彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

桶狭間古戦場訪問9 瀬名陣所跡

2016年05月21日 | 史跡
桶狭間古戦場公園のすぐ近くに瀬名陣所跡があります。

瀬名陣所に陣を構えた瀬名氏俊は徳川家康の正室・築山殿の父である関口親永(瀬名義広)の兄にあたります。
瀬名氏は今川了俊を始まりとする堀越氏の一族で、れっきとした今川一族ですが、室町幕府六代将軍足利義教が今川氏は一家のみと決めたために、今川一族は本家以外は別の氏を称する必要があったのです。
さて、先瀬名氏俊は先鋒隊としてこの地を抑えていましたが、本線の時には松平元康の後を追って大高城に向かっていたために本陣から離れていて無事に駿河に戻りました。
子孫は旗本として徳川幕府に仕えています。


所在地 名古屋市緑区桶狭間

桶狭間古戦場訪問8 田楽坪

2016年05月20日 | 史跡
現在は、桶狭間古戦場公園として整備されている史跡が田楽坪です。

桶狭間古戦場は、大きく分けて2か所の批准地が知られています。一つがこの地であり、もう一つが1キロ程北東にある豊明市の古戦場跡です。
大きな目で見れば、桶狭間の戦いは5回の衝突があったことが『信長公記』にも、信長が義元本陣を攻撃した後、「真丸になつて退きけるが、二、三度、四、五度、帰し合わせ帰し合わせ次第次第無人になつて後には五十騎計りになりたるなり」と記されているように、義元は五度引いては戦い引いては戦いを繰り返してだんだん兵が減って行ったのです。
つまり、古戦場と思しき場所が5か所くらいあっても不思議ではなく、古戦場と宣言しているどちらともが桶狭間の戦いの戦場だったと解釈しています。
そもそも、戦いなんてものは広範囲で行われるのでどちらも戦場の一角と考えるほうが自然ですよね。
ただし、この2か所がお互い譲らないのが、どこで義元が討たれたか?ということのようですね、これこそ資料をいくら読み込んでも解る訳はない(影武者や身代わりや偽首も横行するので、当時の人でも正しいことは解らない)論争なのですが…

そんな考えはさておき、名古屋市緑区での義元討死の地とされているのが田楽坪の桶狭間古戦場公園です。





以前紹介しました首洗いの泉や

行軍を表したモニュメントも公園内にあります。

史跡として、
・義元のお墓2基





・馬繋ぎの「ねずの木」

・義元討死の地の石碑

が残っています。



所在地 名古屋市緑区桶狭間

桶狭間古戦場訪問7 巻山(井伊直盛の動向を考える)

2016年05月19日 | 井伊家千年紀
トップの写真は、浜松市北区引佐町龍潭寺の井伊直盛の像です。

5月19日は桶狭間の戦い当日。
桶狭間の戦いについては以前に書いていますので(今の考察とは多少違うところがありかすが)、下記のアドレスを参照してください。
http://blog.goo.ne.jp/hikonejou400/e/2beb5195b93daac8f408497b3a4ae9f9
彦根市民として、井伊家の歴史を調べるとき桶狭間の戦いも重要なポイントになると思っています。この戦いで当主直盛を失った井伊家は、この後に養子・直親の暗殺、直平の死を経て女地頭井伊直虎そして徳川四天王井伊直政へと続いてゆきます。
この繋がりは、たぶん直盛がここで亡くならなければ起る可能性は低く、場合によっては今川家滅亡と共に井伊家も無くなるか小さな領主にしかなれなかった可能性もあったのです
当時の井伊家にとっては不幸でしたが、のちの井伊家にとっては大きな分岐点の一つであった桶狭間の戦いで井伊直盛がどのように動いたのかは大きな疑問であり、今回の桶狭間古戦場訪問はそれを調べるのが目的でした。

歴史を見てみると、
永禄3年(1560)5月
11日、井伊直盛らが井伊谷を出発し先発隊として西へ軍を進める
12日、今川義元、駿府から出陣
15日、先発隊、池鯉鮒(知立)到着
17日、先発隊、鳴海城・大高城辺りにて戦う(直盛は朝比奈泰朝と鷲津砦攻め)
18日、義元本隊、沓掛城到着、直盛・松平元康が呼び戻される
同日夜、元康大高城へ兵糧を入れる
19日、桶狭間の戦い
…となります。
井伊直盛は先発として出陣し、鷲津砦攻略のために戦っている途中で本体に合流して桶狭間の戦いで義元と共に亡くなったのでした。
『井伊家伝記』によれば、奥山孫市郎に遺言を残し、介錯させて切腹したとのことで、孫市郎が遺体を井伊谷まで持ち帰っています。

では、直盛は戦い当日にどこに居たのか?
豊明市の古戦場でガイドさんに訊ねたときは「わからない」とのお返事でした。
名古屋市緑区の古戦場公園には戦いの進路予想図をモニュメントにしておいてありました

これによると、おけはざま山から田楽坪を挟んだ向かいにある巻山を井伊軍陣としています

あの辺りの小山かな?

