一つの同じ出来事を立場の違う当事者どうしとして体験して、
立場に関係なく、体験から得るものがある人間とまったくない人間があるのだ、
ということを痛切に感じる今日このごろ。
「パワハラ・アカハラ・セクハラ発言をおやめください」
とハッキリ言われるほどの大ゲンカをして協力者と断絶したり、
共同出資者でもある社長と仲たがいをして解任したり、
そうゆうことを繰り返してきた現シャチョー。
こういうヤカラは、人の話をきかない、プライドだけ高い、考えが狭い、無神経。
自分の何が原因かを客観視できないから、同じことを何度繰り返しても、学べない。
そうして、だんだんにエスカレートしていく。
自分を人として慕ってくれる部下や教え子が周りにいないのはなぜか、に気づけない。
そうか。
そうだったのか。
そうだよな。
少しずつ、少しずつ、こうなることが必然だったような気がしてきて。
常日頃のパワハラ・アカハラ・セクハラ発言のすべてを聞き流し、
都合も訊かずに丸一日の大きなイベント仕事を休日に入れられようが、
都合も訊かずに海外出張の日程を決められ知らないうちに大々的に発表されようが、
すべてを呑み込むことでシャチョー以外のあらゆる人たちの信頼を得てきたヒイラギ。
学べない人の元に、学べる人は、ふつうの精神状態では居つかない。いや、居つけない。
きっとそういうことなんだ。
毎日のほとんどを家で過ごす生活になってしばらくしたころ、
ときおり視界の隅を、ひょいと横切る小さな黒い影が見えるように。
体力・精神力・免疫力が急激に落ちたことで、
ここぞとばかり、目にも老化の波が一気に押し寄せたかと思い、
すくなからずショックを受けていたのだが。
ある日、テーブルに肘をついてちょっとぼんやりしていたとき。
小さな黒い影が視界を横切るのに合わせて、手の甲にこそばゆい感覚が。
目を落とせば、野を越え山を越え、てな調子で、
卓上に無造作に組んだ両手のうえを、
ちっちゃなクモ君がてけてけ~♪と歩いていくではないか。
こらこら。
身体に虫がたかるほど死にかかってるのか、
それとも何かよっぽど美味しそうな匂いがしたのか?
後者であることを願いつつも、
人が活動している時間帯に平気で虫たちがうろちょろできるくらい、
生きものにとって自然な環境がこの部屋に戻ってきたのかと思うと、
ちょっと嬉しい気もする。
「師」という漢字のなりたちを辞典で調べるとこう書いてある。
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「●」(集まり、集団)と、音を示す「○」とを合わせて、
人々の大集団の意味をあらわす。
そこから、「みやこ」「軍隊」「大衆を導く人」の意味に使う。
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(角川書店「漢和辞典」より。 ●は左側、○は右側の部首)
「師」と呼ぶべきは、人々の大集団を導けるほどの人ということだろう。
そんな指導者が身近に、二人もいてくださっている。
研究と芸、二つの道でそれぞれお世話になっているけれど、
お二人の器の大きさって、なんだか種類がちょっとちがって面白い。
研究の師。
上司と部下として出会って以来、
指導教授と社会人学生、NPOの理事長とボランティア、と、
立場を変えたり重ねたりしながらお世話になり続けている先生。
食欲の戻りが遅くってあんまり食べられなくって、と打ち明けたときの、
先生の反応は。
「そりゃあ困ったな。
まあでも、私みたいに食欲ありすぎても困っちゃうんだけどな、わっはっは!」
芸道の師。
言わずもがな、デキゴコロで箏と三絃を習い始めて以来、
ながながと、名取となり、大きな演奏会に出してもらえるようになり、
ついに準師範となるところまでお世話になり続けている師匠。
じつはこうこうこういう出来事がありまして、と洗いざらい話したときの、
師匠の反応は。
「ええっ、そんなの、私だったら怒っちゃうわ!
