(長文です。前半は、訃報に寄せられた関係者のコメントについて、後半は、かつて映画を見た感想などを書いています)
原節子が最後に映画に出演したのは42歳のときだから、もう53年も前のことになる。
1963年12月12日に亡くなった小津安二郎の通夜か葬儀以降、公の場にいっさい姿を現していないのだから、その存在はもはや「生ける伝説」といっても過言ではないだろう。
9月に亡くなっていたことが、一斉に報じられたのは25日の夜で、26日の新聞各紙はいずれも1面で訃報を伝えた。
かつて「キネマ旬報」が多数の評論家に「オールタイムベストテン」を募ったところ、邦画の女優部門では首位が田中絹代で、2位が原節子だった。日本映画の歴史を振り返ってみたときに、この順位に異論のある向きは少ないのではないだろうか。
新聞各紙に載った談話では、毎日新聞の山田洋次監督と、読売新聞の四方田犬彦さん(評論家)に、いちばんうなずけるものがあった(個人的な感想です)。
山田洋次監督の話。
すごい。
「その通り」としか、言いようがない。
気持ちの部分では、これ以上付け加えることはだれにもできそうにない。
もうひとつ。
映画や文学の評論で幅広く活躍している四方田犬彦さん。
さすが、原と山口淑子を軸に論じた「日本の女優」という著書があるだけに、原節子という女優が日本人にとってどういう存在であったかを、そして「永遠の処女」というキャッチフレーズのほんとうの意味を、鋭く言い当てている。
日本の昭和時代と原節子の経歴が同じような歩みをみせているのは、人気女優の必然だろう。
彼女は15歳か16歳のときに、天才といわれた山中貞雄監督の「河内山宗俊」に出演しているが、筆者にはあまり印象にない。
その「河内山宗俊」の姿を見そめられて、ナチス統治下のドイツ映画「新しき土」に抜擢されたこと、対英米戦争開始後の「ハワイ・マレー沖海戦」で銃後の女性(主人公の姉)を演じていることからもわかるように、日本のファシズムと戦争に加担した結果になったことは否めない。「ハワイ・マレー沖海戦」の彼女はほんとうに美しく、大げさでもなんでもなく、彼女の登場しているところだけが、光り輝いているかのようであった。
筆者は、戦後は社会派監督であった今井正などですら戦争賛美映画を撮っているのだから、単なる女優であった原節子に、たとえば藤田嗣治のように戦争責任を問うのは、いささか酷であると考える。
もっとも、海外に目を向ければ、ヒトラーからの誘いを敢然と断り、故国ドイツを去って反ナチの運動に取り組んだマレーネ・ディートリッヒのような大女優もいるのだから、その意味では、やはり日本の現実はさびしいという感想が出てくるのはやむを得ない。
彼女が、真に日本の映画史に残る女優になったのは、日本の映画史に残るような作品に多数出演したからといえる。
この意味では、たとえば吉永小百合は、やはり日本の映画史に残る女優であることはまちがいないけれども、作品という観点からすればかなり損をしていると言わざるを得まい。原節子に比べれば、数々の名作に出たとは、決して言いがたいからである。
原節子といえば、まず誰もが挙げるのは小津安二郎監督の映画だろう。
「東京物語」「晩春」「東京暮色」「小早川家の秋」「麦秋」…。
どれも印象深いが、なんといっても「東京物語」は、戦後の経済復興の中で失われつつある「何か」を描いて、忘れがたい。何かとは、人々の素朴な愛情であり、きずなといってもいいかもしれない。日本映画のみならず、世界の映画史に残る傑作とされている。
「晩春」では、笠智衆との父娘を演じた。原が演じたのは、婚期を逃してから嫁ぐ娘の役だが、とても「婚期を逃した」などと形容できない美しさを感じさせる。
この映画を評価する視線は、ある意味、どこかでオリエンタリズム的なものを宿していることもあるかもしれない(能舞台の引用など)。にもかかわらず、簡潔な美意識にまとめられていることで、時代を超えた作品になっていることもまた否定できない。
