西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

加藤邦興さんを偲ぶ会(6)畑 明郎君に久しぶりに会う

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
京大工学部の後輩(3、4年)、金属工学出身の畑 明郎君に久しぶりに会って駄弁った。私が助手の時に彼は大学院生だった。彼は、長年、京都市に勤めていたが、神通川のイタイイタイ病に関する仕事でも認められ、加藤邦興さんにひっぱられて大阪市大商学部に赴任し、現在、教授である。600人位の学際的な環境学会の会長もしている。彼のところの大学院生(予備軍含む)とも駄弁った。
そこで、色々私の「自説」も話してコメントを貰った。
・石炭、石油は太古の大森林の「なれの果て」である。(ガソリン税を森林育成に、その他のブログ参照)・・・これについては、石油の元が森林というのは間違い、石炭は確かに太古の森林が生み出したであろうが、石油生成には有機説と無機説があると言う。有機説では、海の動物性プランクトン等の動物性のものが堆積して変化したものと捉えられている。無機説もあるが、いづれにせよ、石炭燃焼による炭酸ガス増加に対しては、固定する樹木を育てること、また石油燃焼による炭酸ガス増加に対しては、森林より更に大きな効果のあり論理的に連関のある海のプランクトンを増やすことも重要である。

加藤邦興さんを偲ぶ会(5)山登りが大好き

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
加藤さんが、サングラスで格好をつけスイスのマッターホルン(モンブランか?)を背景にしている写真があった。国内でも、高校時代からあちこちに登っていたようだ。人工空間でストレスのかかる仕事をしているのだから、時々、大自然の懐に抱かれるのは、誠に自然だ。(名工大の服部千之先生を思い出した。)私は、彼にそういう「趣味」があったとは初めて知った。息子さんが、もう社会人だが、「親父と山登り等自然に触れてきたことを大切にして生きていきたい」といった趣旨を追悼文集『技術と社会ー或る科学者の半生ー』に書いているが、むべなるかな、と思う。偲ぶ会には、山の仲間達も来ていた。
加藤さんは、今ごろ、あちらで「須弥山」(しゅみせん)あたりに登っているのだろうか。

加藤邦興さんを偲ぶ会(4)西淀川公害問題と地球環境

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
加藤邦興さんを偲ぶ会で、「西淀川公害問題と地球環境」のシンポジュウムで発言する加藤さんをビデオで見た。歴史的に見ると、文明が進んだ地域は同時に「公害先進地」で、その地域から文明中心は遷移する。例えばエジプトやメソポタミアは、今は砂漠だが、昔は緑滴る地だった。それは経済活動によってそうなったのだ。同じように公害激甚地は大阪市内から西淀川、尼崎と移っていく・・と発言しているところを見た。誠にその通りであろう。エジプトやメソポタミアを緑に戻してこそ、地球環境は護られる。

加藤邦興さんを偲ぶ会(3)馬奈木昭雄弁護士の偲ぶ言葉

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
宮本憲一先生の次に水俣病訴訟の弁護士・馬奈木昭雄(まなぎ・あきお)さんが偲ぶ言葉を述べた。馬奈木さんが加藤さんに助言を求めたのは、1971年頃であったようだ。私も宮本憲一さんのチームで水俣に最初に調査に行ったのも、その頃である。馬奈木さんは、三つの評価点を述べた。「第一点はチッソアセトアルデヒト製造工程中に有機水銀が生成されることについて、チッソが予見どころかその生成の事実を熟知していたことを明らかにしたことです。第二点として、「チッソの技術、技術のチッソ」といわれたその「技術」こそが、まさに水俣病を発生させたのであり、しかもそれはチッソの偶発的事故などではなく、軍事産業として、国の侵略政策の下で、軍と硬く結びついた技術の必然的結果であった事実を明らかにしたことです。第三点として、水俣病の発生の根本的原因は、国の高度経済成長政策そのものであり、まさに構造的必然的に水俣病を発生させたことを明らかにしたことです。」と。特に核心の第三点を詳しく述べられた。

