西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

平安女学院散歩-3菅原道真公の産湯

2005-10-29 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
京都の中心部ともなると、その土地に長い歴史が折り重なっている。平安女学院に隣接して学問の神様と言われる菅原道真公を祀る神社があるが、実は平安女学院の敷地内に古い井戸があり、それは、この辺りで生まれた菅原道真の産湯につかった水を汲んだ井戸だと言われている。誠に学問をする場所にピッタリの話である。早速、平安女学院では、この井戸から汲み上げた水をボトリングして「知恵水」と称している。山岡景一郎理事長・学長から実物を見せていただいたが、売り出すのかどうか聞き漏らした。その井戸は、説明書きをつけて大切に保存されている。

平安女学院散歩-2イギリス積み

2005-10-29 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
「建築一般構造」を「春学期」に担当して、組積造(そせきぞう)のことも説明した。組積造とは英語ではMasonry Constructionであるが、煉瓦や石やコンクリートブロックなどの比較的小さな構造片を「組み積み上げて造る」構造だ。だから構造片が緊縛されて一体化していないと、地震の横揺れで簡単に瓦解してしまう危険性があり、日本では、明治期に洋風建築の流れで煉瓦造や石造建築が造られたが、関東大震災以後、ほとんど造られなくなっている。しかし、構造的工夫をすれば、今でも十分建築できると友人の構造学専門の中村 武君(金大附高、京大建築同期、現・京都工芸繊維大学名誉教授)が言っていた。
そういうこともあるが、西洋に旅行したりすると、そこらじゅう石造、煉瓦造なので、その見方も知っておく必要がある。又、東京駅や先に紹介した「平女」の明治館のような日本にある明治煉瓦建築を見たり、維持保全するうえでも必要だ。そこで、学生達に「平安女学院のチャペルや明治館の煉瓦は何積みか?」という課題を出した。一般にオランダ積み、イギリス積み、フランス積みなどがある。大抵は正解だった。イギリス積である。イギリス人の設計なので当然であろう。イギリス積やオランダ積は、積む段ごとに「長手」「小口」を交互にするが、フランス積では、同じ段に「長手」「小口」のリズムを作り、段毎にずらすやりかたをして、上からの荷重をうまく分散させている。写真は「明治館」のイギリス積みの煉瓦である。

平安女学院散歩-1明治館

2005-10-29 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
「平安女学院大学に行っています」と自己紹介すると、「ああ京都ですね」と言われることも多い。名前がそうだからだ。私自身も分かりやすく「平城京から平安京にきました」と自己紹介したりしている。法人本部が京都にあるので、あながち間違いではない。しかし、大学そのものは、実際は、大阪府高槻市にある。1987年に短大の時に京都から移転し、その後、4年制大学もつくった。大阪と京都の中間で、学生が来やすいことも考えたと思う。しかし、法人本部と中学校・高等学校は、昔から京都にあるし、今後も恐らくそうだろう。しかも烏丸通りに面し御所の西、京都府庁にも近く、分かりやすい所にある。御所に南面の同志社、東面の平女である。地下鉄・烏丸丸太町下車、北上すぐだ。目印は、レンガ造りの明治建築のチャペルである。聖公会系のミッションスクールなのである。立教や桃山学院と同じだ。女学校をスタートさせて130年の歴史を持つ。古いことを言うと湯川秀樹先生のお母さんも卒業生とのことだ。
時々、会議や何かで法人本部に行くとき、時間があると回りも散歩する。数日前も会議より少し前に到着したので内外を少し見た。写真は、「明治館」と呼ばれている建物で、明治建築である。明治28年(1995年)イギリス人ハンセルの設計、アン女王様式と言われる反転曲線破風(はふ)が特徴だ。1995年1月17日の阪神・淡路大震災の時にひびが入り、取り壊しの「危機」もあったが、室崎生子教授たちの努力もあって、2004年3月19日に国の登録有形文化財に認定され、改修、存続、有効活用の方向にある。同窓会等の寄付で改修している。改修が終るのが待ち望まれる。寄付をしても良い人は是非どうぞ。