筆者は、彼女が怒って笠を置いてずんずん歩きだしたとき、ほとんど常に固定されているカメラが動きだしたことに驚いたのが、強く印象に残っている。
北海道とのからみでいえば、黒沢明がドストエフスキーの長編を翻案した「白痴」に主演している。
小津映画と異なり、この作品の原は、那須妙子(原作のナスターシャのもじりw)という魔性の女を演じていて、あのしとやかな女性のイメージで見ると、ほんとにビックリする。森雅之(有島武郎の息子で、札幌芸術の森の中にある旧有島邸にも住んだことがある)は、翻弄されっぱなしなのである。
この作品は、もともと4時間以上あったものを、映画会社が短くしたので、字幕が多くて、いろいろな要素を詰め込みすぎたものになってしまった。巨匠黒沢としては「失敗作」というべきだろうと思う。意欲的な失敗作、というべきか。
とはいえ、札幌・中島公園のカーニバルの場面など、これは四方田さんの示唆によるものだが、エイゼンシュテイン映画などを想起させる、土俗的なエネルギーに満ちて、一筋縄ではいかない映画になっているといえよう。
そして、筆者のような札幌っ子にとっては、かつての札幌が、まるでサンクトペテルブルクのような異国情緒に満ちた都市であったこと、原節子がナスターシャを演じてロシアの物語を繰り広げてもちっとも違和感のないマチであったことを誇らしく思うとともに、それが永遠に失われてしまったことを惜しまずにはいられない。そんな感情を起こさせる映画が「白痴」なのだ。
あらためて、ご冥福をお祈りします。
なお、文中に引用した原節子さんの出演作のうち「新しき土」は筆者は未見です。「ハワイ・マレー沖海戦」はDVDで鑑賞しました。
原節子が最後に映画に出演したのは42歳のときだから、もう53年も前のことになる。
1963年12月12日に亡くなった小津安二郎の通夜か葬儀以降、公の場にいっさい姿を現していないのだから、その存在はもはや「生ける伝説」といっても過言ではないだろう。
9月に亡くなっていたことが、一斉に報じられたのは25日の夜で、26日の新聞各紙はいずれも1面で訃報を伝えた。
かつて「キネマ旬報」が多数の評論家に「オールタイムベストテン」を募ったところ、邦画の女優部門では首位が田中絹代で、2位が原節子だった。日本映画の歴史を振り返ってみたときに、この順位に異論のある向きは少ないのではないだろうか。
新聞各紙に載った談話では、毎日新聞の山田洋次監督と、読売新聞の四方田犬彦さん(評論家)に、いちばんうなずけるものがあった(個人的な感想です)。
山田洋次監督の話。
原節子さんが亡くなったなどという知らせを聞きたくありません。原節子さんは美しいままに永遠に生きている人です。半分は神様と思って手を合わせます。
すごい。
「その通り」としか、言いようがない。
気持ちの部分では、これ以上付け加えることはだれにもできそうにない。
もうひとつ。
映画や文学の評論で幅広く活躍している四方田犬彦さん。
どんな時にも生気に満ちていた人でした。戦時中の困難なときにも、アメリカに占領されていたときにも、日本はどんなに傷ついていても、つねに美しい処女のようであると、日本人に教えてくれた女優です。黒沢明の「わが青春に悔なし」のなかで、荒れた手でピアノの鍵盤に触れる場面が忘れられません。
さすが、原と山口淑子を軸に論じた「日本の女優」という著書があるだけに、原節子という女優が日本人にとってどういう存在であったかを、そして「永遠の処女」というキャッチフレーズのほんとうの意味を、鋭く言い当てている。
日本の昭和時代と原節子の経歴が同じような歩みをみせているのは、人気女優の必然だろう。
彼女は15歳か16歳のときに、天才といわれた山中貞雄監督の「河内山宗俊」に出演しているが、筆者にはあまり印象にない。
