HGS散歩の最後は西北隅から西の大通りに抜けた。その大通りはFINCHLEY ROADで北東に行くと私達が昔、買い物等に出かけていた「フィンチリイ・セントラル」の地下鉄の駅に行く。逆の方向に行くとHGSウォークをスタートさせた「ゴルダース・グリーン」の駅方向だ。この通りからHGSに入る門が昔はあったようだ。商店は、この大通りに集められた。そういえば通過してきたHGS内部には一軒の商店もなかった。これもバーネット夫人の計画原則に入っていて、商店街は住宅地の静穏性にマイナスなので外辺部に配置、そこは一般に大通りなので商品の搬出入にも便利、というものだ。これは、後にアメリカで考えられた1920年代の「近隣住区論」に受け継がれている。Na.さんが、今はそんなことでは駄目なのでは・・と言っていたが、確かに高齢化社会では、静穏性よりも利便性の方が重要となり、身近に「ミニ商店街」が展開していた方が良い、ということは理屈としても住民要求からも言えるであろう。
久しぶりに金沢大学付属高校同窓会関西支部総会に出席した。大阪のOAP(帝国ホテルの隣)の38階が会場だった。5、60人の参加だった。総会の前に講演会があり、今年、金沢大学医学部教授を定年退職の(脳)神経外科の山下純弘さんが講演された。高校2年先輩の9回生で大学は京大医学部の出身、若い頃にエジンバラ(スコットランド)の「外科医ギルド」に留学し、現在そのフェロウと言う。定年後は大阪府済生会病院の院長だ。(これは京大人脈によるか。)山下さんは、大学教授より病院長の方が楽しい、と言われる。色々社会トレンド(少子高齢化)と医療の問題も絡めて話されたところもあり、興味深かった。私は、金沢の妹が昔、金大付属病院で山下さんの世話になったので御礼を言っておいた。
総会、懇親会も愉快なものだった。私達11回生(1960年卒)は4人の参加、一番上は3回生で最年長、72歳である。同窓会から17回生の平口泰夫同窓会長が、あと二年すると「60周年」になるので「同窓会館」(名前は高校にも使ってもらうので別名か)を造りたいと提起していた。私が50周年の頃から、高松会長の時代から提起していることであり、平口君がそのことに一寸触れてくれた。高校からは木村副校長以下3人が参加された。「教育学部付属」が「大学付属」になる方向だと言う。大学の学部再編とも関連している。関東支部は「勢い」を取り戻し今度100人以上参加した支部総会を持ったようだ。浅井一郎幹事長も来ていて写真やビデオをとりまくっていた。又「金大附高ネット」http://www.kindai-fuko.net/ に載せるのかなと思った。若い50回台の学生も多く来ていて良かった。同期生の大川良樹支部長、ご苦労さん!
総会、懇親会も愉快なものだった。私達11回生(1960年卒)は4人の参加、一番上は3回生で最年長、72歳である。同窓会から17回生の平口泰夫同窓会長が、あと二年すると「60周年」になるので「同窓会館」(名前は高校にも使ってもらうので別名か)を造りたいと提起していた。私が50周年の頃から、高松会長の時代から提起していることであり、平口君がそのことに一寸触れてくれた。高校からは木村副校長以下3人が参加された。「教育学部付属」が「大学付属」になる方向だと言う。大学の学部再編とも関連している。関東支部は「勢い」を取り戻し今度100人以上参加した支部総会を持ったようだ。浅井一郎幹事長も来ていて写真やビデオをとりまくっていた。又「金大附高ネット」http://www.kindai-fuko.net/ に載せるのかなと思った。若い50回台の学生も多く来ていて良かった。同期生の大川良樹支部長、ご苦労さん!
