ほぼ週刊イケヤ新聞ブログ版

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ロッキー・ザ・ファイナルを見て、泣いて、泣いて。この映画は素晴らしすぎて評価できません。

2007年04月21日 22時35分27秒 | 映画レビュー
誰がなんと言おうと。

僕にとって最高の映画はロッキーであって、ロッキーこそが、映画の扉を開けてくれた。そしてそれだけでなく、生きる指標を与えてくれた。人生を変えた、いや、人生を始めさせてくれた映画がロッキーだ。あんなに感動した映画はなかった。たぶん僕にとってはもうないだろう。

第二作目までは見た。第三作目以降は、失望するのが怖くて見ることができなかった。

そして、これは第六作。ファイナル。1976年の最初の作品から、31年だ。
なぜ今回は観たいと思ったのか、自分でも分からない。
でも、今回は初日にどうしても観たい、と思った。たぶん何か、運命的なものだろう。導きなのか。

筋は言わない。正直言って映画として素晴らしいかどうかも、わからない。

ただ、僕にとっては、ロッキーはあれから31年、生きていた。そのことが嬉しかったし、エイドリアンと幸せに暮らし、エイドリアンを失ったロッキーの悲痛な哀しみは、激しく僕の胸を打った。僕は僕自身の非常に親しい誰かを本当に失ったような気持ちになった。それだけで僕は映画の前半を泣いて過ごした。

いろいろあってロッキーは、あり得ない話だが、もう一度リングに立った。その理由は、映画ではハッキリと描かれていない。しかし僕はエイドリアンを失った事への理不尽な苛立ちと怒り(それは人は必ず死ぬ、ということへの理不尽な怒りだ、神をも恐れぬ怒りだ)、そして常にファイターであり続けようとする無自覚な意思だろう。(多分映画評論家達は、もう一度闘う理由がわかりにくい、そこがこのプロットの弱さだ、と非難するだろうが、そんなモノは豚に喰わしてしまえ!)

リングで闘うロッキーは、もはや滑稽かも知れない。でも滑稽さを怖れずに、滑稽であってもいいという勇気を持って、この映画は作られた。そこが素晴らしい。
これは最初のロッキーから30年以上たった僕(僕たち)への、メッセージだろう。かっこ悪くても、負けが分かっていても、僕たちはやりたいことをやるべきなのだ、年相応に余裕をカマして生きている場合ではない。だから、僕はこの映画の後半、声を出して泣いていた。

それから音楽でも泣いたな。葛藤するシーン。トレーニングを開始するシーン。試合が始まるときにファンファーレからロッキーのテーマが始まるところ。意識的かどうか分からないが、音楽もすべて最初のロッキーで使った音楽だった(音源そのものは変わっているが)。何故それが分かるのかというと、僕はサントラ盤を買って、すり切れるほど聴いたからだ。

ロッキーは、生きている。ありがとう。

ポーリー。エイドリアンの兄貴。良かったよ。本当にいい役者さんだ。この映画の影の主役はポーリーだ。

ああ、もうやめましょう。キャストがどうとか、ストーリーがいいとか、よく寝られた脚本とか、カメラワークがどうだとか、そんなことは、どうでもいい。

明日から生きる力をもらったよ、ロッキー。

ありがとう。

俺はまだまだ、走り続けるぜ。




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