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小林恵のNY通信

NY在住47年、2011年より東京谷中に居住。創造力をのばすためのエッセンス、スパイスをいれた私の暮らしの手帖です。

私と劇団青年座

2012-08-26 13:03:43 | 暮らしのジャーナル

「ブンナよ、木からおりてこい」ー青年座が残すものー

 1992年、237回目のブンナ上演がニューヨークにやってきた。

 初めてお目にかかるマネジャーの紫雲さんは「東恵美子さんから恵さんを訪ねるようにと言われました]と遠慮深くいった。
今年の夏のように暑い暑い夏だった。「どうぞ上着を脱いでください」といっても律儀そうに上着を脱がず汗を拭いていた。上演日は運悪くNY 不在になる時だったので、友人たちがジャパンソサエティに見に行き、みな感動したと言ってくれたのは嬉しかった。

 あれから20年の月日がたち堂々1,140回目の上演を新国立劇場の小劇場で観劇した。地下鉄から会場に入るまでとても感慨無量であった。私の青春は青年座の創設メンバー、山岡久乃さん、東恵美子さん、初井言栄さんなど、青年座を発足するための情熱に燃えていた先輩を見ながら多くのことを学んで成長した。

 発足パーティの鳥の手羽肉を初井さんのハズバンドの遠藤啄郎さんと徹夜で大鍋二つに朝までかかって煮込んだのを手伝った。今と違って鳥羽根にはたくさんの白い毛がついていてお鍋に入れるのが心地よくなかったのを覚えている。        
  「気にすることないよ。 煮えれば毛は溶けるんだよ。美味くなるぜー」といったのを鮮明に覚えている。  

 1992年NYブンナ 上演の時の音楽は林光さんだった。1964年、アメリカに行く前の四谷大京町の私のアパートは入居する前には林光さんが住んでいた。同じビルに東恵美子さん、のちに山岡久乃さん、私の渡米後は初井言栄さんが入居した。 

 原作、水上勉の「ブンナよ、木からおりてこい」はとてもよかった。話はクラシックダ。しかし永遠に新しい。これからも何度でも上演してほしいと思う。三大寺志保美さんの衣装も抜群よかった。貧乏だった創設メンバーに見せたいと思った。創設メンバーの唯一の現役、製作の水谷内助義さんを紫雲さんがつれた来て「みないなくなったねー」といった。

 しかし時代を経ても、残して生きているもの、これからも永遠のテーマであることを演じるのは遣り甲斐も、観甲斐もあることだ。

 出演者はみな懸命に演技し、メッセージを残していっている。青年座創設メンバーがいなくなったことは 寂しいけれど、みなに受け継がれているのはすばらしいことだ。

 東さんがなくなる前、NYから電話したとき、東さんは
「今日は紫雲が来てくれたのよ」と嬉しそうに言った声が耳に焼きついている。

数日後、東さんは南博先生のもとに旅だった。

 

 

 


忘れ得ぬ終戦の日:1945年、8月15日 

2012-08-17 19:08:43 | 暮らしのジャーナル

伝えたい・忘れてはいけないこと

 営林署のエリートと結婚して、満州で終戦を迎えた私の一番上の姉は25歳の若さで、終戦の前日、一家が殺害された。その知らせを受けたのは数年後のことである。知らせを受けた時、美空ひばりの悲しき竹笛の歌がラジオから流れていた。悲しみに暮れて無言で夕食を食べたのを覚えている。
3歳の息子と臨月であった姉の無念を思うと、どんなことでも我慢できると思うし、姉の分も生きてあげようと今日に至っている

 最近、野見山美富士著、「旧満州国 遼陽での日々」 という小紙を著者の姪、野見山智子さんが1945年~1946年までの叔母の日記帳を出版した。彼女は新宿でエスパというバーを経営している。野見山美富士さんに捧げた彼女の鎮魂歌だとおもう。

 終戦の前日、満州の日本軍は在留日本人を見捨てて居なくなり、駐留したソ連兵は略奪殺戮をくりかえし、悲惨な引き上げの物語の一つだ。しかし生きて帰れなかった多くの同胞を思う時、情報もなく、助けてくれる国家がない時の悲しみを戦争だから仕方がないと言えるだろうか。

