らんかみち

童話から老話まで

幸福も不幸も、桃源郷の彼方に

2013年12月09日 | 暮らしの落とし穴
 1日1分半の英語ジョークから。
“The search for happiness is one of the chief sources of unhappiness.”
「幸福の追求こそが不幸の主たる源泉である」
 う~ん、難しい話だね。幸福でありたいと願うから不幸になるってのなら、不幸でありたいと願っていれば幸福になれるっていうのかな。

 だれでもお金は欲しいし、健康でありたいと思っている。たとえ健康でも、お金がなくては不幸だと思う。いくら金があっても病気だと、なんて自分は不幸なのだと神を呪う。両方とも持ち合わせたとしても、真の友人がいないことや老いたことに気付いて哀しくなる。いったいどうすりゃいいんだ!

 所用があって村を一戸一戸訪ねて回っているんだけど、年寄りで病人、なおかつ一人暮らしというケースが多い。数年前まで、すごい勢いで怒鳴り込んできた人も「息子のところに行こうかと……」みたいな弱音を吐くようになった。
 諸行無常だなあとため息の一つも出るけど、だれもが通る道、老い。人は生まれながらにして不平等だけど、老いだけは平等にやって来る。

“There's one thing money can't buy: poverty!”
「お金で買えないものが一つある。貧乏だ!」
 そうなの? 願っても手に入らない貧乏という不幸が手に入らないというのなら、それは幸福なのか不幸なのか。もはや、幸福はもちろんのこと不幸すらも桃源郷のように遠く手の届かないもののような気がしてきた。
 手術の傷は癒えた。まだドップリとは風呂に漬かれないけど、ちょっとうれしい。もしかしたらこれが、つかみ所のない「幸」というやつの仲間だろうか。

運、不運でいえば、めっちゃ不運

2013年12月08日 | 暮らしの落とし穴
「1日1分半の英語ジョーク」から。
“In yourth we run into difficulties; in old age difficulties run into us.”
「若い頃は困難にぶつかるものだが、老いると困難がぶつかってくる」
 ホントそうだよね。この前の普通救命講習の時も、とんでもなく不器用なお爺ちゃんがいて、人の救命をする前に先ずあんただろ、といいたくなった。

 防災士というけど、「老歳師」の間違いじゃないかって思うほど年配の方が多かった。災害時に他人を助ける前に、あんたたちが自分の身を守ってねと願いたくなるような70代、80代のおいちゃん、おばちゃんが多かった。

 これが日本の実情であって、どこの国と戦争をしたって人命を注ぎ込んで戦うことなんてできやしない。銃後を守るのが爺ちゃん婆ちゃんなので、勝とうが負けようが戦後の復興は心もとない。そういう意味でも日本は戦争を放棄するしか選択肢はないのだろう。

 老いたから困難がぶつかってくるのか、それとも自身の行状に問題があるのか、ぼくの場合も腹立たしいことが次から次へと襲いかかってくる。喧嘩売っとるのか! というような異常事態が起きるんだよね。単なる無知、と好意的に解釈したいけど、村を預かる者として許せないものを許すわけにはいかない。

 救命講習の不器用なお爺ちゃんはとても真摯な方で、何度も失敗してはトライし続けた結果、班内で最も上手な一人となった。もしぼくの心臓が止まったとき、ぼくみたいな器用な男じゃなく、あの不器用なお爺ちゃんに救命してもらいたいと思う。いざっていうときの救命救助の運、不運はあるんだよね。

救命の練習は永遠に続く

2013年12月07日 | 暮らしの落とし穴
 はぁ~燃え尽きたぁ……防災士の講習会で。試験は簡単だったけど、予想問題なんか解いている人がいるくらい皆さん一生懸命なんだわ。
 一人頭6万円の費用を自治体が負担しているわけで、疎かにできるもんじゃないよね。まかり間違って不合格にでもなろうもんなら末代までの恥辱であるのはいうまでもなく、「自治会費泥棒」呼ばわりされるのは必至。プレッシャーを感じるなという方が無理というもの。

 防災士試験の後は普通救命士講習。救急車に乗務している人たちによる、AEDを使った人命救助の講座は難しくないけど、心臓が止まっている人を目の前にして動転するなというのは、慣れないと厳しいだろう。
 心臓マッサージや人工呼吸の練習ができる人形を使い、明るく楽しい訓練にしよう、というのがコンセプトみたいだけど、所詮は練習用の人形だ。痛みを訴えるでもなく血を流すこともない人形を相手に練習するのは、普通救命士講習ならではのこと。

 人は忘れる生き物だから、というより世の中が複雑になってきたから、税金の申告やなんかと同じように、応急処置の練習も続けていないと忘れてしまう。所詮は応急処置なんだけど、この夏のことを思い出すと……。
 叔母が倒れていると聞いて駆けつけたとき、あぁ、もう何もできない、とすぐに悟った。冷たくて硬くなっていたら、だれだって手遅れだと直感するはずだけど、それでも何かすべきだったんじゃないかな。救命処置ってのじゃなく、何かできることを探すべきだったんじゃないかって、今でも後悔している。

何もかも幕引きさせてくれ!