百万遍

2005-10-29 | 京都の思い出(学生時代)
昨日NHKTV(関西版)の「旅番組」で「百万遍」をやっていた。京大界隈である。私が、最初に「百万遍」という名を目にしたのは高校2年の頃(1958年頃)ではないか。受験勉強を始めていて通信添削の増進会(今の「Z会」)にも入っていた。そこで、毎回、成績が発表されるが、京大志望で何時もトップクラスにいた名前(ペンネーム)に「百万遍電車道(?」と言ったようなのがあった。今はどうしておられるだろうか。実際に、大学に入って京大本部構内の西北隅外の四辻、電車の交差点を中心にいう「地名」と知った。最近では、電車はもう走っていないが、年末の全国高校駅伝の時の通過地点で必ず放映されるので、最近、京大界隈はどうなっているかをチェックする意味でも見ている。この周辺に、誰もが一度は行くパチンコ屋があり、奨学金やバイト料を一時貯金(貯蓄?)しておく「第一勧業銀行」(今の名前は?)があった。勿論、食堂や喫茶店(名曲)等もあった。そもそも「百万遍」とは、この交差点東北にある浄土宗総本山・知恩寺(知恩院に非ず、注意!)の「南無阿弥陀仏読経・百万遍」の言い伝えから来ている。この境内も広く、良く散歩をした。幼稚園も経営していて、助手の時、娘が4,5歳だったが,
通っていて毎日送り迎えしていた。懐かしき思い出の一つである。

何故、食い物の話題は長続きするのか

2005-10-28 | 生活描写と読書・観劇等の文化
今日、バスの中で横に座った二人の女子学生が、食い物の話を尽きずにしていた。聞くともなく聞こえているので聞いていた。「夕べお母さんが料理つくっておくから、と言ったので色々振り切って早々に帰ったのに未だ炊飯器のスイッチも入っておらず、お母さんも何処に行ったか不明、仕方なくコンビニで大量に買って食べた。やがてお母さんが何かの用事で外で食事済ませて帰ってきた。文句を言ったが、結局、兄ちゃんにメールで知らせといて、と言っていたのに忘れたため自分は一人取り残された・・」「私は、おでんは好きだがカレーライスは嫌い、でもカレーうどんは好き、これってどういうことかな。ご飯と一緒なのが嫌なのかな・・」延々と続く。やはり、日本は雑食性で何でも食べているので、皆違いがあり、話題に事欠かないのかな、と思った。それが、逆に北欧ではコレクティブハウスで炊事当番が出来るが、日本ではやりにくい理由でもあるだろう、と思った。

住宅計画Ⅱ講義要約3-住宅の集合と住み方、コーポラティブ住宅例

2005-10-28 | 地域居住学
1週飛んだので、前回の復習を喋りつつ、戸建ての集合単位としての「向こう三軒両隣り」、20戸位の通りの単位等について説明、次に集合住宅の階段室型と廊下型の「つきあい」の違い、「上下二軒両隣り」になる理由の説明をした。
引き続き、集合住宅の最近例として、コーポラティブ住宅、コレクティブ住宅についてふれた。コーポラティブとしては、私自身が体験し、一部住んでいる奈良・高の原の「つなね」の例について話した。いわば4年間の「住宅大学」の体験。4点ほどのコーポラティブ住宅の特徴(個々の間取り等デザインの自由性、中間開発費排除による経済性(結局、普通マンションと似た価格になるが、質が向上)、事前のコミュニティ形成、外に開かれた住まい・・)を述べ、つくる過程のドラマとして、「陣取り合戦」、「共木、個木の決定(柿に楠 けや木にコブシ かきくけこ)」等も説明し、少しは「受けた」かな。来週は、図面で補足することにした。