そういうイヤな目に遭ったときはね、自分は決して人に同じことをすまいと教わった、って思うといいわよ」
全然ちがうみたいで、共通しているのは。
怒りや悲しみや憎しみのようなネガティブな感情、
そういうものすべてひっくるめて踏み台にする気持ち。
そうだ。
いつもヒイラギは前を向いているのだった。
時間は、止められないのだから。
本屋さんでみかけて、なんとなく購入。
薄いマンガの文庫本です。
読んでみて、なぜだか共感できることがいっぱい。
「なるほど」がたくさん描かれていました。
暴力を受けて痛いのは体だけではない。
とか、
言葉や態度や表情だけでさえ暴力となって人を傷つけるのだ。
とか、
目に見えないところに受けた傷は生きている限り深いところにずーっとずーっと残るのだ。
とか、
そういう当たり前の想像力がないまま生きてるヤツが色々なカタチの〝ハラスメント〟をやってのけるのだ。
とか。
ニトロちゃんに近い部分や同じところがぽろぽろとありながらも、
どうやら発達障害じゃないかとは言われずにここまで生きてこれたのは、
ただ一つ、「死ぬ」ということを考えなかった、その一線だけかもしれないと思いました。
世の中には、ニトロちゃんに共感できる人、いーっぱいいるんじゃないかなあ。
ほら、ここのお話の、「学校」を、「会社」に変えてみたら、あてはまる人、山ほどいませんか?
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どんなにいじめられて「イヤだ」と思っても
学校をサボったり休んだりすることはありません
もともとニトロの頭には――
「イヤだから休む」という考えがないのです
「朝起きて」
「ご飯を食べて」
「着替えをして」
「学校に行く」がニトロのルール
とてもイヤなのに学校に行くのをやめられませんでした
ニトロはガマンして
ガマンして
ガマンし続けて――
とうとう――
体に出てくるようになりました
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(沖田×華『ニトロちゃん』光文社知恵の森文庫版より)
なんて世の中だ…
肉(チャーシュー)が食べられるようになったらラーメン博物館に行こうね。
そう同僚と約束して、療養生活と向き合っている。
極度のストレス症状を経験してからあと少しで1ヶ月。
波はあるものの、どうにか1日3回食事が摂れるようになってきた。
いまだに自ら進んで口にしようという気持ちになれないのは、
米粒と、すり身やミンチになっていない固形の魚や肉と、鶏以外のミンチ肉。
炭水化物は麺類で、タンパク質は主に大豆と鶏ミンチ由来に頼っている。
なぜだかヨーグルトとみそ味に限っては、体が積極的に欲しがっている感じがする。
そんな中。
時間的には毎日が日曜なので、珍しくというか初めてBSテレビをつけてみた。
目に留まったのは、池波正太郎が作品に書き込んだ江戸の食の数々を、
プロの料理人に再現してもらうという番組。
「浦里」というメニューを紹介していた。
吉原の遊郭で、この名の遊女がなじみの客に用意した定番メニューだったのだそうだ。
大根をすりおろして水気を切る。
梅干しの種を取り除き、梅肉を包丁でたたく。
大葉を手でちぎって、梅肉にまぜてさらにたたく。
そこへ鰹節をまぜる。
最初に水気を切っておいた大根おろしをまぜる。
最後に、醤油を加えて、まんべんなくまぜる。
これと、あぶった海苔をちぎって、炊き立てのごはんにのせていただく。
たしかに、夜更かしの翌朝でも食欲をそそり気分をすっきりとさせてくれそうな、
シンプルなのにとても細やかな印象の一品。
これなら、まずはご飯を炊いて米粒を食べようという気持ちになれるかもしれない。
大根と、大葉を、買ってこようか。
とても広いクアハウスのようなところの脱衣所。
シャワーと洗面台が並ぶ一角で、
いきなり背中からリュックのようなものを背負わされ、
振り向くと見知らぬハデ顔の女が自由になった両手で赤ん坊の世話を始めた。
背負わされた他人の荷物を相手に叩きつけ、
何のつもりか知らないが無礼にもほどがある!と怒りに震えながら抗議したら、
「ふふん、“無礼”だなんて、どれだけプライド高いんだ」と嘲笑われた。
理不尽だ、納得できない、と憤慨しながら場所を移ると、
いつも陽気な友人が、見たことのない生き物を連れてきた。
象牙のように全身が白い、大きな亀。
勧められるままに背中の甲羅にまたがると、
すうっと動き出して空中を自由自在に飛び回る。
水の中を泳いでいるような、とらわれるもの何もない感覚。
不思議なことに、心の中で思ったほうへ、
言葉にしなくてもすいすいと向かってくれる。
なんて気持ちがいいんだろう。
元の場所に戻ってきたところで甲羅から降りて、
