らんかみち

童話から老話まで

陶芸指導のサクリファイス

2013年12月13日 | 陶芸
        
              

 陶芸指導は毎年のことながら、今年痛切に感じたのは、子どもの数が少ない! 2年生の全員で16名なんだと。子どもたちの作品は手直ししないといけないので、数が少ないと我々が楽ってことはある。でもそんなの喜ぶわけにはいかない。数年前に出生率0ってこともあったから、この先いったいどんなことになるんだろ?

 作陶指導は昨日だったけど、今日は彼らの作った湯飲みの手直しをした。これも毎年のことながら、陶芸クラブ仲間でもめるんだよね。その中心人物は、やっぱり要釉斎先生、齢およそ90。元教育者の先生としては、子どもたちに良い作品を残してやりたい、という一心でライフワークとして位置づけている。
 他のクラブ員たちは、ボランティアでしんどいことやってられるか、とモチベーションが上がらない。それに要釉斎先生ほどの技術もないから、万が一壊してしまったら、と腰が引けてしまっている。

 結局、最後まで残って要釉斎と共に手直ししたのは、ぼく一人だった。それもクラブ員の手直しの手直し。ま。ぼくだって最初の頃は要釉斎先生に手直ししてもらったんだから、だまってやらせてもらいますけどね。
 ただ、要釉斎先生の審美眼で手直しされて良い品になったとして、はたして子どもたちは自分の作品という愛着が湧くだろうか。

 ぼくが初めて陶芸作品を作ったのは、たぶん6年生のときだったと思う。班分けされた中に好きな女の子がいて、ずいぶん緊張しながら粘土をいじっていたせいか、どうにもこうにもならない。見かねた先生が手を貸してくれたんだけど、先生は自分の世界に没入してしまい、自分の作りたいものを作り上げてしまった。

 好きだった女の子は、後に美術の教師になったくらいなので、陶芸作品も上手に作っていた。焼き上がっても彼女の作品はとても良かったけど、ダントツでぼくの作品が……いや先生の作品が素晴らしかった。
 その作品はいま見ても優れていると思うけど、愛着は感じない。自分で作れなかったことも悔しいが、彼女の前で先生に手助けされた惨めで切ない思い出がよみがえってきて、見る気がしない。
 要釉斎先生をはじめとする我々が中学生たちの作品を手直しすることによって、ぼくのような犠牲者を生み出しているんじゃないかって、それだけが気がかりだ。

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