近くの長福寺の御住職に訊ねますと桶狭間小学校の辺りではないか…とのことでした。

桶狭間小学校の辺りは、確かに小山になっていてここが戦場とするならばなにがしかの陣が置かれても不思議ではない場所でした。


桶狭間の戦いでは、当主井伊直盛を始め、直親に仕えていた小野玄蕃や奥山一族、上野一族などの親戚を含めて主だった家臣16名が討死したと言われています。
・井伊直盛の墓(以下、墓は龍潭寺)

・小野玄蕃の墓

・桶狭間戦死者の墓

このような大きな悲しみがあった翌年、井伊家を救う直政が産声をあげたのです。

余談ですが、2016年5月19日、井伊谷の龍潭寺において井伊直盛公の法要が営まれ井伊直虎市民応援隊からも隊長(『どんつき瓦版』編集長)が参列。


所在地
 ・名古屋市緑区桶狭間
 ・浜松市北区引佐町 龍潭寺

桶狭間古戦場訪問6 おけはざま山

2016年05月18日 | 史跡
おけはざま山は、桶狭間の戦いの時に今川義元の本陣があったとされている場所です。

明治時代以来、長い間日本史における桶狭間の戦いは、桶狭間(田楽狭間)という谷間に本陣を置いた今川義元に対し、織田信長が谷の上から今川勢を見下ろして攻め降ったとされていました。
このために、今川義元は兵法も解らない凡将とのイメージが付いていたのです。

その原因は桶狭間という地名にもあることは否めません。
狭間という地名はどうしても谷を思い出させてしまうのです…
ただ、緑区の桶狭間古戦場公園の中にある「義元公首洗いの泉」の解説の中にこんな文言がありました。
“湧き出る水の勢いで水汲み用の桶がくるくると廻っている様子に興味を誘われた旅人が、桶が廻る間の一服とて「桶廻間」と呼ぶようになったとの言い伝えもあります。江戸時代の文書の殆どは「桶廻間」でしたが、明治10年(1877)の郡町村制の制定以降、現在の「桶狭間」となりました”と…



それが事実ならば、桶狭間は谷のような場所と考えることすらありえなくなるのです。

そして、最近の指摘として言われるようになってきたのが、義元が本陣を置いたのは「おけはざま山」であったと『信長公記』に書かれているということです。
この「おけはざま山」がどこであるのか?どんな漢字を使うのか?はわかっていないので、批准地として候補に挙がっている場所が、桶狭間古戦場公園近くの丘のような場所です。

この付近は確かに高低差があります。

住宅地の一角に石碑と案内板があります



桶狭間の戦いはまだまだ謎が多く残りますが、一つの説としての「おけはざま山」批准地として見学しました。


所在地 名古屋市緑区有松町桶狭間

桶狭間古戦場訪問5 鷲津砦

2016年05月17日 | 史跡
大高城を囲んだ二砦(丸根砦・鷲津砦)の一つ。

織田信長は大叔父の織田秀敏と飯尾定宗に400の兵を与えて鷲津砦を守らせます。

桶狭間の戦いの先鋒として、井伊谷の井伊直盛が今川義元の本陣より少し早く尾張に入りました。
そんな直盛と掛川城主の朝比奈泰朝が2000の兵で鷲津砦を攻め、秀敏らは砦に籠って抵抗します。
桶狭間前日、沓掛城に入る義元は直盛と松平元康を先に沓掛城に入らせ、自らが到着した後に元康を大高城の兵糧入りに行かせ、直盛を本隊近くに残したのです。
桶狭間当日の朝、鷲津砦は泰朝が猛攻して落とし、秀敏や定宗は討死したのです。

