針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

李白の没地

2020-05-30 06:25:16 | 漢詩・古典・エトセトラ

          


(引用)

宣州当塗県の「龍山」
李白永眠の地がこの場所に定まった経緯について、ある興味深い逸話が残されている。李白が没した直後、その遺体は、宣州当塗県の「龍山」に埋葬されていた。それから五十五年経ち、周辺一帯を統治する宣歙池等州観察使に就任した范伝正(生没年不詳)は、李白の子孫を探し求め、ついにその孫娘二人を見つけた。二人はそれぞれ陳氏の妻、劉氏の妻として農民の戸籍に名を連ねており、粗末な身なりながら、何処か高雅な物腰であった。話を聞くと、李白の長子にして二人の父である伯禽(?~792?)はすでに没しており、頼るべき人もいないのだという。

因みに宣州当塗県の「龍山」というと長江(昔は揚子江)の上流に位置しているみたいね。

                       

 続けて話は二人の祖父である李白に及ぶ。「先祖 志 青山に在り、宅兆を遺言するも、頃(このころ)属(たま)たま多故なれば、龍山の東麓に殯らる。地 近くして本意に非ず」。

 すなわち、李白は生前、「青山」に終焉の志を抱いていたが、樣々な原因から叶わず、また孫娘の力では改葬もままならなかったのだ、という。「地 近し」とは、先に李白が葬られた当塗「龍山」が、当塗「青山」の西三キロメートルの距離に位置していたことを踏まえる。

 李白の出自および出身地には諸説あり、詳細は不明である。旧唐書本伝の記述では東魯の出身とするが、清の王琦などをはじめ、通説はこれを誤りとする。李陽冰の「草堂集序」および范伝正冰、欧陽脩などの記述では、李白は隴西郡成紀県(現在甘寧省天水市秦安県)の人で、西涼の太祖武昭王・李暠(りこう)の九世孫とする。李白の先祖は、隋末の時代、何らかの事情で西域の東トルキスタンのあたりに追放され、姓を変えてその地で暮らしていたが、中宗の神龍年間、西域から蜀現在の四川省)に移住し、李白の誕生とともに李姓に復したという。

                          

「人に歴史有り」って言いますけど、本当にそれぞれなんですね。色々な艱難辛苦辛苦を舐めるようになっているんです。文字通り「天は人の安逸を許さない」って事です。李白でさえそうだ、まして有象無象の私等はね。

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