 ユダヤ人の殺戮の記録はユダヤ人が克明に情報を記録し、繰り返し繰り返し、もういいじゃないのと思うほどテレビで放映をくりかえしている。スポンサーはユダヤ人である。ユダヤ人はひつこいという人も多い。しかし人間の犯した罪を人間に問いかけ、後世に知らせていかねばならないのが生きている人の責任だと思う。

 被原爆国として唯一発言出来る国が、原発を再起動するような信じがたいことが日本で起こっている。電気広告が昼間も付けられ、無駄が山のようにあり、危機感を持っている人は少ない。そして明確な情報も伝えられていない。皆、仕方がないと思うのは戦争が始まり、わからないまま服従した時と同じ様に恐ろしいことでないだろうか。

 自分の人生が自分の選択や努力では変えられない時、人々はどうするのだろうか。
9/11は戦争を引き起こし、アッという間に世界が変わってしまった。

 そして3/11 から人々はショック療法を受け、忘れかけていたことから多くを学んだと思う。

 戦争を知らない若い世代に伝えたいと願う。馬鹿げたことを繰り返さないように若い叡知に期待していこう。

 

 

 


母の日に想うこと

2012-05-10 14:16:53 | 暮らしのジャーナル

                   母とニューヨーク

82歳の母が初めての外国旅行、ニューヨークにやってきたのは1972年、私がニューヨークに住み始めて8年目の年であった。姉二人を付き添いに連れて緊張して降りてきた母は、声が出ないほど疲れていた。旅行に出た末娘がそのままニューヨーク二住みついたのだから、この目でどんな生活をしているか見たかったのだろう。

25年間住んだ5階のアパートで、日本に帰ってくるように懇願していた母の言葉も聞く耳持たずにno-no-noと聞き流していた。親の気持ち子は知らずとは本当のことだ。大志を抱いていたわけでもなく、毎日が楽しくて楽しくてという理由であった。
 
アメリカの友人が別荘に招待してくれた。その家はかってシャガールが住んでいた家だった。
家を買った時、壁紙をはがすとシャガールの手書きの壁紙絵が出た来たという大きな家であった。雪が降っていたので、車から友人は母を大事そうに抱き、暖炉の前にひざかけをかけてくれた。
父に抱いてもらったことなどまったくなかったから、興奮して硬直している母をみて、娘たちは転げまわって大笑いしていた。

今はなき貿易センターのトップレストランの二人テーブルで手を握り合うカップルを見ないように、
(見ては失礼なので)まっすぐまえを見て私たちのテーブルに着いたのも,とても可笑しかった。

歩くのが遅いので向かいのシニアセンターで無料の車椅子を借用し、母を乗せてセントラルパークを横切ってメトロポリタン美術館に連れて行った。クリスマス頃の美術館は満員。途方に暮れていると声がかかった。「皆さん!オリエンタルのオールドレディを通してあげましょう」と交通整理をしてくれた。母は「ありがとうございます」と皆に手を合わせ会釈し、絵画は全然見ず部屋中がスマイルに
包まれた。

母が亡くなった時も取材旅行で日本に帰国できなかった親不孝者。偶然のチャンスで今、谷中に住んで朝は御経と鳥の声でめざめ、毎日お寺巡りであけ暮れる日々。日蓮宗の母がいたらどんなにか喜ぶだろうと当時は想像もできなかった現在と、自分が後期高齢者になって、母に悪いことをしたと心底、情けなくなっている今日の母の日である。

      
     皮張りであったパスポート。母は”この御経を何時も身につけていなさい” と言った。”読めないなーとぼ
     やくとすべてに仮名を振ってくれた。左の母の手書きの般若心経は72歳位から94歳まで毎日書き続け
     棺をうめた。
                   
     
     19世紀女性のおこずかいは極小。10㌣と5㌣を2枚重ねてはいる。大切にシルバーのケースに入れて
     女性たちは持ち歩いた。当時女性はレストランには入れなかったので5㌣で食べ放題の屋台の蛎とか
     ハマグリの立ち食いは女性の楽しみであった。そのケースに入れた母と私。持ち歩きはしたことがない。
     左)ブレスレットと指輪はイタリーにいった時の母への御土産と時計が好きな母に贈った懐中時計。ネジを
     まきすぎてすぐゼンマイが切れて壊れたけれども、耳が遠くなったので、耳元で確かめ、
いつも枕許におい
     ていた。二つ目を買ってあげなかったのが悔やまれる。  

