らんかみち

童話から老話まで

新しい物語が存在し得ないからこそ書く

2010年04月21日 | 童話
 とんぼっ子の合評会は、総勢9名で2時半に始まり7時半までみっちり。もう嫌! と音を上げてしまいたくなるほど作品を講評させていただき、してもらいました。飛び入りのプロも来てくださって深く鋭く温かく合評をしていただき、目からうろこの5時間でした。
 
 十人十色といいますから、一つの作品を読んだ感想は人それぞれで、「主人公のその態度は嫌いだ、いや好きだ」という個人的な趣味嗜好があります。独りで書いていると、ストーリーの論理的な破綻は客観視できても、好き嫌いの有無というのは独善に陥りやすいんですね。それを合評で指摘されるのは、ともすると自分自身の価値観を否定されたような気分にもなって、ぼくのいたいけな胸はおののくわけです。
 
 価値観が否定されることは、ままあっても人格まで否定されるわけではありません、つーか人格だって時おり否定されるかも……。だからって、そんなもん乗り越えられなくてどうするよ、たかが物語りじゃん。あぁ、されど物語、書いてみろと言われたら苦労するんですよ。
 
 だけどね、「日のもとに新しきものなし」って言葉のとおり、物語も新しいものなんて書けないと思うんですよ。
「偉大なベートーベンは音楽にできることを全てやってしまった、僕に何ができるのだろう」と、ベートーベンを畏敬していたシューベルトが苦しんだのと同じかもしれません。でもシューベルトは誰にでも歌える美しい歌曲をどっさり作曲したし、ショパンはピアノに詩を語らせました。
 
 今回の合評会で、ぼくの胸の内にモヤモヤと立ち込めていた、「シェイクスピアや紫式部を超える新しい物語はできないんじゃないか」という霧が晴れた気がしました。
 今まで聴いたことの無い旋律なんてものが今後も現れ続けるなんてこてとは無いのでしょう。詩と旋律とサウンドの組み合わせが新しい音楽であるかのように響くけど、全ては時代に沿った、おもねた、迎合した歌詞と旋律の組み合わせから生まれたものに過ぎないのです。
 
 でもね、当代に生きている者は、たとえ過去の作品に類似であっても、当代に受け入れられる作品を書きたい、書かねばならないって切迫感を誰もが感じているはずなんです。
 合評会に集った人たちも、ぼくと同じ思いを共有しているんだって実感でき、なんだか地球防衛軍の戦士たちが一堂に会したような錯覚をして、「一致団結して地球を救うんだ!」みたく、なんて御目出度くも有意義な合評会だったことでしょう。