文字・活字文化振興法スタート

2005-10-27 | 時論、雑感
今日から読書週間であるが、同時に今度、超党派の議員立法で成立した「文字・活字文化振興法」に基づく初の「文字・活字文化の日」でもある。『毎日新聞』で、山崎正和さんと赤瀬川原平さんが意義を語っている。新聞によると、「文字・活字文化」の定義は「活字その他の文字を用いて表現されたもの(文章)を読み、書くことを中心として行われる精神的な活動、出版活動その他の文章を人に提供するための活動、文化的所産」とのことだ。ふと、じゃブログを発信するのも、その活動かな、と思った。文字や活字で互いにコミュニケーションできないとなると民主主義は成り立たない、と山崎さんは言っている。その通りだろう。だから、国や自治体は、国民、住民の「文字・活字表現能力」を一定高める義務があるのだ。各レベルの教育でも当然そうする必要がある。大学に当てはめると、多分、リベラル・アーツ、本来の教養教育の根幹の一つであるだろう。

奈良女子大・奈良散歩05年10月27日-5依水園散策(3)

2005-10-27 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
依水園の最後に「寧楽(ねいらく)美術館」に行った。ここは、中村準策が収集して戦火を免れた2割ほどの美術品、2割と言っても2千数百点にのぼるものを収蔵し展示するために造られた。収蔵品には、中国古代の青銅器・古鏡・古印、中国及び高麗から李朝時代の陶磁器類、日本の茶陶磁器類、数十点の日本絵画等が含まれている。毎年7月から8月に展示品の入れ替えを行い年間通年展示のようだ。ざっと見て、凄いなあと感嘆しきりである。
この建物は、典型的な「むくり」のある大和屋根を藁葺きではなく瓦(本瓦風)でふいたものである。設計は、準策氏と同級(何処の学校か聞き漏らした)の東畑謙三氏と受付の男性が言っていた。1969年設計と言う。建築家・東畑謙三さんは京都帝大建築学科第一回卒業生で私の大先輩である。既に没しているが、西山先生と同じく「三男」である。資料によると、謙三さんの亡くなった後に手書きスケッチを図面におこしたようだ。40年近く経って、近く瓦をふきかえるようだ。何処でこの瓦を焼いたか最近分ったようだと、その受付男性氏が言っていた。
帰りは12時を過ぎたので、近くの「そば処 よし川」でざるそばを食べた。800円以上だが、これも場所代が入るのだろう。今日は東大寺本体には行かず、その回りに行ったが、これら全ての敷地は、本来は東大寺のものだったのである。

奈良女子大・奈良散歩05年10月27日-4依水園散策(2)

2005-10-27 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
依水園(いすいえん)の後園は、明治32年に、これも奈良晒業者の関藤次郎の気宇を汲んで、裏千家12世の夕妙斎が作り上げたと伝えられている。東大寺南大門、若草山、春日奥山、御笠山を借景に取り入れている。建物の濡れ縁等に座って、眺めを楽しんだ。遣り水の水音が聞こえ、小鳥の鳴き声も聞こえて心を洗われるような気分だった。受付の女性に聞くと、外国人で2時間も3時間も入ったら出てこない人もいる、縁側で本など読んでいたりする、とのことだ。今年、ノルウエーやイギリスに行ってきたので、西洋人の時間の使い方を思った。
この依水園全体は、1939年(昭和14年)に中村準策の手に渡った。準策は神戸で財をなし収集美術品を環境と共に鑑賞できる空間として依水園を取得した。しかし、戦争が勃発し、戦後は進駐軍の接収にあって、進駐軍が去った1958年(1958年)以後に孫の準佑(じゅんすけ1930~2001年)が整備して、寧楽美術館とともに公開をはたして現在にいたっている。現在は財団法人が管理している。

奈良女子大・奈良散歩05年10月27日-3依水園散策(1)