     


谷中散歩:谷中の洗濯物/太陽の恵み

2012-04-20 20:39:29 | 暮らしのジャーナル

            暮らしの歌:空を見上げりゃ洗濯物

 最後に残された江戸の庶民の街、谷中に住んで1年が過ぎ去った。路地には琵琶、お箏、三味線、詩吟、日本舞踊などのお師匠さんの看板があったり、凝った好き者だけが知る古本屋さん、特殊専門的筆やさん、石屋さんはもとより畳やさん、襖やさん、風呂桶やさん、べっ甲屋などがあり、和菓子屋さんも売れるだけ作っている様なお店、その奥に住まいがあるような、分相応に腕一本で誇りを持って生きている自立した人たちの好む町と覗える。
 
 地域雑誌をつくり、自ら取材、編集、自転車に乗ってお店に売り歩いた森あゆみさんの”谷根千”のオリジナル精神が生きている街だ。帰国して谷中に住むようになり最初に読んだ本が森あゆみさんの谷根千。いたく感激して電話をかけまわり ”素晴らしい本だよ!”と言うと知らないのは私だけだったことを知った。そんなわけでニューヨークから移り住んだ時はここが谷根千の中であることも知らなかった。偶然友人の推薦で住む家が気にいり、考えもしなかった帰国を決心した。
 何も知らないでニューヨークから移り住んだ時、最初に読んだ本、森あゆみさんの谷根千は引っ越ししたことに間違いなかったと未来?(すくない!)が明るかった。1年間を経た本日も発見が多く、おおむね良好の日々である。

 東京芸大~日暮里~西日暮里の高台から坂下の不忍通りまでの坂の街、地形的には谷の中なので谷中というそうだ。不忍通りからは本郷、東大の方へ坂をまた登る扇状の地形をしている
 扇状の地形には谷下に走る縦の三崎通りと言問通りがある。横走りの通りは、諏訪台通り~初音通り~芸術通りを経る(西日暮里道灌山通りから芸大まで)、と 同じく道灌山通りから六阿弥陀通りという上野まで抜けられる道と、よみせ通り~蛇道(川を埋め立てた蛇状の道)をまっすぐ行くと上野の動物園に出る道が谷中の横を走っている。不忍通りは地下鉄千駄木と根津までJRとの間の 扇状地形で荒川区、文京区、台東区、が含まれる山手線の内側の坂の街である。
 ここまで説明できるのに1年かかり、殆どを歩いてみた。

 この間に小さなお寺が100ほどある。お寺だけでも100回は立ち止まらなければならないので
谷中の散歩は立ち止まるところが多く、門を見たり屋根を見たり歴史の説明を読んだりお墓を見たりで散歩は退屈するときがない。

 狭い路地には鉢植えの花々、3分の1は誇らしく美しく手入れされていて、また立ち止まる。
ヨーロッパでは町を美しくする御目つけ役がいて、町なみの連帯観、共同体、町のPRのため競って美しくしている。

 今、日本で”絆”が再認識されているけれども うーん、去年の枯れた鉢が転がっていたり、土地がないために致し方なく公共にあるべきでないものが軒下にも置いてあるところも多い。

 空を見上げれば狭い路地のいたるところに洗濯物が干してある。乾燥機があり、ビルの窓があかない(飛び降りないように頭を出せない間隔のみ開けることができる)ニューヨークでは干し物をみることはあまりない。
 谷中に太陽がでると軒先にひらひら風に揺れる干しものから、生活がよみとれ、これがまた退屈しない楽しくて愉快だ。

 ニューヨークの下町で向かいのビルと物干し線を共有しレールがついている2本の物干し線を、お向かい同志で共有し通行人は干しものの下を歩く愉快な時代もあったが、家族単位も少なくなり現在はあまり見かけない。

 箱の中におさまらない谷中の暮らしは庶民的で、庶民の生活の知恵が彷彿としている。





 


