www.unesco.org/languages-atlas/
(文:咲村珠樹)
http://otakei.otakuma.net/archives/2016041302.html

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白老 まちづくり2事業を継続

2016-04-14 | アイヌ民族関連
苫小牧民報 (2016年 4/13)
 白老町は2020年の「民族共生の象徴空間」開設を見据え、15年度に実施したまちづくりに関する2事業を16年度も継続実施する。町内の豊かな食材や自然、温泉、アイヌ文化などを活用した取り組みに1件当たり最大200万円を交付。また、所有者が創業を前提とした空き店舗改修や解体に同200万円、空き店舗を借りたり、購入して創業する場合は同300万円をそれぞれ助成する。町は積極的な活用を呼び掛け、地域活性化につなげたい考えだ。
 継続するのは「地域特性を活かした商業観光応援事業」と「空き店舗等活用・創業支援事業」の二つ。
 商業観光応援事業は昨年度2回に分けて実施。使い勝手の良さから募集枠を上回る申し込みがあり、町内の11事業者に1件当たり50万円~200万円を助成した。主な内容は▽飲食店の新規開設▽アイヌ伝統食PR▽地元食材を使った新メニューの考案、新商品開発▽食品メニュー増産に向けた設備購入―など。
 16年度は総額1000万円で最大5件程度を選定する。来年2月15日までの事業完了が条件で書類審査と面談で選考する。
 町が実施する空き店舗と創業支援に係る事業は「移転・改修等助成」と「創業(開業)助成」が2本柱。15年度は募集期間が短かく採択件数は1件にとどまった。このため16年度は移転・改修等助成に係る条件を一部緩和し、創業を前提に空き店舗の改修や解体を行う場合も対象に加えた。
 助成金額は移転・改修等助成が1件当たり200万円(最大3件程度)、創業助成は同300万円(同4件程度)。17年2月28日までに事業を終える必要がある。いずれの事業も6月15日が応募期限。
 商業観光応援事業に関する問い合わせは白老町商工会 電話0144(82)2775。移転・改修および創業助成に関する問い合わせなどは町経済振興課 電話0144(82)8214。
http://www.tomamin.co.jp/20160437392

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【渡部裕明の奇人礼讃】 武田信広(上)戦国時代に北海道を制覇した「謎の武将」

