彦根の歴史ブログ(『どんつき瓦版』記者ブログ)

2007年彦根城は築城400年祭を開催し無事に終了しました。
これを機に滋賀県や彦根市周辺を再発見します。

玄宮園で田植えをしよう

2016年05月14日 | イベント
彦根城の大名庭園である玄宮園。
平成24年の発掘で田んぼが見つかり再現されました。それからは市の職員さんが田植えをしていたそうなのですが、今年は市民公募で田植え体験をするイベントが行われました。

田んぼの広さは約100ヘクタールで江戸時代は藩主も田植え体験を行っていたそうです。
普段は柵で入ることができない場所に入り、藩主と同じ体験をすることになります。

職員さんのお話や玄宮園の案内があり

市長の御挨拶

そして田植え体験の始まりです。
用意された苗を手に取って

田植えの説明をしてくださいますが、結構深いですね…

市長が一番に田んぼに入り挑戦します



参加者もそれぞれの場所で田植えを始めます

頑張れ!子どもたち

最初は長靴を履いていた方々も田んぼに長靴が残ってしまう事態に遭遇

ついに長靴は陸に残され裸足で入る方もチラホラ

参加者さんの動きがだんだん様になってきて

農業には結構強い『どんつき瓦版』の編集長が我慢できずに田んぼの中へ

こうして無事に田植えが終わりました




これから、除草や収穫のイベントも行ってみたいとのことでした。
今回の参加者さんは事前にわかっている数字で19名だったそうです。あと植えたお米の品種はキヌヒカリとのことでした。


所在地 彦根市金亀町
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桶狭間古戦場訪問1 鳴海城

2016年05月13日 | 史跡
桶狭間の戦い関連の史跡を幾つか巡りましたので、その訪問記。
まずは、鳴海城。

桶狭間の戦い以前から今川義元は尾張に工作を行っていて、いくつかの城や武将が今川方についています。
その中でも特に大きな寝返りとなったのが鳴海城主山口教継でした。教継は今川方に寝返った後で大高城を攻略し、今川家の戦線が一気に尾張に食い込むきっかけを作ったのです。
そして鳴海城に今川方の重臣である岡部元信を迎えました。

しかし教継自身は、義元に呼ばれて駿府に出向いたときに息子の教吉共々自害させられるのです。織田信長の計略だったとも言われています。

桶狭間の戦いのとき、鳴海城は岡部元信が守っていて、周囲は信長が造った丹下砦・善照寺砦・中島砦に囲まれていました。
義元が討たれた後も抵抗を続けますが、信長に義元の首と交換で開城することを交渉し、信長がこれを受け入れて義元の首を受け取って堂々と城を出て駿河に帰国したのです。
その後、鳴海城には佐久間信盛・信栄親子が入りますが、天正期の間に廃城になったとされています。


・現在は公園になっています


・公園から道を挟んだ向かいの鳴海神社に石碑などがあります








・遺構として近くの東福院の山門が移築建物と言われています




現地に立つと、平地の中で急に岡のようになった部分に城跡があり、見渡しの良いという中世城郭の一番重要な要素を抑えていた場所であることがよくわかりました。桶狭間の頃はこの麓まで海が迫っていたとのことでしたので、交通の監視拠点であったとも考えられます。
ここを取られたとき、織田信長がどれほど焦ったかが想像できそうな場所です。


所在地 名古屋市緑区鳴海町
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秋口家住宅移築後見学

2016年05月08日 | イベント
彦根市芹町に建てられていた国登録有形文化財の秋口家住宅が、七曲りの元岡町に移築され完成したとのことで現所有者さんの好意で一般公開されました。
七曲りという彦根市でも特に古い町並みと伝統が残った場所に大正期の洋館が加わったことになります。

秋口家住宅は、屋根裏から見つかった棟札では大正5年(1916)5月10日に上棟されたそうなので、奇しくも数日で100年になる建物です(この日を狙って公開した訳ではないそうです、偶然ってすごいですね…)
もともとは、歯科医として開業されていた建物だったそうで、2階建ての1階が住居スペース、2階が診療所という建物になっていたそうです。
表から見ると、2階中央にドアがあるので、昔は玄関の上にバルコニーがあったのではないか?とのことでした。