谷中の塀

2012-04-13 14:14:53 | 暮らしのジャーナル

  谷中の塀

 たくさんある谷中のお寺の周りには塀がまわしてある。塀の中はびっしりとお墓が並び、檀家が古くなるとお墓はひっそりとしている。
 
狭い路地に面した塀は時代を経てまわりにしっくりとなじみ、谷中に趣きを加えている。

       
            




 

           
       

 


谷中の桜

2012-04-06 21:31:22 | 暮らしのジャーナル

         春爛マン・日暮らしの里

 ああ美しい。私の住まいの周りは江戸時代「日暮らしの里」と言われ江戸近郊の花見処だったといわれています。花見寺、萩寺、月見寺など風流な名前がついています。17世紀、18世紀建造の古いお寺がたくさんあり、谷中には100位のお寺があります。朝は読経と鳥の声でめざめます。すぐそばの東京で唯一富士山が見えるという富士見坂の両側はその昔桜並木だったそうです。今は伐採されアパートになっています。
 毎日の様にサクラ前線がニュースで知らせられる国。
セントラルパークにも桜がたくさんあり、ニュージャージーにも豪華なしだれ桜の桜公園があり、ワシントンの桜などあるけれど、国中の話題にはならない。
 桜の話題で、皆うきうきし、 国中がハッピーになるのも日本ならではのこと。桜さくら桜。ああ日本。日本に帰ってきて良かったとそのチャンスに感謝している倖せサーモンです。

     
     
    
  寒い春でした。やっと暖かな4月、急に桜が咲きました。お地蔵さんも嬉しそう。
        
       
毎日の様にサクラ前線がニュースで知らせられる国。
セントラルパークにも桜がたくさんあり、ニュージャージーにも豪華なしだれ桜の桜公園があり、ワシントンの桜などあるけれど、国中の話題にはならない。桜の話題で、皆うきうきし、 国中がハッピーになるのも日本ならではのこと。桜さくら桜。ああ日本。倖せサーモンです。
       
       
                   

 有名な谷中の墓地の桜並木。去年は3・11の災害でお花見が自粛され ました。何時もはひっそりのこの道も
満員。亡くなった人も生きている人も桜を愛でる嬉しい日曜の午後でした。美しいにつけ、楽しいにつけ、飲めや騒ぎは日本のつきものですが両側の桜の木の下は華やいだうたげの人びとで埋まっていました。


       

         

               

                     
          
   

              
         
         
        
         
       


   
         


戦争中の暮らしの記録と東北大地震の暮らしの記録との違い

2012-03-22 19:52:36 | 暮らしのジャーナル

原爆と原発 

  ヒロシマに原爆が落ちた1945年8月6日と2011年3月11日の大震災とは私の人生にとって忘れ得ぬ事件でありました。小学校6年生でした。

 戦争の悲惨さと屈辱は、その後数年続いた食糧難と物資不足で子供ながらに鮮明に記憶しています。戦前生まれの生存者が少なくなった現在、戦争経験を知る人が少なくなりました。

 軍国時代で選択がなかった大人たち。個人の意思を言えなかった恥の記録を子供たちに伝えたがらない大人たち。暮らしの手帖96号には普通の人たちの応募原稿、戦争中の暮らしの記録がずっしりと記録されています。

 「ずっしりと重い本を読みあげました。それでもわからないことがあります。全国民が、苦しみのどん底にいながらも、なお一つ信じていたものがあるようなのです。戦争に勝つことでしょうか。仕方ないのでがんばったのでしょうか。人間らしく生きられることを夢見てでしょうか。何不自由ない今の時代に何か欠けていると私は感じているのですが、その何かが96号の中にかくされているように思います」(ページ265投稿原稿「欠けている何かが」)

 かつて司馬遼太郎が“昭和は語りたくない”といったことを思い出さずに居られません。。

  暮らしの手帖96号は戦争中の暮らしの記録であり、後,単行本として出版されています。
1972年第5刷を購入し、ニューヨークに持ち帰りましたが、かけ離れた外国の暮らしのなかで心を入れて読むことはありませんでした。このたび読んで日本中の人たちに読んでほしい本だと思います。