今朝、JRで京都から高槻に来るとき、8時20分頃と思うが、向日市や山崎の駅のホームの大阪側や沿線踏切の所などに多くの人がカメラを構えて大阪方面を注視していた。列車の写真を撮ることは昔から人気がある。これは何故なのだろうか、と高槻に着く短時間、考えてみた。特に変わった考えがある訳でもないが、「過ぎ去る思い出」「何処かに運んでくれる夢」等に繋がっているからではないか、と思う。私もこの九月にノルウエー、ロンドン等に出かけたときにチャンスがあれば無意識に列車も撮っていたことに気づく。(写真はオスロ~ベルゲン間の列車、停車時に車掌さんもいれて撮る)
HGSの最初の開発住宅は、北西の端のほうにあった。壁に貼ったブルー・プラークならぬホワイト・プラークにそのことが示されている。その内容は「HGSに最初に建てられたこの二軒の家には、1907年と50周年記念の1957年にロンドン市長が訪れた」というものである。これを見て、又この二軒のHGS全体の位置を考えて、又、絹谷先生を思い出した。(「ロンドン報告(33)」を参照)やはり香里団地の開発順序というお話しを聞いた記憶がよみがえってきた。絹谷先生は「団地の骨格が出来たら住宅は、なるべき便利な駅などから一番遠い所から開発すべきではないか。そのことで最後に整備する中心部の価値が自然と順次上がっていく」という趣旨を言われたのである。このことも、このHGSの開発順序(調べること!)から学ばれたのかもしれない、と思った。
京大・建築の同期生の笹田剛史君が昨日の朝亡くなったと友人からメールで知らされた。それまでの闘病の様子も逐一知らされていて、覚悟はしていたが、さみしい気がしている。笹田君は、享年64歳とのことだが、確か高校までの学年は一つ上と思う。広島大学附属高校の出身だった。学生時代の印象は、良く出来る人で、おしゃれ、ただ一寸、皮肉屋というか「斜」に構えているところもあった。研究室は大阪万博の美術館を設計した建築家の川崎 清先生の研究室だった。大学院を修了して助手を経て大阪大学工学部に転じ、阪大教授を長く勤め、コンピューターによる設計手法の開発や大規模な都市復元像の作成などで活躍した。彼が指導してつくった平城京、平城宮のバーチャル復元像をみて感心したことがある。まるで当時の平城京を歩いて見て回るような体験が出来るのだ。昨年、阪大を定年で辞めて台湾の大学で研究し教えると言っていたが、それも出来なくなった。あの世でも、早速あの世の見取り図をコンピューターに反映させているかもしれない。出来たら教えてくれればよいのに・・。長い付き合いを感謝し、ご冥福を祈りたい。
今朝、近鉄・高の原駅の自動販売機でお茶を買ったら「おはようございます」と女性の声で言われた。とにかく買って取ろうとしたら「有難うございます。いってらっしゃい」と言われた。機械的な声である。多分、面と向かった小売のコミュニケーションの良さを何とか自動販売機でも取り入れようとしているのだろう。
しかし、馴染んだ商店街のおばさん、おじさんとの会話には機械はどうやっても勝てないだろう。生駒駅前商店街を思い出した。
しかし、馴染んだ商店街のおばさん、おじさんとの会話には機械はどうやっても勝てないだろう。生駒駅前商店街を思い出した。
HGSの小さな林(little wood)に野外劇場があり、これは日本の香里団地のマスタープランにあった野外劇場(市民劇場)の元ではないか、という仮説を述べたが、とにかく日本でも今後の居住地住民の文化活動の発展の方向に、そういうものもイメージしたら、と思う。そこにいく前に既存の集会所や公園を活用して、市民演劇(音楽会も含めても良い)をやっていったら良い。集会所の部屋の方を舞台にして外部を客席にするのも良い。(ブログ「S.B理論」05年8月23日参照)昔、奈良女子大の演劇部の顧問をしていた時、「つなね」の中庭や階段、廊下(オープン)を使っての演劇をしたらどうか、と学生に提案したことがある。『ウェスト・サイド・ストーリー』でもニューヨークの町を舞台としている。