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山科本願寺遺構めぐり

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写真は、史跡山科本願寺跡公園。

戦国時代の初期、山科には広大な本願寺の拠点があり、山科本願寺と呼ばれていました。
その遺構をまいまい京都の「山科本願寺 巨大土塁にびっくり仰天!“城”と呼ばれた巨大寺院跡をめぐる」に沿ってめぐります。

まずは山科本願寺の簡単な歴史です。
鎌倉時代に親鸞聖人が起こした浄土真宗は地方で広まっているところもあったが、近畿では既存勢力(延暦寺など)もあったためでしょう今一つでした。
しかし室町時代、蓮如が民衆目線の正しい親鸞の教えを説くと、あっという間に広まりました。
今度はそれが仇となり、崇泰院は破壊されるし坂本に逃げても迫害されるしで、越前の吉崎で布教を始めます。
そしたらここでも爆発的に拡がったのはいいけど、今度は信者をコントロールできなくなり武装、武力化して、為政者に逆らうようになった。
蓮如はそのような事態に心痛めて越前を後にします。
その結果一向一揆は加賀の守護を追い出して、自衛自治を始めることになります。
一方の蓮如は京に入るとまた迫害されるので、山科に布教の地を求め1484年に山科本願寺を造ったのです。

順路
地下鉄東野駅の出入口2から出て右へ。
最初の信号を渡り、そのまま直進。
道なりに右に曲がりながら進むと、左手に見えるのが本願寺山科別院
西本願寺系列の山科本願寺遺構です。
本堂正面の表門から出ます。
表門から約50mで車道に出るので、ここを右折しすぐにクランクして直進します。
正面に森が見えますが、その手前右手奥に蓮如上人銅像跡があります。
今は台座だけになっています。
昭和9年に建立したのですが、太平洋戦争の金属供出で回収されたので10年足らずしか存在しませんでした。

元の道に戻った正面の森が蓮如上人御廟所
蓮如上人が亡くなった後、翌日に火葬して埋葬した(時間を空けると人が集まり過ぎるから)場所です。

蓮如上人御廟所を出て右に進み、御廟所の敷地に沿って右折。
さらに進むと山科中央公園に着きます。
ここにある小山が山科本願寺土塁跡。
山科本願寺は他宗派などから攻撃される恐れがあったため、周囲を3重ぐらいで土塁で囲んでいました。
その一部が今でも残っています。
これが造られたのが1510年~1520年ぐらいと想定されるので、後の「総構えの原型」ではないかとも云われているそうです。

公園の南側の敷地に沿ってさらにまっすぐに進むと西宗寺に着きます。
西宗寺は蓮如上人臨終の地ではないかと云われてるうちの1つです(もう1つはちょっと東にある光照寺)。
南東方向に戻りながら、奥田家住宅前と邸宅内に残る土塁を外から拝見し、
史跡山科本願寺跡公園へ。

この辺りが山科本願寺の西端。
すぐ隣には集落があり、その集落に沿って山科本願寺を造ったようです。
そして何もない東側にどんどん拡張していったそうです。
ここは東向きに御影堂、阿弥陀堂があった背後になるので、プライぺーとスペースだったそう。
井戸や石風呂の遺構が残っています。

ここから南に見えている国道1号線に出て、左手に進むと東野駅に戻ってきます。

さて山科本願寺ですが、1499年に蓮如が亡くなります。
1532年に法華一揆、細川晴元と六角定頼の軍勢に攻められて焼失するのです。


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