 戦後日本中が豊かになったと信じていた日本は豊かではありませんでした。半世紀近く外国に住んでそう思うことがしばしばでした。それは精神的価値観についてです。

 初めての原爆被害国、そして明確な被害がいまだに不透明な福島原発の事故。ロシアやアメリカでの前例があったにもかかわらず地震国日本で想定外の事故となりました。
 人を,土壌を,空を,海を汚染し、地球破壊が進んでいます。
大きくは日本だけの問題でなく地球上の生きるものたち、すべての生存と絆の問題です。

 普通の大人や子供たちが今福島の経験を語り、テレビ、ビデオ、出版物でも、人間の根本問題、自然を守り平和を築かねばならないことを記録しています。
 
絆、やさしさ、感謝、分かち合いがなど今、残している福島の記録は戦争の暮らしの記録と同様に、とてもとても大切なことだと私たちは今、学んでいます。心の内を率直に語り未来へバトンを渡すために、皆が発言し今を大切に暮らすことを大震災が教えてくれました。

 志や忠誠が命よりも大切であった昔のひとたちの命、1銭5厘(招集令状)で戦場で死んだ命、助けるすべもなく目の前で津波に流されていった命。いづれも命の大切さを改めてかみしめる動機となったショックセラピーでした。

 震災はかつてないほど心の記録を残しています。有名無名にかかわらず、経験した記録には説得力があります。記録を残し、これから何が大切かをみなに伝え、考えて行くようになると思います。

 若い皆さん、暮らしの手帖の“戦争中の暮らしの記録”を読んでいただけましたら、あまり意味のなかった、せつない戦争経験をした親たちの気持が理解できるとおもいます。絆はお互いの理解から深まることでしょう。

二つの時代の違いは戦争時代の不安と、東日本大震災は亡くなった人のためにもベストを尽くそうと立ち上がる希望がみえることです。 

              

 写真)数十年前ワシントンの国立図書館で発見した“原爆ケーキ”で祝った写真です。

分かち合うには苦しい写真ですが、人間には悪魔的感情があり、戦争も原発利用も狂気であることの反省に役立つと思います。

                          

 

 


「谷中の散歩から得るもの」

2012-03-06 22:06:41 | 暮らしのジャーナル

          最後に残された江戸の庶民の街  お寺の”聖語”

散歩の途中で立ち止まる。
あら? アインシュタインの自画自賛?

アインシュタインの頭脳で得たものは、はかり知れなく人類に貢献している。
凡人への教訓ならわかるけれど・・・

「あなたの才能は世界一だ」
「とんでもない!私は生えている草一本もクリエイトできませんからね」
と生前のアインシュタインは答えたという。

 

 私の散歩はジグザグに歩くことが多く、目的なく歩くのが好き。3月6日、久しぶりの暖かさ。
淡いピンク色の梅に鶯が止まっていた。本当に鶯餅の色。美味しい鶯餅も谷中のどこでも
買うことができる。 梅に鶯、鶯餅。 寺町の無料の教訓。 
ああ日本。


「それぞれの国に良いところがある」

2012-02-17 09:08:46 | 暮らしのジャーナル

 伝統の素晴らしさ・伝統のない素晴らしさ

日本に帰ってきて日本の伝統の素晴らしさに心から感動しています。ものつくりの伝統継承は一日でならず、すぐ真似することは出来ません。精神的にも学ぶことがたくさんあります。
しかし、弊害もあります。
これが実に厄介なことが多いと思います。

アメリカで暮らし始めた頃は、伝統のない自由さに感動していました。
移民たちの伝統はひきつがれ、更に新しいアイデアを尊敬し、改良を続けました。そこには誰とでも分かち合たいというアイデアが最も尊重されているのです。

この二つの違いには、実に大きいものがあります。日本ではつまらない伝統にしがみついている人も少なくありません。権威を保持するためにはなんでもする。よく考えるとあまり意味がないものが多いのです。誰のために?なんのために?の疑問がありますが、理由がたくさんあっても大抵はつまらないものです。殆どが自分の存在のために固守しているようです。

世界は大きくて自分対世界を考えてみると、この世に生きていることを真面目に考えられるようにはならないでしょうか。

世界中から震災のメッセージが送られてきています。見知らぬ人からの励ましのメッセージは、あなたが大切なことを知らせられます。良いことは、よいものは、人に知らせ分かち合う義務があるとおもうのです。大小の問題ではありません。