ありがとう、ありがとうね、とお礼に何度も首のあたりをなでると、
微笑んだような顔をして、またすうっと去っていった。
なんだかとても、吉兆の夢だったのかなという気がする。
①パワハラ休職中だというのに
②休職原因と同等の関係性でしかない社長の妻(=職場の特任研究員=株主)から
③携帯に電話がかかってきた。
④休職中でなかったとしても非勤務日=別の仕事の拘束日である今日この日に。
⑤おかげで漸くおさまったフラッシュバック症状がぶり返し、頭痛・吐き気・全身冷や汗にさいなまれた。
休日の他人の寝室を土足で踏み荒らすような、
これほどのハラスメントを受ける意味が分からない。
ブラックにもほどがあるし、そういう意図が無いただの天然ならなおさらタチが悪い。
そう思い通りに切り捨てられてやるものか。
当然の権利として、社会保険制度による保障をがっつり受けて、休ませてもらう。
当然の責任として、この間の身分をきっちり保証してもらう。
自分たちがやらかしたことの重さと影響の甚大さを思い知ってもらう。
昨日は、宮崎駿監督の、現役最後の作品を観に行ってきた。
なんとなく。
噂の庵野秀明カントクの“棒読み”を聴きたい、ていう軽い気持ちで。
レディースデイだったし千円で。
劇中、心に突き刺さった言葉。
数日前の引退会見での宮崎駿監督の言葉と、どこか重なった。
そのあと半日くらい、ぐるぐると、物思いにふけった。
自分を生きるということ。
一途に夢を追い続けるということ。
本当にそれができる人生の時間はあまりにも限られていて、
誰にも邪魔をさせてはいけないということ。
そうしてそのために自分を守ってくれる人たちが必ず周りに居てくれているのだということ。
作品の公式なコピーは「生きねば。」なのだけれども、
最後の最後、風の向こうからささやかれる、
〝あなた、生きて。〟
それがこの作品のただ一つのメッセージだと感じられた。
(それぞれどんな言葉だったのかは以下。ちょっとでもネタバレが嫌な人はここまでにしといてください。)
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映画『風立ちぬ』 カプローニの台詞より
「創造的人生の持ち時間は十年だ。君の十年を、力を尽くして生きたまえ。」
宮崎駿監督引退会見より(2013.09.06, Fri msn産経ニュースより引用)
「実際、机に向かえるのは1日7時間が限度。打ち合わせだとか、そういうことは仕事ではないんです。机に向かってこそ仕事。最近はやりっぱなしで放り出して帰るようにしていたが、それでも限界ぎりぎり」
ハゲ社長によるパワハラ行為からもうすぐ三週間。
やっとのことで“ダイエット中なんですか?”くらいの食事を摂れるところまで。
医師からは、元気なころと同じような時間に寝起きをして、
体力が落ちないよう日中にはできる範囲で軽い運動を、と言われている。
しかし精神が負ったダメージは想像を軽く超えていたらしく。
薬効が切れたらしき時間帯には軽い頭痛がぶり返し、
医師が言うような「鬱々とした気分」まではいかないまでも、
全体的にかったるく、何をするのも基本、おっくうに感じる。
何より、自分でもおどろくほど、集中力がなくなっている。
せっかくまともに暮らす時間ができて溜まった本でも読もうと思うのに、
文字がまったく頭に入って来ず同じところを何度か読み返して放り出す。
「あれだけのショック症状が出て今はそれが当たり前」(医師談)
らしいのだが。
いやしかしこの症状は。
(研究者としては致命的でしょ…)
そんな感情が湧き起る。
自然、これから先のことを考えてしまう。
不安と焦りの感情が、さざ波のように押し寄せる。
なるほど。
何度も何度も「急がず、焦らず」と専門家が口をそろえたのは、
こういうことか。
そして、なるほど。
こういう被害者が出るということが、
ブラック企業(経営者)ということか。
有名私大の名をカサに来ているだけに、タチが悪い。
関西出身なので。
人生で最も付き合いの長い友もあたりまえだけども関西人。
そして、関西人の女性がよっぽどの場合に口にする、
存在価値を認められない程度に評価の低い異性に投げる蔑称こそ、
「ハゲ」
関西人の女性からハゲ認定を受けるということは、
もはや金輪際、人として最低限の敬意すら払ってもらえないものと心得よ、
という意味である。
本人が実際にハゲてるかどうかにはいっさい関係ない。
バリバリ関西人の親友が心配して電話をくれて。
どんな出来事があったのかを洗いざらい話したところ。
「何をふざけたことを言うとんのや、そのハゲ社長は。」
有無を言わせぬ、見事なまでの、ハゲ認定。
心身を深く深く傷つけられた友のために、
これだけ怒ってくれる友が、何人もいるって幸せなことだ。