この後、桶狭間で井伊直盛は討死、戦後に無事に掛川に戻った泰朝は少し後で直盛の養子井伊直親を殺害することになります。

そんな鷲津砦は公園となっています。

自然豊かですが、ところどころに人の手が加わった感じがする遺構です





・本丸跡

もし、井伊直盛が朝比奈泰朝と一緒に鷲津砦を攻めていたら、井伊家の運命は今とは全く違ったものになり、もしかしたら彦根藩井伊家はなかったかもしれないと考えると、彦根市民として歴史の奇妙さを感じずにはいられまい場所でした。


所在地 名古屋市緑区大高町鷲津

桶狭間古戦場訪問4 丸根砦

2016年05月16日 | 史跡
大高城を囲んだ二砦(丸根砦・鷲津砦)の一つ。

織田信長は、佐久間盛重に400の兵を与えて大高城を監視させます。桶狭間の戦いの前夜(5月18日)に松平元康は大高城に兵糧を入れて、19日の朝から1000の兵で丸根砦を攻めたのです。
佐久間盛重は、撤退して信長本隊に合流することを主張しますが、服部玄蕃がこれに反対し400の兵は砦を打って出て松平勢と戦ったのです。
元康は石川家成を先鋒に石川数正や酒井忠次・本多重次らを指揮して戦い、丸根砦は落ちたのです。
そののち、大高城の鵜殿長照と交代して元康は大高城に入り、そこで桶狭間の悲報に接したのでした。

丸根砦は、その名の通り丸い遺構でした。







頂上部分には、この戦いでの犠牲者の慰霊碑がありました。



所在地 名古屋市緑区大高町丸根

『MEET三成展』

2016年05月15日 | イベント
4月29日からプレイイベントが行われていた『MEET三成展』の本イベントが、5月14日より始まりました。
彦根・米原・長浜のメインとなる3つの会場があります。

〇彦根会場
大河ドラマ『真田丸』の展示を中心に行われています。
有名な「大一大万大吉」の旗印は大一の下に大万が左側で大吉が右側に書かれていますが、有史以来日本語の縦書きで左から書く書き方はないのでおかしいと思っていましたし、何度かその疑問を有識者にぶつけたことがあるのですが、彦根会場の旗印は大万が左側のものになっていました。
この旗印なら納得できます。

なお、彦根会場はほとんどの場所が撮影禁止です。

〇米原会場
石田三成の三献茶でゆかりの観音寺が会場になっています。3会場で唯一三成と関係がある場所です。
当時のお茶碗を再現した物が展示されています。

観音寺に来られた役者さんのサインのコピーや、歴史アイドルの小日向さんや歴史芸人の長谷川さんのコメントが見れます。
 
三成公への手紙ということでハガキが用意されていましたが、このイラストならば欲しい方も多いと思います(持ち帰りOK)

飴もいただけます

ここでは三献茶の体験として、お茶をいただけます(無料)

お茶菓子として『三成めし』の一つである「三献のcha」と「レアな三成」が販売されていますので「三献のcha」の抹茶味(180円)をいただきました。

帯の丸の中に「大一」と書かれていますが、他の2つの味にもそれぞれ「大万」「大吉」と書かれているという心憎い演出がされています。
管理人が訪問した日には三成タクシーも来ていました。


〇長浜会場
黒壁スクエアーの中の曳山博物館のすぐ近くにあります。
3月の東京のイベントで山本耕史さんが書かれた「大一大万大吉」が展示しています。

空き缶で作った武将の兜もありました


今回の展示に合わせてスタンプラリーも行われています

3会場のスタンプを集めると先着5000名に、山本耕史さんの字を使ったクリアファイルがもらえます。

そして、3会場以外に三成ゆかりの場所9か所(彦根と米原は各2か所、長浜は5か所)のうち、各市2か所ずつの6か所のスタンプを集めると景品が当たるかもしれない応募用紙がもらえます。

期間は11月30日までです。


MEET三成展の会場3か所と、ゆかりの地9か所のうちの時間がかかる竹生島以外の8か所を14日と15日で訪問してみました。
まだ始まったばかりですので、一部の会場以外はそれほどお客さんも見かけなかったようにも思います。今回のイベントで特に力が入っているのは米原市です。上記しました通り3会場では唯一三成ゆかりの地での開催であることも大きいとは思います。
ゆかりの地のスタンプポイントである松尾寺では、三成めしとして和食が3食とスイーツが1食楽しめます。今回は時間の都合で食べることができませんでしたが、ここの料理は以前に食べたときにすごくおいしかったことを覚えていますので間違いないと思います。今回のために特別価格で提供しているとのことでした。確かに醒井楼(松尾寺のお店)さんの料理としては破格です。期間中に必ず食べに寄りたいと思っています。

