5・14義父母の法要でご住職の話を聴きました。
自分なりの解釈では凡そ次のようなものでした。
一般に宗教はreligionと称されるが仏教はこの範疇に入らないのではないか・・・
西洋の宗教特にキリスト教は、自己を犠牲にして多くの人を救う、つまり万民救済が本旨である。これに対して仏教は解脱つまり自己の開放を説いている。
人は俺が俺が、という強い自己意識を持っているが、この俺とは一体何なのかを見きわめなければならない。それは遠い祖先から全ゆる因果の果てにここに結実しているのである。だから、自分は自分であって、自分一人だけの自分ではなく、全てと関わりを持つ自分である。生きていると同時に、生かされている存在である。だから、その命を自ら絶つなどということは人の道ではない。これは他人に対しても同じで、その命と存在を大切にしなければならない。
よく「人事を尽くして天命を待つ」というが仏教の立場からいえば「天命を賜り人事を尽くす」でなければならない。
法要が、亡き親と先祖との縁に思いを馳せ、自分と他人の存在と在り方についても考える契機となれば意義あることだと思います。
自分なりの解釈では凡そ次のようなものでした。
一般に宗教はreligionと称されるが仏教はこの範疇に入らないのではないか・・・
西洋の宗教特にキリスト教は、自己を犠牲にして多くの人を救う、つまり万民救済が本旨である。これに対して仏教は解脱つまり自己の開放を説いている。
人は俺が俺が、という強い自己意識を持っているが、この俺とは一体何なのかを見きわめなければならない。それは遠い祖先から全ゆる因果の果てにここに結実しているのである。だから、自分は自分であって、自分一人だけの自分ではなく、全てと関わりを持つ自分である。生きていると同時に、生かされている存在である。だから、その命を自ら絶つなどということは人の道ではない。これは他人に対しても同じで、その命と存在を大切にしなければならない。
よく「人事を尽くして天命を待つ」というが仏教の立場からいえば「天命を賜り人事を尽くす」でなければならない。
法要が、亡き親と先祖との縁に思いを馳せ、自分と他人の存在と在り方についても考える契機となれば意義あることだと思います。
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