その「河内山宗俊」の姿を見そめられて、ナチス統治下のドイツ映画「新しき土」に抜擢されたこと、対英米戦争開始後の「ハワイ・マレー沖海戦」で銃後の女性(主人公の姉)を演じていることからもわかるように、日本のファシズムと戦争に加担した結果になったことは否めない。「ハワイ・マレー沖海戦」の彼女はほんとうに美しく、大げさでもなんでもなく、彼女の登場しているところだけが、光り輝いているかのようであった。
筆者は、戦後は社会派監督であった今井正などですら戦争賛美映画を撮っているのだから、単なる女優であった原節子に、たとえば藤田嗣治のように戦争責任を問うのは、いささか酷であると考える。
もっとも、海外に目を向ければ、ヒトラーからの誘いを敢然と断り、故国ドイツを去って反ナチの運動に取り組んだマレーネ・ディートリッヒのような大女優もいるのだから、その意味では、やはり日本の現実はさびしいという感想が出てくるのはやむを得ない。
彼女が、真に日本の映画史に残る女優になったのは、日本の映画史に残るような作品に多数出演したからといえる。
この意味では、たとえば吉永小百合は、やはり日本の映画史に残る女優であることはまちがいないけれども、作品という観点からすればかなり損をしていると言わざるを得まい。原節子に比べれば、数々の名作に出たとは、決して言いがたいからである。
原節子といえば、まず誰もが挙げるのは小津安二郎監督の映画だろう。
「東京物語」「晩春」「東京暮色」「小早川家の秋」「麦秋」…。
どれも印象深いが、なんといっても「東京物語」は、戦後の経済復興の中で失われつつある「何か」を描いて、忘れがたい。何かとは、人々の素朴な愛情であり、きずなといってもいいかもしれない。日本映画のみならず、世界の映画史に残る傑作とされている。
「晩春」では、笠智衆との父娘を演じた。原が演じたのは、婚期を逃してから嫁ぐ娘の役だが、とても「婚期を逃した」などと形容できない美しさを感じさせる。
この映画を評価する視線は、ある意味、どこかでオリエンタリズム的なものを宿していることもあるかもしれない(能舞台の引用など)。にもかかわらず、簡潔な美意識にまとめられていることで、時代を超えた作品になっていることもまた否定できない。
筆者は、彼女が怒って笠を置いてずんずん歩きだしたとき、ほとんど常に固定されているカメラが動きだしたことに驚いたのが、強く印象に残っている。
北海道とのからみでいえば、黒沢明がドストエフスキーの長編を翻案した「白痴」に主演している。
小津映画と異なり、この作品の原は、那須妙子(原作のナスターシャのもじりw)という魔性の女を演じていて、あのしとやかな女性のイメージで見ると、ほんとにビックリする。森雅之(有島武郎の息子で、札幌芸術の森の中にある旧有島邸にも住んだことがある)は、翻弄されっぱなしなのである。
この作品は、もともと4時間以上あったものを、映画会社が短くしたので、字幕が多くて、いろいろな要素を詰め込みすぎたものになってしまった。巨匠黒沢としては「失敗作」というべきだろうと思う。意欲的な失敗作、というべきか。
とはいえ、札幌・中島公園のカーニバルの場面など、これは四方田さんの示唆によるものだが、エイゼンシュテイン映画などを想起させる、土俗的なエネルギーに満ちて、一筋縄ではいかない映画になっているといえよう。
そして、筆者のような札幌っ子にとっては、かつての札幌が、まるでサンクトペテルブルクのような異国情緒に満ちた都市であったこと、原節子がナスターシャを演じてロシアの物語を繰り広げてもちっとも違和感のないマチであったことを誇らしく思うとともに、それが永遠に失われてしまったことを惜しまずにはいられない。そんな感情を起こさせる映画が「白痴」なのだ。
あらためて、ご冥福をお祈りします。
なお、文中に引用した原節子さんの出演作のうち「新しき土」は筆者は未見です。「ハワイ・マレー沖海戦」はDVDで鑑賞しました。