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「どんな事があっても撃沈させて帰ってくるからね」
「じゃっどん、どげんして帰っとな?」
「ホタルになって帰ってくる」
「だからホタルが来たら僕だと思って、追っ払わないで、よく帰ったと迎えて下さい」
華のときは悲しみのとき 著者:相星雅子
・・・
出撃前夜、
宮川軍曹と知覧の母(島浜トメさん)の最後の会話であった。
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特別攻撃隊で散った若者たち・・
「崇高な死」か「無意味な死」か、
ただ云えることは軽々しく二者択一で彼らの死を決めつけることはできない。
もちろん、「崇高な死」と断じることにためらいはあるが、「無意味な死」とする論調はあまりに冷酷で心がない。
わたしは、時代の悲劇に翻弄された痛ましい死としか捉えられなかった。
戦争は許しがたい行為だが、
平和を無傷で手に入れることはできない、それは残酷な現実なのである。
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出撃前夜は知覧の宿で最期のご馳走を頂いたそうだが、
それまでは、この三角兵舎で過ごしていた。
そのときのことを思いながら、兵舎のなかを見渡すとこみあげるものがある。
バスツアーでご一緒のご婦人が、眼をうるませて白い枕をやさしく撫でていた。
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知覧も行かれたのですね。
特攻隊として無残に散った若者たちの死について、言葉にできることがひとつもありませんが、バンザイと叫んで送り出した母親の狂気ともいえる絶望というか、壮絶なまでの諦めというか、慟哭は計り知れないものでしょうし、そんな親子の犠牲の上に、平和の時代を迎えて、自分と子どもが平和に暮らせることに感謝するばかりです。
知覧は、実は行ったことがないのです。
行き切れないのです。
鹿児島は暖かかったでしょう?
4泊もすると同じバスの人たちと仲良くなりますね。
知覧のこの資料館にはゼロ戦や写真や達筆な手紙などありゆっくり見たかったですが、ツアーだと時間が限られてますね。
この三角兵舎は映画でも見たことあります。
映画では開聞岳をぐるぐるまわって別れをつげてホタルになって帰ってきたシーンをみました。
特攻隊のシーンは何度見ても胸がつまりますね。平和の時代に感謝ですね。
この知覧観光のあと私たちは船で屋久島に行きました。
知覧という地名も、
特攻隊の基地あとに遺品をおさめた平和会館のことも知らなかったです。
飛行隊の若者たちから知覧の母と慕われたトメさんのお話を聴いて(もちろんビデオから)
悲しい気持ちになりました。
鹿児島はよか天気でしたよ。
四泊五日のバスツアー・・
二日目あたりから、ぼちぼち交流が芽生えて?きますが、
どちらかといえば、女性のほうが積極的ですかね。
われわれ男性は面倒という気持ちもあって、
自らコミュニュケをとろうとすることお互いになかったです。(笑)
ここでは、もう少し時間があればよかったのですが、
ゆっくりと遺品や遺書を読んでみたかったと思います。
螢になって・・・ なんとも悲しいですね。
数年前に知覧を訪れた事がありますが、
笑顔の写真に涙が止まらなかったです。
映画はみてませんが、
「華のときは悲しみのとき」を読み終えたばかりでした。
知覧を見学してきたあともあって、
より胸にじ~んときています。