加藤邦興さんを偲ぶ会(2)宮本憲一先生の偲ぶ言葉

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
加藤邦興さんを大阪市大商学部に引っ張った宮本憲一先生が、加藤さんの業績について話をされた。水俣病公害裁判、西淀川大気汚染公害裁判での証言における加藤さんの指摘、(1)水俣病裁判では、世界的にみると、19世紀に既に有機水銀汚染と被害が発生していたこと、それを化学工業のトップ・チッソが知らないのはおかしいこと。(2)西淀川大気汚染裁判では、一見、個々の関係が分かりにくい大気汚染発生を広域的に捉えても十分戦える論理を提供、塚谷恒雄さんの大気汚染シュミレーションとあいまって勝利をもたらしたことを指摘されました。化学工業、化学コンビナートの具体的技術等について、良く調べていた強みだと思う。なお宮本先生は大阪市大商学部の民主的運営についても加藤さんが貢献した、と述べられました。だから「外様」ではあるが、後に商学部長にもなったと私は思う。

加藤邦興さんを偲ぶ会(1)加藤さんと私

2005-10-15 | 京都の思い出(助手時代)
今日、大阪のホテルグリーンプラザ大阪で「加藤邦興先生を偲ぶ会」があり参加した。加藤邦興さんは、大阪市大商学部長だったが、昨年の2月4日に肺炎で亡くなった、享年60歳、私より2歳年下だった。彼と私の「つながり」の場は日本科学者会議(JSA)公害問題研究委員会で、1970年から1974年まで私が京大工学部助手の時に一緒だったことである。その時、彼は東京工大助手だったので、全国の「まとめ」の委員長をしていた。私は京都支部の委員長だった。その後、私は奈良女子大学家政学部に移ったので、ずっとご無沙汰で、昨年、新聞で突然の訃報を知った。まあ、彼は凄いヘビースモーカー、ヘビードリンカーだったので、そのことが「命取り」になったのかな、と思う。東京工大助手の後、大阪市大商学部に講師として移るが、それは宮本憲一先生(当時、教授、その後、商学部長、立命館大学教授を経て滋賀大学学長、現在は立命館大学客員教授)の「引き」によるものと思う。彼とは、同じ工学部出身なので技術論で技術の概念的把握について議論した思い出がある。つまり武谷三男さんの「客観的法則性の意識的適用」説か、あるいは「労働手段の体系」説か、といったことである。勿論、加藤さんは「労働手段体系」説であった。

サンクト・ペテルブルグ

2005-10-15 | 生活描写と読書・観劇等の文化
2,3日前にNHKTVで「サンクト・ペテルブルグ」をやっていた。ソ連時代にはレーニンに因み「レニングラード」と呼ばれていた。バルト海に面したモスクワに次ぐロシア第二の都市である。ここも行きたいが、未だ行っていない所だ。エルミタージュ美術館も魅力の一つだ。
ところが、その番組によると、ロシア帝国のピヨトル大帝が、ヨーロッパ1年半の視察(正に「グランドツアー」である!)で得た知見からロシアの「遅れ」を取り戻すべく、人の住まない低湿地であったにもかかわらずバルト海に「窓」を開けるため、「サンクト・ペテルベルグ」にモスクワから都を移したのだ。都建設の工事は難工事で、1万人も途中で亡くなっているようだ。現在も、回りは低湿地だらけのようだ。(長い目でみると、人間の健康に良くないのではないか・・)
昔、フィンランドのヘルシンキに行ったとき、「レニングラード」往復船旅があって、「キャビア食べ放題」とのことだったが、行けなかった。今度、北欧ツアーを考えるときには、船で「サンクト・ペテルブルグ」にも行きたいものだ。

郵政民営化法が成立

2005-10-15 | 時論、雑感
郵政民営化法は参議院で「自民造反組19人が一転賛成」で昨日成立した。『毎日新聞』で「近聞遠見」(きんぶんえんけん、と読むのかな)を書いている岩見隆夫さんは、衆議院で野田聖子さんが前国会で反対し、今回の選挙でも小泉さんが送り込んだという「女性刺客」と壮絶な闘いをしたにもかかわらず、寝返って賛成に回ったことに対して「・・かりにいまは少数意見だとしても、筋を通し、将来多数意見にしてみせるという気概がなければ、政治家をやっている意味がない。目先の利害得失や気配りは排除すべきなのだ。」と言っている。民主主義のイロハであろう。又次のようにも言う。「確かに小泉の政治路線は新しく映るが、明らかに自由主義の発想に立っている。個人の自由と能力を最重視し〈官から民へ〉の競争原理をよしとする。社会は活気づくかもしれないが、、所得格差が広がり、非情な弱者軽視にならざるをえない。」と。このことは、私がイギリスに行く前、9月11日のブログに小泉圧勝で「市場万能主義」になるのでは・・と書いたが、その道を進みだしている。早くチェックしないと格差の激しいアメリカの二の舞になりかねないだろう。