晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大唐内のこと(96) 丸山とイモリ村-33 6/17

2015-06-17 | 大唐内のこと

2015.6.17(水)曇り 丸山の地質(鼻峠の河原石)

 坪坂峠から鼻峠を過ぎるあたり尾根上に握り拳大の河原石が散見する。この山稜上に丸く摩耗した石が存在することは地元の人にも知られるところであって、4年前始めて丸山に登ったときも「一体誰が何のために持ってきたのだろう」という声が聞こえた。地質や地殻の変動について関心の無いほとんどの人にとって山稜上の河原石は不思議な存在であって、誰かが持ち上がったと考えるのが当然だろう。

初めての鼻峠(2011.4.15)
 わたしも当初は不思議だったが、二回目の丸山行の時に台風で倒れた木が掘り起こした土の壁に河原石がくっついているのを見て、持ち上げたのは人ではなく、地球の力なのだと気付いた。それは土中、地下1mほどの位置であり、人が持ち上げたのなら地表の一箇所に積み上げられているのが一般的だからである。山の背比べなどの伝説があり、登山者が実際に石ころを持って上がる山が幾つかある。山頂にケルンのように積み上がっているのをご存じだろう。弥仙山などもそうでなかったか。

弥仙山山頂、左にケルン状に積まれている。(2010.11.23)
 小滝先生はこの河原石にいたく興味を示され、「砂岩の丸石が多いのは、川や海岸などが隆起したのでしょう」とおっしゃっていた。「先生、砂岩ばかりでなくチャートの丸石もありますよ」以前に標本として持ち帰ったのはチャートだったし、そうこうしているうちにチャートの丸石も見つかった。
チャートは放散虫などが堆積して出来たものだから当然海底で出来るものなのだが、それが隆起して陸地となり、やがて風化して水流に流されて丸い河原石となる。それが山陵上にあるということは、河原或いは海岸であったところが再度隆起して高いところに持ち上がったのだろうと考えていた。

大きさはこの程度のものが多い。
 ところが「京都五億年の旅」(地学団体研究会京都支部編)小滝先生も執筆しておられるこの本の「海の下の京都」という項に山上の河原石という記事を見つけた。周山の周囲の低い山上に砂利の層(礫層)があるというものだ。
 何十万年か前、大堰川がまだ若くて、深く谷を刻み込んでいなかったころの河原に洪水が時に運び込まれて石ころなのです。その後、川はどんどん深く削り込んでいき、かつての河原の石ころは、今では山上に取り残されているのです。(41ページ)
 周山の礫層にはチャート、砂岩、粘板岩などが含まれているという。これは鼻峠の河原石も同じである。河岸段丘といえば川の両脇に段々にあるものとばかり考えるが、最も初期の河岸段丘は山稜上にも出来るわけだ。鼻峠の河原石も初期の河岸段丘と考えれば素直に理解しやすい。ある意味では鼻峠が原始の上林川であると言ってもいいのではないだろうか。つづく

【作業日誌 6/17】薪割り、「何鹿グンの橋」作製5日目

【今日のじょん】ポメの小麦ちゃん(一才)再度来じょん、前回は寒かったが今回はチト暑かったようだ。

かーいいデスネ。
 

 

 

 

 

 

 

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