2013年12月06日 | 暮らしの落とし穴
      

 マッチ棒の軸、といってもイメージできない人が多いなら、綿棒の軸くらいの傷口がなかなか塞がらない。なのに、傷テープにかぶれやすくなってしまって、バンドエイドも貼ることができない。そんな状況ながらも、今日でほとんど塞がったと自分で判断し、何も貼らないでドクターの診察を受けた。
「う~ん、前回貼ったテープでもかぶれましたか。仕方ないですね、注射のやつにしとこ」
 先生が看護師さんに指示したのは、点滴とかの後に貼るアレ。そこまでして貼りたいか!

 主治医としては、何が何でも今週中に幕引きをしたいって気分だろうし、だれよりぼく自身がそう願っている。そのぼくが貼らない選択をしたんだから、放って置いてよ、といいたくなるけど、ここまで来たら医者の矜持というより執念みたいなものが伝わって来て、いえなかった。

 明日は防災士講習の最終日。1時間の試験もさることながら、普通救命講習というのがあって、気分はややブルー。内容を知っているし、実技があるので折れた肩では腰が引けてしまう。その後にまた点滴しなくてはいけないし、翌日もまた点滴。もう何もかも今週中に幕引きしたいよ。

失敗は何も教えてくれない、できるのは学ぶことだけだ

2013年12月05日 | 暮らしの落とし穴
 本日のことばから。
“If you don't learn anything from your mistakes,there's no sense in making them.”
「ミスから何も学ばないのなら、ミスをする意味がない」
 逆にいえば、ミスをするのは何かを学ぶためである、と解釈できるのかね。これまでの人生で、ぼくは相当なミスを重ねてきたけど、あんまり賢くなってないぞ。
 
 もっと早く気付くべきだった。最近の洗練された若いドクターというのは、血液検査の結果やレントゲンから症状を解析するけど、患者を診てはいないのだということを。診るという行為は、患者の背後に隠れている、症状の原因を想像するということじゃなかろうか。

 病院で知り合いの爺さんと会うんだけど、ぼくよりもはるかに長く通院して点滴しているにもかかわらず、手首の腫れと痛みが改善されないそうだ。レモンだかミカンだかの木のトゲが刺さってばい菌が入ったという。
 昔の医者なら患部を切開して膿を出し、傷口にヨーチンを染みこませた綿を詰め込んだりしたもんだけど、最近は優れた抗生物質の点滴で治そうとする。現代医療を否定するつもりはないけど、昔の荒療治も視野に入れたらどうなんだろう。

 爺さんといろいろ話しているうちに、それって酒の飲み過ぎじゃないの? ということに気付いた。酒をやめるか控えたら症状は改善するように思えたけど、そりゃぼくも同じことか!
“The only thing experience teaches us is that experience teaches us nothing.”
「経験が教えてくれることは、経験は何も教えてくれない、ということだけだ」
 つまり、失敗の経験は何も教えてくれない、できるのは学ぶことだけだ、という意味なんだろうか。おれ、学んでないねぇ……。

最初で最後の忘年会は、腹が立つ!

2013年12月04日 | 暮らしの落とし穴
     

 今年、最初で最後の忘年会。忘れたいことは山ほどあるけど、忘年会は一つだけで、いや、いくつあっても足りない。だからどうしても出なくてはいけない自治会の忘年会だけに出席する。

 日頃、天然鰻や天然鯛を食べている島のおっさんたちをもてなす料理じゃない。なのにここ10年くらい同じ料理なんだそうな。予算も限られているから仕方ないけど、正直みんな食傷気味かな。

 市役所の職員との忘年会って趣きもあるんだけど、お願いした仕事を遂行してよねって、爆発しそうになる自治会長は多いはず。「まあまあ、我々も頑張っていますので、生ぬるく見てやって下さい」と酌をしに来られたら無下に断るわけにもいかない。

 上手くできたからといって誰にも評価されることのない仕事をやっているのは、役所の人間もぼくも同じ。ただ、連中は給料をもらいながらもエクスキューズがあるのに対し、ぼくたちはボランティア。ぼくは無償で、崇高な任務の遂行に酔いしれているナルシスト……冗談じゃないぞ、市役所の職員さんたちも退職した暁には損長をやるんだよ!