世界中が今ほど面子や権威が意味がないということを考えさせられる時は、かつてなかったように思います

ITのコミュニケイションが撹拌され、美味しいジュースを世界中でシェアすることは出来るようになるかしら。
悲しいことだけれども人間の考え方を変えるには、ながーいながーい月日が必要でしょう。
凡人の点のつながりも文化を作っていきます。自分には何ができるか。日々考え続けている凡人の悩みです

 


「小さいこと:しかし改善は難しくない」

2012-01-22 12:15:10 | 暮らしのジャーナル

「小さくても改善できそうなことは発言していこう」

忙しさにまぎれて近くの文京区コミュニティセンター図書館から借りていた本数冊の返済を忘れていた。すぐ返しに行こうと思い手提げ袋に入れておいたのをまた忘れて催促状を2度受け取った。

恐縮して返済に行き、受付で「申し訳ありません。罰金支払います」というとヴォランティアで働いている年配の紳士が「その必要はありません」といった。「なぜですか?」というと ”そのようなことをしたことはありません。”といった。

ニューヨークでは本の返済期日が遅れても謝る必要ない。1日に付15セント罰金を支払うことになっていて、当然を支払い無駄な支出も手数も掛けない。「サンキュー」で終わる。

,受付のヴォランティアにそれを話し、公共施設は税金で運営されているのでしょうから、2度も督促状ハガキ100円を支払って請求し、罰金がないのはおかしいと話すと私の顔を見て
「素晴らしい話ですねー。おっしゃる通りです。私も区に進言してみましょう」といった。(改善されましたらこの欄でお知らせします。(●^o^●))

また配達されたクリスマスカードが30円不足で郵便事業株式会社から料金30円不足のお知らせが来た。ハガキは50円。何かおかしい。

42丁目5番街の角にあるのニューヨーク図書館は70万冊以上の所蔵本を誇り、ニューヨーカーの誇りにもなっている。運営費は寄付金による。5番街43丁目~6番街~42丁目までのマンハッタンの中心で図書館の裏はニューヨーカーの憩いの場所、ブライアンパークになっている。この一角の地下8階まで本の所蔵庫になっていて、どんな本でも20分以上待たされずに運ばれてくる。地下でリクエストの本を持ち出す人は皆ローラースケートで急行作業である。そこにいるのが幸せを感じる美しい閲覧室のテーブルには各席ごとにコンピューターが設置され、本に関するソフトもすべて入っている。

また図書館に電話するとなんでも即時に答えてくれる知識を誇るオタクがいて殆ど即刻回答が戻って来る。分からない場合は電話番号を残せば返答がくる。日本でもリタイアした知識人はこういううサービスボランティアをやっていただけると、さらに日本人は賢くなるのでないかしら?
パーティで何年だったかしらなどとディスカッションするとすぐ誰かが電話して「何年の何事件だそうだ」と解決する。ニューヨーカーにはなくてはならない恩恵である。

若者はPCのほうが早いよというかもしれない。後期高齢者がいなくなる前に、彼らの知識を利用させていただいた方がよい。認知症防止にもなる。アメリカの保険会社が高齢者の健康維持プログラムを積極的にサポートしているように、日本も空いているビルの空間や、お寺や、スペースなどを利用してコミュニティごとに健康管理プログラムをするとよいと思うのですが、いかがでしょうか。谷中の諏訪神社でも朝6時ラジオ体操の集まりをしているけれど夏は蚊がいるし、寒い時はお寺の広間を解放すとか。
マンハッタンには歩いて行けるところで無料で、体操やヨガなど誰にでも解放されている所がある。

ニューヨーク公立図書館:42丁目5番街正面入り口   写真)ウイキペディアよりコピー


アメニティ: ニューヨーク 対 東京

2012-01-11 13:39:24 | 暮らしのジャーナル

 アメニティとは心地よさ、快適性、生活を楽しくさせる事物(自然環境、社会環境を含む)のことで日本でもアメニティの言葉をよく聞く。伝統的美しいデザイン、匠の世界を競う日本でもこと西洋的になると醜悪なものが多いのは、アメリカ人がガラスケース入り藤娘をすばらしいリビングルームに飾るに等しいのかも。

 としては銀座界隈が歩いていても楽しい。小さい店でも心楽しくなり、街全体が努力している。看版のデザインも面白いし、銀座百点も心意気があり楽しい。高級ということよりも、それぞれの店がプライドを持っているからなのだろう。

