らんかみち

童話から老話まで

落語は物語を書く原点だ

2013年01月11日 | 童話
 1日1話、童話を書くんじゃなくて、落語を聞く。落語というのは話芸で、しゃべりの技術で聞かせるもの、とばかり思い込んでいた。確かに、どんな面白いネタでも、ぼくが本を読みながらしゃべったのでは受けることはないだろう。つまり落語を本で読んでも面白くないということ。
「持参金」という落語を聞いたけど、これなんかストーリーは実に単純。

 珍しく早起きしてしまった男やもめのところに、「貸してあった20円(当時の貨幣価値で高額)を今日中に返してくれ」と、知人が催促に来る。

 どうやって金を工面しようか悩んでいる男のところに、「臨月を迎えた女を嫁にもらえば20円の持参金がもらえる」という縁談が舞い込んで、男は渡りに舟とばかり承諾する。

 その日に祝言を挙げるが、どうしたことか「持参金は明日の朝になる」といわれ、借金取りも現れない。

 翌朝、借金取りが現れ、「孕ませた女に持参金を付けて嫁に出すつもりで20円が要る」と男にうち明ける。すでにこの女を嫁にもらっていた男は、手ぬぐいを借金取りに渡し、「これを仮に20円としてあんたに渡す。あんたは嫁を紹介してくれた人にこの20円を渡す。その20円がおれの所に来る。ああ、本当に金は天下の回りもの」という落ちで終わる。

 こうやって荒筋を書いたら面白くもなんともないし、そう簡単に話が進むわけがない、となるわけだが、落語家の話芸にかかったら不自然でなくなる。登場人物の一生懸命さやズレ加減を、話芸によって巧みに表現するから成立するんだろう。

 物語を書くというのは話芸と似ているんだろう、同じ役割なんだろうと思う。普通に考えたら臨月を迎えた女をめとるわけないけど、男やもめにウジがわくをいう状況の上に借金を返さなくてはいけない。こういう心理状態だったんだ、とディテールを積み重ねてオーディエンスを納得させる。

 物語をかくということは、書き手が落語家になるということなんだ。嘘っぽい、しかし現実に存在した話をいかに読み手を納得させながら書けるか、ここなんだろうな。しかし雄弁であれば人は納得するのかといえば、そうでもないから難しい。