古希からの田舎暮らし

古希近くなってから都市近郊に小さな家を建てて移り住む。田舎にとけこんでゆく日々の暮らしぶりをお伝えします。

慈眼寺の山城に登りました。

2010年11月16日 03時35分38秒 | 古希からの田舎暮らし 80歳から

 ちょっと用事があって軽トラで三木市街に出ました。帰るときに軽トラだと細い横道でも気軽に入れるので、まだ行ったことのない集落にときどき入ってみます。見慣れない車は怪しまれますが、軽トラだと色も型も同じですから大丈夫です。先日は『弁慶の足跡』という田んぼの中の石仏を見ましたが、きのうは久留美神社の横から山陽道をくぐり、慈眼寺の山城に行ってみました。山陽道のすぐ北の側道から登るようになっています。
 車を置き、舗装された坂道を少し登ると城跡に出ます。そこからは秀吉が本陣を置いた平井山も竹中半兵衛の墓所も別所長治が篭城した三木城も明石海峡大橋も淡路島も一望できます。もう少しあたたかくて山陽道の騒音がなければ、しばしたたずんで遥か戦国時代の合戦に思いをはせたくなります。一望できる写真でなく看板を撮りました。ごめんなさい。
 12年前の6月、モンゴルを旅したとき、彼の地の人々の純情なはにかみにふれて、いまも旅のビデオを見て懐かしく思い出します。その年の3月にインド旅行をしたあとだったので余計につよく感じたのでしょうか。
 現在は日本の4倍の国土に長野県の人口ほどの260万人が暮らすのがモンゴル国です。広い草原で羊を放牧し、ゲルと呼ぶ一時間で建てられる円形の家に住み、のんびりゆったり暮らしている人々です。その国で行われたことが先日から読んでいた『ノモンハン戦争』に書いてあります。
 
 1935年(昭和10年……ノモンハン戦争の起こる4年前)12月、スターリンはゲンデン首相をモスクワに呼びつけて、「ラマ僧と仏教はモンゴル独立の敵であり、日本帝国主義を助ける勢力である、これを一掃せよ」とゲンデンに強く求めたと言われる。以降、ノモンハン戦が終結する1939年ごろまでに14201人のラマ僧が死刑となり、3751人が禁固10年となったとの調査がある。

 ノモンハン戦争勃発の1939年5月までに、反ソ、反革命、日本の手先との罪状で、25824人が有罪とされ、うち20474人が銃殺、5103人が10年の刑、240人が10年未満の刑、7人が釈放されたという。当時のモンゴルの人口を約70万人と見積もれば、これはおそるべき数字である。
 日本・満州国との間で緊張が高まっていく中で、夜な夜なトラックに満載された人々が運ばれ、やがて銃声がとどろいて処刑されていくさまを、息をひそめて聞いていたという回想は、ここにはいちいち引かない。

 気は重いですが『ノモンハンの夏』を読みはじめることにします。
  
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