三成めしは今回のイベントのメインの一つになるであろう食の三成イベントで、スタンプラリーの冊子に紹介が載っているので必見です。
今回は彦根のもので何度かメディアにも取り上げられた四季葉さんの「三成勝丼」を紹介

話題の三成顔のウズラの卵もありました



3会場
 ・彦根会場 彦根市金亀町 彦根城の開国記念館
 ・米原会場 米原市朝日  観音寺本坊
 ・長浜会場 長浜市元浜町 湖北観光情報センター

桶狭間古戦場訪問3 大高城

2016年05月15日 | 史跡
桶狭間の戦いにおいては広がった戦線の一つでしかないですが、のちの日本史から見れば重要な場所となるのが大高城です。

もともとは織田信秀に従っていた水野忠氏の居城でしたが、鳴海城の山口教継が今川義元に従った後で教継に攻め取られたのでした。
義元は朝比奈輝勝を城代に任じます。これに対して織田信長は鷲津砦と丸根砦の二砦を築いて大高錠を包囲させます。
桶狭間の戦いの前、鵜殿長照が織田勢を抜けて大高城に入り、桶狭間の戦いの前夜には松平元康(徳川家康)が兵糧の運び入れに成功し、そのまま大高城内にとどまって丸根砦を攻撃し、義元本隊の到着を待つことになったのです。
これが、元康の運命を大きく変えることになりました。本来なら最前線に回されたはずであったのが、今川勢の本陣が壊滅したために前線は主戦場から離れていて、大高城に桶狭間の戦いの報告が届いたときには義元の首は取られていたのです。

この後、元康は岡崎城に戻り、大高城は信長のものとなりますがすぐに廃城になったのです。

子どもの頃に読んだ歴史漫画では、元康の兵糧入れで平城に運び込んだような絵があり、大高城は平城だと思い込んでいました。
しかし実際には小ぶりな山に築かれた平山城であり、近づくためには車一台が通るのがやっとのような道が続きました。
やっとのことで近くまで行き、城郭に入ると広い本丸と二ノ丸の曲輪がありました。







・土塁も



・堀切?

・本丸にはお社や石碑があります





ここが歴史の分岐点の一つであるのに、静かに守られている気がしました。


所在地 名古屋市緑区大高町

桶狭間古戦場訪問2 善照寺砦

2016年05月14日 | 史跡
鳴海城を囲む抑えの砦として織田信長が築いた三砦(丹下砦・善照寺砦・中島砦)の一つ。

桶狭間の戦いの直前は佐久間信盛が守っていて、戦いのため清洲城を飛び出した信長は熱田神宮で軍勢をまとめたあと、ここに入り今川義元の陣を目指して進軍したと言われています。
鳴海城の尾根沿いであることから、ここも周囲から急に高くなった丘になっていて、今は公園となっています。








桶狭間の戦いの後、どのような扱いになったのか?いまいちわかりませんでした…


所在地 名古屋市緑区鳴海町

玄宮園で田植えをしよう

2016年05月14日 | イベント
彦根城の大名庭園である玄宮園。
平成24年の発掘で田んぼが見つかり再現されました。それからは市の職員さんが田植えをしていたそうなのですが、今年は市民公募で田植え体験をするイベントが行われました。

田んぼの広さは約100ヘクタールで江戸時代は藩主も田植え体験を行っていたそうです。
普段は柵で入ることができない場所に入り、藩主と同じ体験をすることになります。

職員さんのお話や玄宮園の案内があり

市長の御挨拶

そして田植え体験の始まりです。
用意された苗を手に取って

田植えの説明をしてくださいますが、結構深いですね…

市長が一番に田んぼに入り挑戦します



参加者もそれぞれの場所で田植えを始めます

頑張れ!子どもたち

最初は長靴を履いていた方々も田んぼに長靴が残ってしまう事態に遭遇

ついに長靴は陸に残され裸足で入る方もチラホラ

参加者さんの動きがだんだん様になってきて

農業には結構強い『どんつき瓦版』の編集長が我慢できずに田んぼの中へ

こうして無事に田植えが終わりました




これから、除草や収穫のイベントも行ってみたいとのことでした。
今回の参加者さんは事前にわかっている数字で19名だったそうです。あと植えたお米の品種はキヌヒカリとのことでした。


所在地 彦根市金亀町