晴徨雨読

晴れた日は自転車で彷徨い、雨の日は本を読む。こんな旅をしたときに始めたブログです。

大栗峠考(38) 5/30

2016-05-30 | 山・峠

2016.5.30(月)雨

 上林の古墳でここまで川に近い古墳は無いようだ。この地は今まで荒れ地のイメージがあったのだが実は安全で地味豊かな快適居住空間だったのだろう。
そうするとこの忠の大栗の本当の意味は何なのだろう。各論併記ということになるが、もう一つの候補は地滑り地帯を含んだ支流が運び出した岩石ではないだろうか。上林川をよく観察するとこの大栗から下流には大きな岩石がごろごろしていることに気づく。上流域の河原が砂や泥に対して下流域では岩盤であるせいかもしれないが、支流の谷底を見ると多くの岩石が流れ出したことは確かだ。須呂橋から下流を見たときさほど大きな岩石は見られないが、大水で流れたとも考えられる。クリが石を示すことは栗石(くりいし・こぶし大の石)という言葉からもわかる。海の暗礁をグリという、大島の赤礁(あかぐり)などはそのとおりだが、これもクリから来ているのかもしれない。とにかく大栗が大きな岩石を示すことは想像できる。

上林川を覗くと大岩がごろごろしている。(佃町)
 さて大栗峠の大栗に戻ろう。道というものは現在のように、何月何日に工事が終了し開通というわけにはいかない。上林から和知に向かう最短の道として(その先は京となるのだが)志古田道は何十年、何百年という歳月をかけて完成されたものだろう。大栗峠という峠名は小字名の大栗からつけられたのは間違いないだろうが、大栗地名が先か峠道が先かはわからない。地名も峠道も自然と出来上がったとするのが妥当だろう。しかし現在見られるあの大崩壊が過去にあったなら、そこに道を作るだろうかという疑問が残る。もっと端的に言えば、大栗が崩壊を表す地名だったとしたら、そこに道を通すかと言うことである。

大栗の大崩壊とその下にある街道沿いの大岩
 大規模な崩壊のすぐ下に大岩がある。志古田道が谷筋を離れて右岸の尾根に取り付こうかというところである。目印にもなるし、これから水の無い急登になる地点でもあるから人々の格好の休憩所となったことだろう。この大岩が大栗地名の由来ではないかという気もする。そうすると志古田道ができあがる過程で崩壊などは無く、京への最短路として活躍したことと想像できる。
 ところがそう話は簡単ではなく、志古田道について二つの疑問がわいてきた。一つは明治24年陸地測量部地形図にある鳥垣との境の尾根を登る道の存在である。

陸地測量部地形図
この道は現在の地形図にも238mの地点から尾根にたどり着く半分までが破線で示されている。陸地測量部の地形図では尾根を登り切りシデ山からの主稜線に出合っている。この道が何を示すかと考えたとき、小栗峠に向かう谷筋の街道が崩壊した際の迂回路なのではないだろうか。効率的な志古田道と比べるとこの道は遠回りで厳しい、しかし尾根道だけに崩壊の危険性は少ないと思われる。谷筋の志古田道から尾根筋の弓削道に主役を奪われた裏には、田辺(舞鶴)からの利便性だけでなく、大栗の崩壊があったのかもしれない。つづく

【今日のじょん】何を見てるのでしょうか?


でした~

 

 

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