針外し/爺さんの独り言。役にたたない情報ばかり。

自作のスピナーベイトで今日もバスを釣るぞ!。人はそれを「G」と呼ぶ。爺さんの「G(ジー)」の意味だった。ガクン!。

戦国、趙の丞相 郭開

2024-04-05 12:10:03 | 漢詩・古典・エトセトラ

 紀元前229年、秦王政(後の始皇帝)は天下統一のため、趙に対して王翦(おうせん)を将とした軍を送った。趙の幽繆王(ゆうみょうおう)は当時の趙の名将であった李牧司馬尚(司馬印の父)に防衛させた。秦軍は李牧のために何度も敗れており、今回も李牧の善戦のために苦しんだ。

秦は李牧と司馬尚を排除するため、郭開に大金を送って幽繆王との離間を依頼した。郭開は王に「李牧らは謀反を企んでいる」と讒言する。王も実は先代から功名の高い李牧を恐れていたため、この讒言を真に受けて李牧らを更迭しようとした。しかし、李牧は王命に応じず、司馬尚は身の危険を感じて逃亡して、解任された。王は李牧を捕らえて、これを処刑して葬り去った。

翌年、趙は秦に邯鄲を攻められて滅亡し、幽繆王は捕らえられた。郭開の末路は史書に記載がなく不明である。郭開という奸臣によって廉頗と李牧という名将が葬り去られた結果、趙は滅亡の道を歩んだと言える訳ですね。

郭 開は趙が秦に併合された後、秦王、政に功績を主張して除名を嘆願したが、私腹を肥やしていた事が秦王にばれていて、釜茹での刑に処せられたとなっています。
始皇帝は最初から郭 開を相手にしていなくて、葬り去ろうとしていたという事です。良くに目が眩むとろくな事がありませんね。

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