追悼イベントで事故死とは!

2013年12月03日 | 暮らしの落とし穴
 しばらくネットの情報から遠ざかっていたところ、信じられない出来事が起きていた。2011年のバイクレース世界選手権中に亡くなったマルコ・シモンチェリ選手は人気者だったので追悼レースが企画された。その追悼イベントのテスト走行中にドリアーノ・ロンボニ選手が転倒し、後続車に轢かれて亡くなったという。

 ロンボニ選手といえば、「イタリアで最も有名な日本人」といわれた原田哲也選手と同時代に活躍した選手。原田選手が、加藤大治郎選手の事故死の後に引退してしまったのに、ロンボニ選手は指導者としてだけでなくレーサーとしても活躍していたらしい。43歳だった。

 男性の43歳っていうのは、衰えは自覚しにくいけど、バイクレーサーとしては老境だろうか。ゴルファーとしてなら脂が乗ったといわれて不思議じゃない。もっと若かったら反射的にできたことも難しくなる歳なんだけど、自覚するのが難しのだと思う。
 ところが、40代半ば過ぎると、男は衰えを自覚するシーンに多く直面するようになる。43歳というのは、衰えを自覚できないまま無理をしてしまう、とても危険な時期なんだろう。42歳が男の大厄といわれているのには、それなりの理由があるってことか。

 ロンボニ選手のご冥福を祈ります。

傷口がどんどん悪化するよ

2013年12月02日 | 暮らしの落とし穴
     

 鎖骨が折れた部分は、レントゲンで仮骨(かこつ)の形成が一部認められる段階にまできたんだけど、傷口がふさがらない! バンドエイドで良いのに、ドクターが蒸れるようなテープを貼るからいかん。

 ここまできたら消毒してリンデロンでも塗ってくれっていうんだけど、「抗生物質の点滴をしましょう」と、あくまでも病院の方針を貫こうとする。ケース・バイ・ケースで柔軟に対応してくれても良いと思うんだけどな。

 ドクターとしては骨に感染するのを恐れているんだろうけど、レントゲンと血液検査の数値を見る限りその兆候はないらしい。今になって毎日点滴を打ちに来いというなら、もっと早い段階で決断して欲しかった。
 最初の抗生剤が効かず、次の抗生剤もいまひとつ、というふうに徒に時間だけが経ち、辛い思いをするのは患者なんだから。

避難所開設シミュレーション

2013年12月01日 | 暮らしの落とし穴


 防災士講習会2日目。学者やそれに準ずる研究者という立場の人の話は有益ではあるんだけど、話術を磨いてほしいというか、眠たくなるんだよぅ。比べたらいかんのだろうけど、災害の最前線でタクトを振る責任者の言葉は重い。いや、面白い。
 面白いといえば不謹慎かも知れないけど、生死の狭間で苦しむ人たちに接する医療関係者を統率していく上では、面白いテクニックを持っていないと部下はやってられんのだろうな。

 写真は避難所を開設するシミュレーション。小中学校を避難所に見立て、仮設トイレや医務室をどこに設置し、要介護・要支援者をどう扱うかで頭をしぼる。防災士を目指す人たちのだれも実際の避難所を運営したことはない。一般の人たちよりいくぶん知識はあるんだろうけど、避難所開設シミュレーションをやってみたら、てんでだめだった。

 避難所の解説で最初に直面する課題は、当たり前だけど、どこに居住区を設定するかということ。と同時に、立ち入り禁止区域を設定しなくてはいけないということ。これが素人には盲点だった。
 次に要支援者・要介護者の扱いだけど、これはまあ分かったつもりでいたけど、見た目だけで判断できる人だけじゃないんだね。

 トイレ、これが重要で、仮設トイレができるまでの水の流れないトイレでどう排泄するか。答えは、トイレットペーパーは汚物入れに投入し、バケツの水で流すのは汚物だけ、ということらしい。
 避難所に「物資を分けて欲しい」という人が来たらどうするかって問題もあったけど、シミュレーションをしてみた結果「お断りする」という回答は少なくなかった。援助物資はみんなのもの、のはずなんだけどね。

 あってはならない災害だけど、いざ災害が起きたらだれかがリーダーシップをとらないといけない。ぼくはリーダーのタイプじゃないけど、やるしかない。究極の選択を迫られたとき、是か非かは読めないけど、今できることをやるしかないんだね。