2016-04-14 | アイヌ民族関連
産経ニュース 2016.4.13 16:00更新
 北海道の歴史は長い間、「幕末以降」しか記されてこなかった。明治に入ってようやく開拓されたという、ゆがんだ歴史観である。それが近年、北海道にも中世や戦国時代があり、アイヌも交えて血みどろの戦いが繰り広げられたことが明らかにされるようになった。今回はその争いを勝ち抜いた伝説の勇者、武田信広(1431~94年)の生涯にスポットを当ててみたい。
 ●「渡党」と呼ばれる和人たち
 もちろん、この時代に北海道という地名はない。「蝦夷地(えぞち)」である。長くアイヌが暮らす土地だったが、平安時代末期以降、和人が渡ってくるようになった。交易(商業)のためが多かったろうが、本州での政治的な抗争に敗れ、新天地で再起を期す人々も少なくなかった。
 こうした和人たちは「渡党(わたりとう)」と呼ばれた。とりわけ鎌倉時代から南北朝にかけては列島中が戦場となり、その結果として蝦夷地に渡る人たちも増えたと考えられる。といっても、彼らが住めるのは渡島(おしま)半島、それも南部の海岸地帯に限られていた。
 渡党の多くが陸奥国(東北地方)、とくにその北部に地縁を持っていたとみられている。下北半島や津軽半島と北海道の間(津軽海峡)は、距離にしてわずか20キロ足らず。本拠を陸奥に置いて、一族を蝦夷地に配するといったケースが多かったようだ。
 その代表が、安藤(安東)氏である。「前九年の役」(1051~62年)で源頼義、義家父子に滅ぼされた安倍貞任(さだとう)の子孫ともいわれるが、はっきりしない。現在の青森県や秋田県に拠点を構え、蝦夷地をも支配下に置いていた。
 津軽半島の西側、五所川原市に十三湊(とさみなと)と呼ばれる中世の遺跡(国指定史跡)がある。平成3(1991)年から実施された発掘調査によって、14世紀から15世紀にかけて最盛期を迎えた港湾都市だったことが分かった。蝦夷地から北陸、近畿北部を結ぶ「日本海海運」を担った大規模な港で、安藤氏が本拠を置いていたのだ。
 ●海運担った安藤氏の盛衰
 安藤氏の繁栄は、実にきらびやかなものだったらしい。旧若狭国(福井県西部)の小浜市は「海のある奈良」の異名を持つ日本海に面した古い港町だが、ここに羽賀寺(はがじ)という古刹(こさつ)がある。仏像ファンなら、本尊の十一面観音立像(国指定重要文化財)を思い浮かべることだろう。
 その羽賀寺に残された古文書「羽賀寺縁起」(国重文)に、次のようなことが書かれている。室町時代の永享8(1436)年、奥州十三湊日之本将軍、安倍康季(やすのり)が寺の修復費用を提供したという内容である。約800キロメートルも離れたこの地に、安藤氏は大きな影響力を及ぼしていたのだ。
 ところが、安藤氏も室町時代後期になると、次第に力を失っていった。岩手県から青森県の一部までを治める南部氏との抗争や、一族同士の内紛が原因だったといわれている。そうした混乱に乗じて蝦夷地の覇権を握るべく立ち上がったのが、わが武田信広だった。
 その一方で、信広の生い立ちは謎に包まれている。彼の子孫はのちに、北海道唯一の藩・松前(まつまえ)藩主の松前氏を名乗るのだが、江戸時代初期に書かれた「新羅之記録(しんらのきろく)」という歴史書にしか、信広はその名をとどめないのだ。
 新羅之記録には、信広は若狭国の守護・武田信賢(のぶかた、1420~71年)の三男で、一族の内紛を避けて若狭を出奔し、蝦夷地にやってきたと書かれている。若狭武田家は清和源氏につながる名門だが、信広という人物の存在は、信頼できる系図(尊卑分脈=そんぴぶんみゃく)からも確認できない。
 ●下北出身の土豪だった?
 「新羅之記録によれば、信広は1431年の生まれです。父の信賢が11歳のときの子供になるわけで、ちょっと考えにくい。名門の出にするため、松前氏が創り出した系図だと私は考えています」
 「北海道戦国史と松前氏」(洋泉社)の著者、新藤透・山形県立米沢女子短大准教授(日本近世史)は言う。新藤准教授が唱えるのは、下北半島にある蠣崎(かきざき)の土豪出身という説だ。
 「15世紀半ば、下北半島に蠣崎蔵人信純(くろうどのぶすみ)という武将がいたことが後世の史料に出てきます。彼は南部氏に反抗して立ち上がるのですが、長禄元(1457)年、敗れてしまいます。そこで蝦夷地に逃れ、武田信広となったと考えているんです」
 何と大胆な説だろう。だが、蝦夷地は本州での抗争に敗れた人間が再起を図る土地だったことは、先にも述べた。魅力的な推論と言っていい。
 蠣崎信純には、手を差し伸べてくれる人物がいた。一族の蠣崎季繁(すえしげ)という武将だった。新羅之記録には、「同じ若狭出身」とある。真実かどうかはさておき、信広には幸運が待っていた。それは、「北海道の戦国時代」の幕開けといっていい戦いの勃発であった。   =(下)に続く
渡部裕明(わたなべ・ひろあき)
産経新聞客員論説委員。愛媛県今治市生まれ。昭和49年入社。京都総局や奈良支局、大阪社会部、大阪文化部などで宗教・文化財の取材を長く担当した。東京本社論説副委員長、大阪本社論説委員兼編集委員など歴任。現場主義をモットーにしながら、読者にわかりやすく興味深い日本史像の提供を目指している。産経新聞毎月第一火曜日朝刊に「國史へのまなざし」を連載中。邪馬台国論争では、邪馬台国は大和盆地にあり、初期ヤマト政権につながっていったと考えている。共著に「運慶の挑戦」「親と子の日本史」など。
http://www.sankei.com/west/news/160413/wst1604130007-n1.html

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