2014.7.13(日)雨
角川日本地名大辞典には穴虫<香芝町>、〔近世〕穴虫村、〔近代〕穴虫、穴虫峠<香芝町>四項目の記述がある。しかしそのどこにも古代に穴虫という地名があったとは書かれていない。
穴虫は古くは大坂と呼ばれていたとあり、穴虫越も大坂道、大坂越と呼ばれていたようだ。穴虫の初見は「寛文郷帳」で穴蒸村と見える。寛文年間は1661~1673年だから近世のことだが、地名はそれ以前からあったのだろう。
「大和志」に「穴蒸越石川郡界至狐井云々」とあるが、亨保年間に完成したものだからこれもやはり近世のことである。穴蒸越の地名由来についても、三方を山に囲まれた形状からきたものか、と書いており穴虫の由来と同様に書いている。
わたしは穴虫は古代地名だと思い込んでいた。そして古代地名であることを前提に考察を重ねてきた。
穴虫はここ香芝市を始め各地とも古代の歴史上重要な位置にある。国府や国分寺の近く、古代製鉄遺跡の近く、由緒ある神社の近く、古代主要街道の近くに存在し、古代葬送の地あるいは古代の葬地とおぼしき位置にある様に思えるのだ。こういったことが古代地名と決め付けた理由だが、少なくとも香芝市穴虫は古代に存在したという証拠は見当たらない。
二上山の麓に歴代の天皇や官人が葬られた頃、穴虫という地名は無かった。穴虫越は大坂越と呼ばれていた。
穴虫研究の発端となった「大和の原像」(小川光三)には穴虫地名の由来を万葉集の歌から提起していたのを思い出す。万葉集にアナムシが詠まれていたら、それは古代地名と言えるからだ。
大穴道(おおなむち) 少御神(すくなみかみ)作らしし
妹勢の山を みらくもよしも 柿本人麿
妹勢の山を二上山としているが、その理由は、「二つ並んだ山の形を仲の良い夫婦の姿と見立てて妹背の山と愛されてきた二上山云々」という小川氏の書かれた前文のようだ。
妹背の山とはどこかという論文は数多くあり、圧倒的に多いのは紀ノ川、吉野の妹山、背山のことである。二上山としている例を見つける事が出来なくて、特に大己貴(おおなむち)、少彦名(すくなひこな)両神の関連からいっても上記の歌が二上山を指しているとは思えないのである。従ってこの大穴道が回り回って穴虫に変化するという氏の説は破綻していると考える。
大坂を わが越え来れば 二上に
もみじ葉流る しぐれ降りつつ(万葉集 巻十)
並記されているこの歌こそ、穴虫(大坂)の古代のよみをあらわにしていると思われるのである。つづく
【今日のじょん】
昨日撮った写真だが、見て欲しいのはポストの台に開いた虫穴である。表だけでも20個はあろうか、すべてタマムシの巣立った跡である。次の写真は巣立ったタマムシが産卵をしているところ、お尻から針を出して産卵している。
孵った幼虫は3年間をこの木の中で過ごすそうだが、3年以内に燃料となるので、困ったものだ。ポストの台は提供するから、あそこに産み付けて欲しいのだが、、、、。