屯田物語

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不思議の人・詩人大村正次先生―幾度かの富山訪問に見聞きした体験に 基ずくー

2020年01月22日 | 大村正次

昭和35~39年頃・・
裏大雪緑岳頂上付近から高根が原方面を望む



推論:富山の文学風土について(その二)

 富山文学の嚆矢といえば「大伴家持」を挙げなければならない。「越の国」の国守として赴任した五年間で二百余首の和歌を詠んだといわれる。高岡市では「万葉集全20巻朗唱の会」が三昼夜に亘り行われているので、家持の名は今でも地元にしっかりと根付いている。
 富山の文芸・文学は近世になり、実学、俳諧、漢詩など一部武士階級、町人、農民などを中心に発展していった。特に19世紀になって漢学を学び漢詩に親しむ者が多数あらわれたとされている。
詩才と共に漢詩の素養があった「大村正次」は昭和7年「日本海詩人」の廃刊後詩筆を絶ってから、女学生の前で漢詩と和歌の朗詠を行うなど、後年になって漢詩への傾斜が見られたのも富山の風土のせいなのかもしれない。
正次の「文字への渇望」止み難く、以後漢詩へと向かったわけである。

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