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晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

上林の両墓制(3) 志古田-3 7/30 

2014-07-30 | 歴史・民俗

2014.7.30(水)晴

 志古田の両墓制だが、磯貝論文によると、埋葬墓はミハカと呼ばれ丸山の集落に面した緩傾斜地にあり、土盛りの跡も見られたとある。
 土盛りの周りに7本の竹を立て、これをトウバという。
 詣り墓はヒキバカといい、丸山の頂上に近いところにある。ヒキバカはカブバカでもあり株毎に区画されているようだ。このヒキバカは元々屋敷毎にあったようだが、明治29年頃に現在地にまとめられ、ソーバカとしたそうである。
 ミハカに詣るのは埋葬後ナナタイヤまで毎日詣った。ヒトタイヤとは7日のことでナナタイヤは49日のことである。ヒキバカの方にはミハカの土を一握り持っていくものであるという。
 前述の大乗院の石碑はミハカの入口あたりにあるようだが、磯貝氏は「ダイジゴ」「ダイショウゴン」に関連するのではないかと書かれている。
 磯貝論文は上記の通りであるが、両丹地方史第16号(昭和47年)「綾部市上林地域の両墓制について」(綾部史談会 梅原三郎)における志古田の墓制に関する論文(以下梅原論文とする)では少し内容が異なっている。磯貝論文と異なる点について紹介、考察してみよう。
 ウメバカ(磯貝論文の埋葬墓のことでいずれも記述のとおり記することとする)は丸山の西斜面の低い段で、すぐ右手の少し高い段の平地がヒキバカとある。ヒキバカは現在の墓地であろうから、丸山の頂上近く西向きに石塔の並んでいるところで間違いは無いのだろうが、ウメバカは磯貝氏は「丸山の側の緩傾斜地」とあり、梅原氏は「丸山の西斜面」とある。
 「丸山の側の緩傾斜地」といえば丸山の南面、南西面であって西面とは言いにくい。現在と過去の集落の位置が変わっていることも考えられるので、明治26年陸地測量部の地形図を調べてみると、集落の位置は現在と同じ様子である。気になるのは丸山の南東面、街道の脇に一軒建物があることで、地形的に大乗院の石碑の辺りかとも思える。
 ウメバカは磯貝氏は南面、梅原氏は西面と言っていることとなるが、磯貝氏は「に面した」という書き方をしておられるので、南面であることには間違いないが、それならば梅原氏は方角を厳密に測ることなく、西面と書かれたのだろうか。
P1030274  


現在の墓地、かつてのヒキバカとすると、梅原氏の説ではウメバカはこの墓の奥の下の斜面となるのだが、、、

 梅原氏のヒキバカに対する説明は、「(ウメバカの)すぐ右手の少し高い段の平地」となっている。磯貝氏の言う南面の緩傾斜地がウメバカとすると、ヒキバカはすぐ右手とは言いにくい。梅原氏の文面通りにとると、ウメバカはヒキバカの西側斜面を降った北寄りの部分となる。この辺りは植林の林で行ったことは無いのだが、一体どのようなところだろう。つづく

【今日のじょん】開店前の掃除をしていると山の中に猿の鳴き声がする。群れでいたので追っていくと山中に逃げてしまった。本来なら隣家の栗があるはずなのに、切り倒してしまって、ザマア見ろと思っていたところである。
 昼前に車庫の屋根で音がするので出ていくと、なんと先ほどの群れが畑に来ているではないか。収穫には少し早いカボチャに群がっている。慌てて追ったが、数個がやられた。ネットをしていたのだが、葉が茂って間に合わなくなっていたのだ。P1030506
P1030507


猿の食い残し、残ったのはこれだけ、トホホ

 それにしてもじょんは冷房の効いた家の中で知らん顔して寝ている。ここ一番役に立たない阪神の中継ぎのようなものだ。どうでもいい虫や鳥にはワンワン騒がしいのだが、、、、。
 

コメント
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