2005-10-27 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
喫茶「ときわ」を出て、東に突き当たると、吉城園(よしきえん)、依水園(いすいえん)という名園が二つ並んでいる。今日は、依水園に入ってみることにした。何度か入っているが、いつも駆け足で、ゆっくり見学したことはなかった。今日は人も少ないようだし、ゆっくり回ることにした。ここは三つの部分で構成されている。一つは「前園」、二つ目に「後園」そして三つ目に「寧楽(ねいらく)美術館」である。前園、後園の庭園は、明治期を代表する庭園で、1975年(昭和50年)に国の名勝指定を受け、総面積4千坪におよぶ奈良市内唯一の池泉回遊式庭園である。「明治期」というから、もっと古いものが沢山ある奈良では、見過ごされるのかもしれない。しかし、外国人向けの観光案内にはしっかり書いてあるのか、今日見かけた大半は西洋人だった。受付で聞くと、今日の入場者の8割は外国人とのことだった。西洋人夫婦らしきカップルの記念写真のシャッターも押してあげた。「前園」は、興福寺に連なっているが、江戸期に奈良晒業者の清須美道清が別邸を設け、黄檗山万福寺の木庵禅師が「三秀邸」と名付けた建物があり、そこからの庭の眺めも良かった。

奈良女子大・奈良散歩05年10月27日-2喫茶「ときわ」の庭から

2005-10-27 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
住環境学講座の「事務室」を覗いた。来月初旬にJabeeの現地審査があるようで準備におおわらわの感じ、私も未だの作業を一つしてから、天気が良いので外に出た。奈良県庁の本体と裏の別館の間の道を真っ直ぐに若草山に向って東に行くと、県知事公舎があり、その先の左手に喫茶「ときわ」がある。この裏手の庭で増井正哉さん(現・奈良女子大学教授)、新入生等と昔、珈琲を飲んだことがある。4月の新入生歓迎ハイキングで奈良公園に行った帰りである。この庭から東大寺の大仏殿や南大門の屋根が見え、遠くに若草山もみえる。そして近くに民家の屋根瓦が見えている。ここで、建築史の増井さんが「遠くの東大寺と近くの近代民家が折り重なって見えるのも良いもんだ」といったようなことを言ったことを覚えている。2週間前の10月13日のブログで「異時代の景観複合」ということについて、奈良国立博物館新館と旧奈良県物産陳列所(現・奈良国立博物館仏教美術資料研究センター)及び奈良国立博物館の修理所を例に出して述べた。今回も、その例である。店の人に聞くと、この辺は風致地区で、「派手な改築」は出来ないという。それにしてもコンクリートの電柱や電線、テレビアンテナ、近くの民家のブロック塀はなんとかならないかな、と思った。

奈良女子大・奈良散歩05年10月27日-1南門前の南天

2005-10-27 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
先週は大津出張で休講にしたので、張り切って地域居住学Ⅱの講義に奈良女子大学に行ったら、今日は明日からの秋の文化祭「恋都祭(ことさい)」の準備で全学休講と言う。道理で9時半頃に、何時もの時間と違う時間に南門前辺りに沢山学生がいた。
私は、南門前の民家の前庭・東北隅の「南天」の写真を撮った。これは、駐車場の片隅に窮屈そうに植えられている。私は、学生と一緒にここを通るときには、「何故、こんな所に無理に南天を植えているか」聞くことにしている。「南門」前の「難問」である。今までに、さっと正解が返ってきた事がない。「ここは、敷地のどの方向か?」というヒントで、過去一二の学生が正解を言った。つまり、東北隅ということは、陰陽道(家相)の鬼門にあたるから、そこに南天を植えて「難を転ずる」というわけだ。ついでに奈良女子大構内の東北隅には弓道場があって、弓で鬼を退治し、京大本部構内の東北隅には「計算機センター」があった。「現代科学」で鬼を退治しようという訳だろうか。京都そのものの東北隅には比叡山・延暦寺があって「鬼を追い払う」形である。