〇正面からの全景
・移築前

・移築後

・現所有者さんの趣味(研究と言っていいかも)で鍾馗さんが乗っています



〇玄関を入るとすぐに、歯科医時代の名残の小窓が…
・移築前

・移築後

〇裏から見るとこんな感じ
・移築前



・移築後


〇二階に上がる階段(二階から下を見る)
・移築前

・移築後


〇二回外へ通じるドア(開けると危険…)
・移築前

・移築後


〇待合室の受付窓口
・移築前

・移築後

・ここで楽しめるように今はカロムが置いてありました


〇診察室
・移築前

・移築後

・木材などはできるだけ以前の物を使い、最低限の補修を加えたそうです、その時に木目を合わすなどの工夫もされたそうです


〇梯子のようなものを登れば天井裏にも行けるそうです


〇ここは外の景色も趣があります



「100年残った物を、自分が生きているあと50年ほどの人生で伝え、またそのあとも伝えてほしい、そして技術の伝承も願っています」との現所有者さんの言葉でした。
古い物の移築ではありますが、耐震などの安全基準は今の法律が適用されるので耐震補強などはしっかりされているそうです。古い物と新しい物が創意工夫されて、また新たな歴史を伝えてゆくという歴史にとって一番大切な人のバトンを見せていただきました。


・所在地 彦根市元岡町
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沙沙貴神社のなんじゃもんじゃ

2016年05月07日 | 史跡
五月の中頃になると、近江八幡市安土町の沙沙貴神社で「なんじゃもんじゃ」の木がみどころを迎えます。

「なんじゃもんじゃ」というのは特定の木の品種に付けられた名前ではなく、神社などの神域や霊域で神秘に満ちた樹木に付けられた呼び名だったそうです。
この場所も、近江源氏佐々木家発祥の地という神秘的な霊域になります。



ちなみに、「なんじゃもんじゃ」と呼ばれる樹木は、楡や菩提樹・楠などがあるそうですが、一番多いのは一つ葉田子(ヒトツバタゴ)のようで、沙沙貴神社も一つ葉田子です。





見上げるような大きな木に、季節外れの雪が積もったように白く花が咲くと、古人の「あれはなんじゃ」との驚きの声が聞こえてきそうですね。



・所在地 滋賀県近江八幡市安土町
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直親かくれ岩

2016年05月07日 | 史跡
旧鳳来寺街道の峠から少し道を外れると、直親かくれ岩という案内を目にします。
確認は不十分ですが、たぶんここはまだ浜松市の内に入っていると確信が持てるくらい仏坂古戦場からは近く感じました。


井伊直虎の許嫁であった井伊直親は、井伊家家老の小野和泉の讒言で父直満と叔父直義が今川義元に殺されてしまいます。
義元は、9歳だった直親(亀之丞)も殺すように命じますが、井伊家当主だった井伊直盛(直虎の父)は、今村藤七郎一人を従えさせて密かに井伊谷を脱出させたのです。
12月下旬の寒い逃避行で、目的地は信濃の伊那郡市田村の松源寺でした。ここは直虎の大叔父である南渓和尚の兄弟子が住職を務めていたのです。
その逃避行の時に直親がかくれた岩とのことでした。

峠から少し上ると、岩がたくさん見えてきます



その中に、人がかくれそうな岩がありました。



直親の逃避行は年をまたぎますので、このような場所に隠れて冬の寒さをしのぎ正月を迎えたのかと考えるとこちらまで緊張してきます。

ただし、少し疑問に思うのはここは直親の逃避行ルートからは外れている気がすることです…
同じように父を殺されて逃げることになる直親の息子の直政(虎松)ならばしっくりと来るのですが、直政のかくれ岩ではないのでしょうか?


・所在地 静岡県浜松市北区引佐町伊平
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旧鳳来寺街道

2016年05月06日 | 史跡
浜松市北区引佐町伊平の仏坂古戦場のから、旧鳳来寺街道が繋がっています。
遠江と三河といえば国が変わるので遠い気がしますが、現代で考えても浜松市北区と新城市を繋ぐ道は山を越えればすぐという場所であることを改めて知らされました。

少し離れたところに天保期の道標がありました。

そして、仏坂古戦場の碑の近くに入り口…

すぐに元禄期の道標もあります

決して急ではないなだらかな山道が続いています



難なく峠まで到着、明らかに人の手で作られた堀切がありました。



この峠から少し道を外れると、井伊家に関わる史跡が残っていましたので、次回はその場所をご紹介します



・所在地 静岡県浜松市北区引佐町伊平
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赤く染まる彦根城

2016年05月04日 | 彦根城
2016年のGWの夜は彦根城天守が赤く染まっています…

彦根市といえば彦根城
彦根城といえば井伊家
井伊家といえば赤備え
…というわけで、彦根城と赤備えは近い関係であり、当然ながら彦根市民もそれをよく理解していますが、彦根城を赤くライトアップすることは400年祭以来ありませんでした。

その理由は、400年祭のプレイベントで赤いライトアップを行ったところ、彦根城の白い壁に赤いライトがうまくのりすぎて、「彦根城が燃えているように見える」等の意見が出たからだったのです。

