晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

峠越し文化論(4) 8/31 

2011-09-01 | 歴史・民俗

2011.8.31(水)晴

 古代において丹後や若狭の沿岸に漂着した海人族と言われる渡来人が稲の栽培や製鉄、あるいは製陶などの技術を持ち込んだだろうと言われている。そして人口増あるいは勢力拡大の意図を持って肥沃な土地、つまり大河の流域に沿って開拓を進めていったと思われる。しかし農耕を主体とするその集団に先だって谷に沿って険しい山を目指した集団がいる。その集団は金属やその精錬に使う木材などを求めて谷を遡り、やがて山脈を越え新しい村を開拓したのだろうと想像してきた。私の言うところの峠越し文化論である。Img_3510

奥上林には文化が日本海から直接入ってきた。一番低いところが猪鼻峠。


 河川の源流地帯の村々は耕地を拡大すると言うにはあまりにも狭隘で、農耕以外の目的で開かれたと考えるのは当然のことと思うし、文化的に先進的、あるいは独立的な雰囲気が伝説や遺跡に見えるのである。
 しかし金属探索が主目的だったのだろうかという疑問が沸いてきた。弥生時代の金工は地金を朝鮮半島に頼っているというのが学会の大方の説と聞くが、私は小規模で初歩的な採鉱や精錬が行われていたと考えている。ただいずれにしても海岸に定着した海人族が、金属製品を得る目的で先行部隊を谷や山に派遣したとはちと考えにくいと思うようになってきた。それでは峠を越えた人々は何を求めて越えたのだろう。
 鳥取市青谷町青谷に青谷上寺地遺跡という弥生時代の大規模な遺跡がある。青地名の典型で海人族により開拓された村だろうと思うが、その特徴は低地にあって遺物が地下水に浸って保存状態が大変良いことである。特に他の遺跡では見られることのできないおびたただしい木製品の遺物が発掘されていることだ。私たちは遺跡の発掘というと土器、石器、鉄器、青銅器、骨製品などを思い浮かべ、木製品や布製品はあまり念頭に浮かばない。それは腐蝕して影も形もなくなり見ることができないので、無いものだと思ってしまうのだ。従って弥生人の生活を想像しても土器や石器などばかりが思い浮かぶのだが、この遺跡の諸道具をみると、如何に多くの木製品があるかと気付く。それは当然のことで、材料が得られやすく、加工が簡単な木製品は道具の主流で、土製品、鉄製品などはむしろ貴重品であったろうと思うのだ。ただ土器は完全に保存されるので、出土物で一番多いのは土器である。Img_5680
 
弥生時代の土木工事、資材はすべて木材である。


つづく(続々・峠越し文化論は2011.4.23)

【作業日誌 8/31】
草刈り(7-6)

今日のじょん:今日はじょんの投薬日、フィラリアの薬とフロントライン。フィラリアはともかくフロントラインは大嫌いで、朝からピリピリしている。なんでって、薬がお膳の上に用意してあるんだもの。「フロントライン」という言葉も禁句で、隠語をつかって「フッリーダイヤル」と呼んでいる。おとーやおかーが立つたびに、サークルの中に逃げこむ始末で気の毒になる。サークルの扉を閉めて、サッとやってしまうのだが、翌日辺りに食欲が無く、吐いたりする。きつい薬のせいと言うより、神経使いすぎのせいみたい。Img_2857
 フロントラインするとこうやって転げ回る。よっぽど臭いのかなあ。
(2011.5.3の写真)

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