ロンドン日記摘要(1982.10.26.)4LSE登録、森嶋通夫さん

2005-10-27 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
ミルヒル・イースト駅でWest End ZoneのWeekly ticketを13ポンド10ペンスで買う。9時45分にLSEのConnaut HouseでMrs.Taylorに会い、次にRegister counterでResearch scholarとして2学期分200ポンド払う。大学の諸施設利用料だ。TutorのDr.Levinに午後に会うことにして、ぶらぶら、LSE路地の突き当たりの本屋に入り、バッタリ金沢大学の小林昭さんに会う。先日のブログ(10月18日)で書いた。昼食を近くのパブで一緒にして、互いに住所や電話番号を言って以後連絡をとることにした。分かれて、私は森嶋通夫教授の所に行った。森嶋先生は、当時もう有名で文化勲章も貰われていた。この先生は、私の建築学科西山研究室の先輩の早川和男さん(現・神戸大学名誉教授)のお知り合いで、イギリスに出かける前に早川先生から住所等を聞いて、手紙でLSEの様子などを聞いていた。その御礼に伺った。発行したての私の編訳本・ゲデスの『進化する都市』が手土産だった。森嶋教授室は、屋根裏のようなところにあり、秘書が案内してくれた。聞いた話「イギリスの大学の教師は国家公務員の3/4位の給料だ。何故なら夏休み3ヶ月は働いていないとみなされている。家賃は高いと言われるが家具付を考えると、そう高くはない。こんな不景気なのに外国に大学の先生を派遣しているのは日本位だ。イギリスはゼロである。ただサバティカル(長期休暇)に二種類あり、長年の功績によるのと、相手の招待によるもの、前者も少なくなっている。・・・」森嶋先生はLSEに日本資金を導入した功績者でもある。SUNTORY―TOYOTAファンドである。お忙しく電話が鳴っていたので早々に退散した。帰国時に挨拶できなかったが、その後LSE同窓会講演が日本であった時二度ほどお会いして話をお聞きしたことがある。先生も鬼籍に入られている。

お祭り広場

2005-10-26 | 京都の思い出(助手時代)
今、秋祭りもぼちぼち終りに近づいた。「お祭り広場」という言葉を聞いたことがありますか。これは、1970年(昭和45年)の大阪万博のメインテーマで、メイン場所の名前だった。国家的行事で、関西で開かれたので、プロデュサーは東大の丹下健三さんと京大の西山夘三先生となった。丹下さんには磯崎 新さん、西山さんには上田 篤さんが事務局としてついた。私は、詳しい経緯は承知していないが、「お祭り広場」というネーミングは、恐らく上田 篤先生が、先ず言い出されたのではないか・・と思う。「お祭り」は、多数、日本にある。国民、地域住民の最大イベントだ。日本三大祭りとか京都三大祭り、あるいは東北の夏祭り等色々あって「出し物」にこと欠かない。大阪万博では、それと「広場」というのを結合させたのが「味噌」である。広場は、本来、日本には伝統がなく、西洋のものだ。ギリシャのアゴラやローマのフォルム等がそれだ。日本の祭りは、基本的には「行列」で町をねり歩く。祇園祭りを考えてみれば分かるだろう。それを、西洋的広場でやったので世界的イメージを獲得したのだ、と私は思う。

「生活環境フィールドワーク」で檜のベンチつくる

2005-10-26 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
2週間前の10月5日のブログで高槻市樫田地区(森林地域)に行った話を書いたが、1週間前には、森林組合が高槻市の森林で檜を切ってくれてベンチを作ることになったようだ。私は先週は大津に出張で出られなかったが、今日は朝早く(?)9時半から12時過ぎまでの「フィールドワーク(実習)」に付き合った。5号棟の地下空間・ピロティが作業場所だ。高槻市のO.さんやWa.さん、若い森林組合の○さんにコーチに来ていただいた。○さんに聞くと、元々大阪市内の出身、意気に感じて高槻の木材製作所に入り働いている。今日は、年輪でみて30年前後の檜を使った。年輪の見方をO.さんが説明してくれた。中心部は赤身で年輪幅は大きい。外周部にいくと、白身で年輪は詰まっている。これは間伐出来ず立て詰まった結果と言う。
とにかく3班の作品は完成、塗料を塗る。最後に、来週は杉で「椅子兼物入れ」をつくること、午後はアッセンブリーアワーで私が「生活環境学の本当の面白さ」の話をしなければならないことを伝えておく。