そんな苦い思い出(今でもネットの記事などでこの話は見ることができます…)から約10年。また彦根城が赤く染まりました。
GWのイベントのようですが、今回は中止になっていないところを見ると大きな問題は起きていないのでしょうかね?
レアな赤い彦根城もいいものです。

・いろは松付近より




・滋賀大前付近より





・所在地 彦根市
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仏坂古戦場とふろんぼ様

2016年05月04日 | 史跡
井伊直虎が、今川氏真によって井伊谷の地頭職を奪われたのち、井伊谷は小野但馬の支配下になりますが、その小野但馬が徳川家康によって処刑され井伊谷三人衆(近藤康用・菅沼忠久・鈴木重時の3人)が治めていました。
しかし、元亀3年(1569)に武田信玄が上洛する兵を挙げると、別働隊の山県昌景が井伊谷に向かって侵攻を始めたのです。
井伊直虎は、近隣の寺社に仏像などを土の中に埋めて隠すように指示します。仏坂の十一面観音もこれにより難を逃れました。

元亀3年10月22日、仏坂で山県昌景と井伊谷三人衆・井伊(井平)直成らの戦いが行われます。
浜松市北区引佐町伊平の十一面観音様の近くに古戦場があります。
ちなみに、井平氏は井伊直平や井伊直宗に娘を嫁がせている井伊家一族の一つです。



「乱鶯やいくさ場越ゆる仏みち 一知」との句碑がありますが、一知って誰?

激戦の末に、山県軍が圧勝し、井伊直成や鈴木重俊(鈴木重時の一族)らが討死しました。
仏坂古戦場跡にはこの戦いで亡くなった将兵を葬った墓が残されていて、古い墓という言葉がへんかして「ふろんぼ」という呼び名で伝わっています。

古戦場からは、見つけやすくなっています。

案内板

ふろんぼ様





・所在地 静岡県浜松市北区引佐町伊平
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在士八幡宮の藤

2016年05月03日 | 史跡
藤堂高虎生誕地である犬上郡甲良町在士にある在士八幡宮を中心として毎年5月5日にむらさき藤まつりが行われます。

この地域はもともと「立派な藤があるお堂」との意味で「藤堂」という村の名前でした、そこの豪族から戦国期に活躍して大名となったのが藤堂高虎だったのです。
江戸時代になりこの地域が彦根藩領となり、彦根藩主となった井伊家が徳川家康に重用されている藤堂高虎の姓をそのまま村の名前として使うのは失礼であるとして、「立派な武士が在った」として「在士」と地名を変えたのです。

そんな藤の状態を観てきました。















ここの藤は毎年、12房を切って桐の箱に入れて藤堂家当主に届ける(もしくは、藤堂家当主が切りに来られる)という神事も行われます。
今年は1日に行われたようです。
イベントが終わると、地域の方が残った藤を切って自宅に持って帰られます。
地元で聞いた話では、玄関に吊るすと蛇除けになると信じられているそうです。

余談ですが、神社の中に藤堂家の墓石の一部といわれている大きな石が残されています。



・所在地 滋賀県犬上郡甲良町在士
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三岳城址訪問

2016年05月02日 | 史跡
井伊家は、井伊谷に居城を構えていましたが、いざ戦が起こった時に守る詰めの城として使われたのは三岳城でした。
古くは南北朝時代に築城され、周囲に支城を配置して遠江北部に大きな守備機能を持ったのです。
東からの敵に対しては、三方ヶ原で戦って敗れたときに逃げ込む城でもありました。

そんな三岳城址に行ってきました。
三岳神社に車で行き、そこから登ります。

険しい階段を上り鳥居が見えます

その上にある本殿の横から城へ…

案内板が目印
浜松市北区になる前の引佐町の頃から物のようです。

山道を登りますが、最初は余裕があります

石碑ら見えたあたりから急に険しい坂道になります

枡形の案内が見つかるまで永遠に続きそうな坂道に倒れかけ…



少し上から桝形を見ると城に入った気持ちになります

またしばらく坂道が続き、巨石が見えるようになります



井伊谷周囲には巨石を多く目にしますが、城にあるとどのように使われたのかがいろいろ妄想できます





この巨石を超えると、本丸までもうすぐ



ついに本丸に到着



ここからは、井伊谷やその奥の浜松市街地、そして浜名湖まで見渡せます


車で、8割辺りまで登った後に登城しましたがまさしく小さな登山でした。
この城は南北朝時代以来何度も戦場になりましたが、攻め手がいかに大変であったのかが実感できました。


・所在地 静岡県浜松市北区引佐町三岳
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