らんかみち

童話から老話まで

船折瀬戸 その漁の様

2007年12月02日 | 暮らしの落とし穴
 瀬戸貝漁に命を賭けるって大袈裟に聞こえるかもしれませんが、実際そうだと思います。何しろ瀬戸貝の漁場というのは、かつて村上水軍が本拠地を置いた「能島」周辺なのです。つまり海賊が水先案内をしないと通れない、「船折瀬戸」とも呼ばれる、船を二つに圧し折ろうかという怒涛渦巻く難所。鳴門に次いでの、日本で2番目の急流に潜って展開される漁は、過酷を極めるのです。

 漁の現場を見たことは無いのですが、どこかに展示されていた瀬戸貝漁に使われた潜水服を見る限り、その印象は良く言えば宇宙服。ところがその実質は、重さ90kgという拷問のための拘束服然として、どんなにしぶとい政治家であっても、あのスーツを着せられて漆黒の海底に沈められたら、オシッコちびって洗いざらい白状するに違いありません。
 ここから先は想像でしかないのですが、もしかすると、瀬戸貝漁はこんな感じで行われているのではないでしょうか。


 瀬戸貝漁というのは、船折瀬戸の急流を避けられる満潮前後と干潮前後。潮の流れが穏やかになる、1日の内で2時間程度しかチャンスは無い。しかも1回に潜れる時間はおよそ30分という短時間である。もしそれをオーバーしたら遭難の危険度は倍加するだろう。何故なら、最深で40mともいわれる海底での圧搾空気を呼吸しながらの作業は、常に潜水病と隣り合わせだからだ。どんなに経験を積んだ屈強の漁師であろうとも、海底の漁場に到着する直前まで観音様に祈り続けるという。

 全長10m余りの瀬戸貝漁船に乗り込んだ村上夫妻は今日も瀬戸貝漁に出た。かれこれ40年も続けてきた代わり映えのしない冬の朝だったが、ドライスーツを着てヘルメットを装着するまで村上岩男は震えが止らない。
 海を侮ってはいけない。潜る恐怖を感じなくなったときが漁をやめるときだと岩男は思う。船上から水底に降りて行く10分ほどの間、念仏を唱えるように観音様に祈り続けるのが彼の常であった。
 冷たく暗い冬の海に降りて行く岩男を支えるのは妻の美智子である。船上では美智子が操船をしながらウィンチをゆっくりとリリースしていくが、その間も有線電話から聴こえてくる夫の息遣いに注意を怠らない。海の底ではどんな些細な事故も死に直結する可能性があるのだ。

 漁場に到着してもすぐに瀬戸貝が見つかり、採取できるわけではない。昭和58年をピークに年々漁獲高が少してしまった壊滅的な瀬戸貝の生息状況が、瀬戸貝漁船を村上夫妻の船1隻だけにしてしまった事実をもってしてもそれは理解できる。
「お父ちゃん、瀬戸貝おるか?」
 美智子の声がヘルメット内に響く。まるで目の前にいるかのような明瞭な音声に、岩男はホッとしながらも岩の裂け目に目を凝らし続ける。
「おう、おるおる! 今日は大漁じゃねや」
 岩にしがみついている瀬戸貝の根元に貝切り鎌を突き立てると、岩からボロリと剥がれ落ちた瀬戸貝を、次々と腰の網に放り込んでいく。

 若い頃ならいざ知らず、今年60歳を迎えた岩男にとって、瀬戸貝漁は耐え難い重労働である。ここ数年、引退の二文字が頭から離れたことは無いが、漁を止められないのには理由が有った。瀬戸貝を待ち望んでいる消費者のため、というのもその一つには違いないが、遅くに生まれた一粒種の正男が通う大学の学費を捻出しなくてはならないからだ。
「お父ちゃん、もう30分経ったでぇ、上がってきいや」
「おう、待て待て、もうちょっとだけ採るわい」
 久しぶりの漁獲に、潜水限界時間を超過しても採り続ける岩男だった。

 岩男の息子、正男のが通うのは関西でも名の知れた私学だったが、熾烈な受験戦争を勝ち抜いてきた正男は既に燃え尽きていた。2年に進級する頃になると、正男はろくに大学には足を向けず、コンパに明け暮れた挙句、性悪な看護婦に引っかかって金をゆすられていた。
「あんたのせいやからな、アタシが妊娠したんは。これ、うちの病院でおろしてもろた診療報酬明細な。出るとこ出て慰謝料込みで100万円くらいもろうてもええねんけど、あんた学生やから可哀想やしな。30万で勘弁したるわ」
「さ、30万って、そんなぁ……」
「ええねんで、あんたのお母ちゃんに払うてもろたかて」
 田舎出の世間知らずな正男など、狡猾な看護婦の前にはカモでしかなかった。バイトで稼いだ小遣いは貢がされ、レンタカーを借りては足代わりにこき使われた末にこの仕打ちである。策に窮した正男はやむなく「学費」と称して親に泣きついたのであった。

 そんな息子の放蕩と災難も知らず、次の瞬間に地獄絵図を見るやも知れない危険を冒して村上夫妻は瀬戸貝漁に精を出す。よしんば危険が予知できたとしても抗し切れないのが自然の力であり、今正にその瞬間が訪れようとしていた。
「お父ちゃん、何しとるんぞ、早う上がってこんかい。巻き上げるでぇ」
「……」
「お父ちゃん? お父ちゃん!」
 船の上で叫ぶ美智子に、岩男からの応答は無かった。
 窒素酔い!
 美智子の脳裏に最悪の状況がよぎった。そうだとしたらもはや一刻の猶予も無い。自らの吐瀉物で窒息の危険があるのだ。しかしだからといって急速にウィンチを巻き上げると潜水病を免れない。そればかりか岩で潜水服を損傷して海水がドライスーツ内を満たし、溺死の危険もある。いずれにしても無事では済まされないが、他に術が無いのも現実であった。

 ウィンチで吊り上げられ、ほどなく岩男の体は海面に姿を現したが、意思を持たない150kgを船上に上げるのには至難を極めた。
 ヘルメットを外すと、本来なら20分以上も費やして引き上げるところを、わずか5分で上げたせいだろう唇が紫色に変色し、チアノーゼを発症しているのは明らかだった。
「お父ちゃん、お父ちゃん!」
 美智子は意識の無い岩男を呼び続けながら船を港へと走らせた。

 港に着くと既に救急車が待機していた。海沿いに暮らす島では、年間に数十例の潜水病を患者を搬送する慣れた救急隊員ではあったが、岩男ほど容態が悪いのは稀だった。高圧酸素療法の設備を有する病院は……


 どうです? ほんとに命がけでしょう。これほどの苦難を乗り越えて市場に届けられた瀬戸貝ですから、仇や疎かにしようものなら、観音様の罰が当たるのは申すまでも無く、人の道を外れた行為との謗りを甘受せざるを得ないでしょう。なので瀬戸貝飯にして有り難く頂きました。もちろん美味しかったです。

 あ、なぜ神様仏様ではなく「観音様」なのか? 疑問に思われる方は実際に瀬戸貝を入手してそのお姿をご覧下さい。殿方なら思わず手を合わせて拝みたくなこと受けあいです。