西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

ロンドン滞在日記摘要(1982年~1983年)3登録と住まいの選択

2005-10-25 | ロンドンの思い出(LSE時代など)
1982年の夏時間から冬時間への切り替えのことを話したが、今年は10月30日に行われるようだ。さて、娘を中学校(ロンドン日本人学校)に登録し、私自身LSE(ロンドン経済政治学大学)に登録し、何よりも住む住居を決めなくてはならない。
10月18日(月)に地下鉄Northern lineのCamden Town駅近くの「ロンドン日本人学校」に行った。地下鉄駅から西の方に上がってすぐだ。目の前にRegent's Parkが見えている。建物の正面が閉まっているので横手から入った。あとで聞くと、酔っ払いが入り込むから正面は閉めていると言う。前から連絡していた松田先生、教頭の北里先生に面談、手続きOKとなり、来週から登校となる。2年C組で大国先生が担任だ。この建物は、元尼僧院で、元々学校でないので教室は大小様々だった。その日は他に東京銀行ロンドン支店と不動産屋に行った。LSEとは電話連絡すると、来週の月曜日に来いとのこと、先に住宅を決めることにした。10月20日に3軒見て、続いて10月21日に前の1軒含む2軒見て、結局2回見た地下鉄駅Millhill East近くのセミデタッチトハウス(二戸一棟住宅)に決めた。家具つきで週90ポンド(3万6千円当時)の家賃だった。

セキュリティ・タウン

2005-10-25 | 地域居住学
今朝のNHKTVで、セキュリティが売り物の住宅地開発(セキュリティ・タウン)を紹介していた。住宅地の回りに細い鉄線の見通しの効く柵を設け、セキュリティ会社が巡回する、というものだ。これで、普通の開発より一戸あたり50万円高くなり、月々5千円の費用負担が必要と言う。色々「事件」が起きるので日本でも防犯も「売り物」になってきたのかな。故・湯川利和先生の先見性を思ってみたりしている。後継者の瀬渡章子先生も頑張っている。
私は、戸建て住宅地でも、売ってしまうと「お終い」なのではなく、マンションには必要不可欠であるように、「管理・運用システム」の構築が必要、それには当然「セキュリティ維持」も含まれる、と考えている。

薔薇に香りがないのは、美人に○○がないのと同じ!

2005-10-25 | 生活描写と読書・観劇等の文化
○○に何を入れますか。夕べのラジオで聞いて、そういう言い方があるのか、と思った。答え:薔薇に香りがないのは、美人に笑いがないのと同じ、だ。なるほど、と思った。薔薇も美人も見た目が良ければ、それで良い訳ではない、ということを言っているのだ。五感のうち、視覚だけ満足させれば良いのではなく、他の感覚の満足も必要だ。花に良い香りが必要だし、美人にも快活な笑い声が必要というわけだ。薔薇の品評会では、見た目だけでなく良い香りが漂っているかどうかもチェックするようだし、「美人コンテスト」でも、喋って貰って、どういう声をしているのか、どういう教養があるのかをチェックしている。

梅原 猛さん、柳田国男を批判・・

2005-10-25 | 色々な仮説や疑問
今朝の新聞(『朝日』)で、梅原 猛さんが民俗学者だった柳田国男の『遠野物語』と『海上の道』の矛盾点を批判している。一方は「山」、一方は「海」の物語である。南方から海伝いに米作等も日本に入ってきたとする「海上の道」仮説は、実証的に否定されたという。全体として簡単に言うと、梅原さんは、どうも「山の文化」に肩入れし、弥生文化の前の縄文文化をきちんと位置づけし、更に日本の仏教文化を基底におかないと、現在までの日本文化の歴史が読めない、という立場のようだ。
私は、日本列島は、海に囲まれていると同時に山も多く、海の近くの平野と共に山に囲まれた盆地もある、という自然的特長を、文化史を語る場合でも押さえないと、と当たり前だが思う。海彦と共に山彦もいるし、死ぬと海にかえると言う沖縄のようにはっきりしている所もあれば、山に登って天上に至るという考えのところもある。
とにかく、色々考えてみよう。

山本和夫先生の思い出

2005-10-25 | 名古屋・豊田の思い出
豊田高専建築学科教授の山本和夫先生は、橋本敬治郎先生より年配で、構造を担当しておられたと思う。実は、私は山本先生から京大で「一般構造」を習った。先生は、京大建築学科を出られた後、文部省の施設部に入られたようで、当時(1962年、3年頃)、京大の施設課長(部長?)をしておられ、非常勤で教えておられたのだ。そこを定年の後に豊田高専に移られたのかどうか、はっきりしない。私が助手で赴任した1966年度は建築学科の主任をしておられた。助手は、私のほか、先に言った藤谷幸弘さん、そして中谷勉さん(名城大学出身、高校で橋本敬治郎先生に習う)の三人だった。当時はっきりしていなかった助手の研修日について、我々三人は山本先生に掛け合って認めていただいた。それで「晴れて」週に一日、私は名工大の服部千之先生の研究室に出入りするようになったのだ。山本先生は、体を大切にされる先生だった。私が4年後の1970年に京大に助手で移るときにお宅で「送別宴」を開いてくださり「健康第一」と言われた。豊田市栄町の官舎においてである。正に「感謝」であった。その後、定年の後に山本先生は京都の自宅に戻られて、そこで亡くなられた。優しい柔和な目じりに皺を寄せた山本先生の顔は、今も忘れない。

橋本敬治郎先生の思い出(2)出身や経歴など

2005-10-25 | 名古屋・豊田の思い出
橋本敬治郎先生は、1966年当時は、豊田高専の建築学科の助教授で、50歳位であった。京大建築を昭和17年(1942年)卒なので、昭和8年(1933年)卒の西山卯三先生より普通だと9歳下となるが、一旦、東北大学に入って、又、京大にきたことなどがあったようで、西山先生より一寸下という感じだった。先生は山形県の酒田のご出身で米どころである。また戦後に大火のあった所で、その話もされていた。先生は無口の方でご自分から経歴のことを「ああだ、こうだ」とは言われなかったが、長年の付き合いで自然と分かってきたのである。大学を出てから「兵隊」にとられて大陸に渡り、戦後は長くシベリアに抑留されていた。その時代のことも若干お聞きしたが、余り詳しく言いたがらない感じだった。大変苦労されたことが言葉の端々ににじみ出ていた。復員されて結婚されたようだ。奥さんも酒田方面の方で、一人息子がおられた。岐阜の工業高校の教師をしながら建築史の勉強をしておられ、昭和38年(1963年)に豊田高専が出来ると同時に移られた。
当時の高専は(今でもそういう面があるが)、その土地の国立大学工学部が世話して出来た。だから豊田高専は全体として名古屋大学の工学部が世話をし、校長が名古屋大学工学部教授だった電気工学の須賀太郎先生だった。ところが建築学科に関しては、名古屋大学には昭和37年(1962年)に、東大に都市工学が出来たと同じ頃に出来たばかりで、人材が派遣できず、老舗の名工大からでも良かったが、どうも派遣を「拒否」(?)したようで、建築学科に関しては「京大(関西)世話」となったようだ。橋本先生もそうだが、京大出身の教授に山本和夫先生がおられたし、私と同時に赴任した助教授の手塚二郎先生は大阪市大(旧・都島高専)のご出身、私と同じ助手の藤谷幸弘さんは京都工芸繊維大学出身、という具合だった。