2011.12.21(水)曇
大栗峠が志古田小字大栗に由来する考え方は最も一般的と思います。従って小字大栗がどこにあるかによって京街道志古田道のルートがある程度確定されるものと思っています。志古田の人に聞いても大栗の位置は一向にはっきりしません。きっと小さな小字で村落の近くで、志古田谷の流域当たりにひっそりとあるのだろうと予想していました。つまり和知から志古田の大栗という所にぬける峠だから大栗峠という風に考えていました。
大栗という小字が存在するのは角川日本地名大辞典で確認していましたが、その位置まではわかりません。矢も楯もたまらず市役所を訪ねました。「大栗の位置を知りたいのですが」と尋ねると、字(あざ)の載った地図を閲覧させてくれました。複写は出来ないので、鉛筆で写してきたのですが、大栗は大栗峠を含む志古田谷の源頭部の広大な地域でした。
大栗峠の謂われは大栗というところに向かう峠だからでなくて、大栗そのものに存在する峠ということでしょう。志古田の大栗という字に向かう街道の峠が大栗峠だから、本来の京街道は志古田道だというわたしの説もなんとなくひとつの根拠を無くした感がするのですが、若狭に向かう街道はあくまで志古田道であって、交通の発展により弓削道が主流となってきたという考えは揺らぐものではありません。ただ志古田道が志古田の左右の尾根筋にあるのかもという考えは可能性が薄くなりました。
字名の地図を見ると、現在の志古田道は大栗~土ヶ谷~保小杉~渡リ手~野口~姥ヶ谷~宮ノ下あるいは薬師という風に辿っているように思えます。この渡リ手という小さな小字こそ志古田道が志古田谷を渡った辺りなのではないでしょうか。大栗という小字は志古田道の1/3をも占める広い地域です。そしてその間、栗=崩壊地という語源説にふさわしい地形であります。
志古田道を歩いて気付くことは崩壊地であるということはもちろんですが、あちこちに大岩があることです。隣の鳥垣渓谷からシデの辺りの山域にも岩は多くありますがそれは岩壁なのです。志古田谷周辺の場合は壁というより単独に転がる岩が多いのです。栗石というのは建材などに使われているように、こぶし大の石を言います。また、”ぐり”というのは海底の暗礁や海中の岩穴などを言います。おおい町大島半島の赤礁﨑(あかぐりざき)等の例があります。
志古田谷周辺の大岩、小岩
こぶし大の石が栗石なら、大きな岩なら大栗と呼べないでしょうか。実際その様な例は聞いたことがありませんが可能性としてなきにしもあらずと言えませんか。
また山間部、内陸部に海に関係する地名がよくあります。﨑、鼻、沖、浜、島など山や平野などの地形を海に見立てた地名が付けられるのです。海洋民族が内陸部に移動して付けたものという風にいわれていますが、小栗峠の山稜から志古田谷の森の中に潜む大岩を礁(ぐり)という風に見たとしても不思議ではありません。
志古田の谷を歩いて、周囲の大岩を見るとそのような想像もしてしまうのです。
つづく(大栗峠考(21)は2011.12.19)
今日のじょん:上林中ネットが張り巡らされ、念道周辺も完成に近づいてきた。アウシュビッツにでも放り込まれたようで憂鬱なことこのうえない。