僕は宗教というものを深く考えたりしないし、自分も無宗教であるので、感じたことを書きます。間違っていたらすみません。
世界史にしても日本史にしても、歴史を見ていく上で宗教というのは切り離せるものではありません。もちろん、現在生活している僕たちの社会も宗教は切っても切り離せないものになっていると思います。
それぞれの考え方があるのでしょうから、否定することはしません。たまに仏教の言葉を聴いて共感することもあるし、あるいはキリスト教の聖書の言葉を聴いて「なるほどなぁ」と感心することもあります。それぞれの宗教に素晴らしい所があるので、それぞれが認め合えばいいのに・・と僕は思ってしまいます。
さて、話は少し変わりますが、奈良に住んでいたときに身近な宗教として「天理教」がありました。名古屋方面から関西に来る際に名阪国道という道を通ることがあります。その天理インターを初めて降りたときの衝撃は忘れられません。
「ここは中国?」って思わんばかりの立派な建物。そしてゴミ一つ落ちていない街並み。さらには各地域から来る人たちのための宿泊施設。どれをとっても僕の知っている日本の街並みとは違いました。「あー、天理市っていうのは天理教が根付いている街なんだ」と実感したものです。時期的にはオウム教の地下鉄サリン事件があった頃だったと思いますが、ああいった危うさみたいなものは感じなかったように思います。ただ、もし教祖が間違った方向に進もうとしたら、この町全体が間違った方向に進んでしまうんだと考えたら少し恐ろしくなりました。
天理高校というのが野球や柔道などで有名ですが、天理高校に入るには天理教に入る必要があるそうです。(天理高校に行っていた先輩の話によると)。そして、授業内容にも宗教の勉強や踊りの時間が組まれているそうです。
そういえば、PL学園ってパーフェクト・リバティー教団っていう宗教団体が作った学校だったんですね。でもパーフェクト・リバティー(完全なる自由)ってどんな宗教なんだろう?