西村一朗の地域居住談義

住居・住環境の工夫や課題そして興味あることの談義

大津プリンスホテル見参

2005-10-21 | 2005年4月以降(平女、高槻、学研都市等)
大津プリンスホテルは大分前から知っている。恩師の西山卯三先生存命の折り、丹下健三さん設計で西武系のこの38階の超高層ホテルが出来た。名前の通り大津市、琵琶湖の埋立地に「ミースファンデルローエ」ばりに鉄とガラスで半円柱的に建ち上がっている。二三日前から三日間通った。「私学協会」の研修のためだ。そう言えば、来年の新入生合宿研修にも使うことになっている。複雑な気分で内外の観察をした。
西山卯三先生は、この琵琶湖岸の超高層を批評する視点として、「空間景観における大空空間の意義、重要性」を初めて提起されたのではないか。大津プリンスホテルは、琵琶湖の「青」と「低い」山並みとその上の大空の「青」がセットとなって大自然空間の雄大さを感得させていたのに、それを「破壊」した形になっている。西山先生は、当時(1993年頃)、丹下健三さんに「公開質問状」を出されたが解答はなかった。あるいは、丹下さんは「自然は遥かに大きいのだから問題なし」と思われたかもしれないが、人間と言う小さな「自然」からは馬鹿でかいと言わざるをえない。

始まりと終わりと・・

2005-10-21 | 金沢の思い出
私は太平洋戦争が始まった年(1941年、昭和16年)に生まれ、4歳の時(1945年、昭和20年)に戦争は敗戦で終った。今からここに書く色々な略史を「金沢の思い出」に分類しているが、金沢にいた時は勿論、金沢を「出た」後も、ずっと表題にあるような「始まりと終わり」の両場面に立ち会ってきた。(1)中学校2年か3年の夏にNHK金沢放送局(JOJK)が募集した少年スポーツアナウンサーに応募して採用され、兼六園球場で行なわれた石川県の中学校野球大会の決勝戦を放送したが、その時、私は「始まり」の一回と「終わり」の七回を担当した。(2)金沢大学教育学部付属高校に金沢市立野田中学から進学したが(1957年、昭和32年)、我々11期生は、初めての「推薦入学」だった。形だけ試験を受けた。(3)私は1960年(昭和35年)に京都大学工学部建築学科に進学したが、1回生は宇治分校だった。京阪電車宇治線の黄檗近くにあった。宇治分校は我々が最後で、次の年には旧制三高の吉田分校に統合された。(4)1級上の先輩までは、卒業研究として、卒業論文と卒業設計が課せられていたが、我々からどちらか一つになった。その始まりであった。私は卒業論文を書いた。(5)私は大学院に内部推薦で入った最後の世代である。次の年から内外とも試験になった。就職は、前のブログにも書いたように橋本先生の「引き」で豊田高専に就職した。以後、京大、奈良女子大、平安女学院大と移っているが「就職試験」はなかった。つまり、今までの就学、就職の人生の節目で試験を受けたのは「京大に入る時」だけだった。高校、大学院、就職の時は「フリーパス」という「幸運」(?)だった。(6)奈良女子大学では最後の学生部長、最初の副学長を経験した。(7)国立大学法人が始まった年の終わりに「定年退職」で辞めた、初の「退職」である。国立大学では「定年退官」と言っていた。(8)平安女学院大学では高槻統合の初めての年に就職した。果たして今後、どういう「最初と最後」が待っているのだろうか・・。