 日本に帰ってきて、どうしてこうなるのか、お金の問題でなく心楽しくできないのかと不思議に思うことがある。

まづ、快適性を持つ個性的デザインの駅が少ない。たとえば日暮里駅の西口、自転車置き場と駅の入り口が何時も間違えるほど、心楽しくはならない。西日暮里の駅も同じく、白壁もよごれているし、おでかけの楽しみも、お迎えの楽しみもなく、谷中に住んでいる喜びを感じることがむずかしい。日本に素晴らしいデザイナーが沢山いるのにこれは行政のせいかしら。どこかがおかしい。

 街作りはイタリアの田舎の小さな街並みや広場に学ぶことが出きる。日本だってそこに行きたい街が沢山ある。そこは街のアメニティが快適だからだろう。

 ニューヨークの地下鉄は100年前に作られたもので騒音も凄く、新しくできた日本の地下鉄のほうが新しさでは快適かもしれないけれど心楽しくさせてくれるわけでもない。


写真:ニューヨーク・ブロードウエイ72丁目地下鉄の駅。100年以上たっている。

72丁目の駅の外で無料で頂ける地下鉄の地図をキャンバスに、アート作品を楽しむアーチストたち。「おいくら?」と聞けばにっこり笑って「あなたの好きな値段」と答える。

写真左:14丁目8番街の地下鉄駅入口  右:タイムズスクエアの乗り換え用階段



トム・オッタネス(Tom Otterness)の現代に皮肉をこめたブロンズが乗客に語りかけ楽しい。

写真右:中央駅からタイムズスクエアまでの電車構内の壁画はどの車両も意表をつくデザイン

ニューヨークの車内で居眠りしている人はあまり見ない。魚の国日本でも、大衆浴場でもない。NY
の地下鉄の壁。

ダウンタウン地下鉄のインフォと地下道のタイル絵。広告もなく退屈しないで地上へでれる。
騒音なんかかまわないよ。楽しいんだもの。やりたいことをやる。喜んでくれる人があれば100万ドルさ。(1ドル紙幣が
ポンとはいる。「へい! サンキュー!」  地下鉄のホームで 。
悩んだり文句言う暇のない忙しいニューヨーカーだ。

谷中のお寺の掲示板に「やらないと何も発見しない。やって見て己を知る」 と書いてあったなー。

 


かっこいい江戸のセンス

2011-09-15 18:18:48 | 暮らしのジャーナル

 生き生き・下町の粋・特にイカス日本の男たち

日暮らしの里、日暮里。江戸の下町、谷中に住んで初めての夏祭り。今年は東日本大震災のため祭りも控えめだという。
 ところが驚いたことに住まいの前の六阿弥陀通りを御神輿が練り歩いた。
8月最後の週末、諏訪神社の大祭りだ。



                


 股引、腹掛け、下半纏、その上に出入りの家からいただいた半纏を着るのが職人の正装であったとか。江戸の美意識には決まりの世界があった。
 京都は出来上がりすぎていて,一見者にとっては恐縮な世界でもある。 

 日本の美意識には作られた決まり、こだわりがある。守らなければ野暮となる。
半纏の藍染めの美しいこと!地下足袋に江戸小紋の股引、小さな袋ものまで下げていて顔なんか問題でなく男たちが皆イカス。女たちが用意して、”いっといで!”と送りだされたのだろうか。みな自信に満ちていてカッコいい。京都の様に気張っていない。江戸下町の粋なのだろう。江戸っこにとっては小さいことが大切で粋がらず、”
小粋”でなければならないそうだ。

いずれにしても日本の伝統の美しさにほれぼれしている日々ではある。トマトの投げ合いや牛に追われる祭りや泥んこ祭りより、何と素敵なことか。

 祭りが終わればカッコイイ男たちも、きまりのない普通のおっさんたちにもどる。
寂しい。昔はよかったなあー。しかし、一年に一度でもいい。

胸がすく様な庶民の日本の祭りを楽しんだ。

 

お知らせ:

●子供たちに愛されたアメリカ人形展
手作りから産業化への100年史ー
1830~1930年代
小林恵コレクション

   日時:2011年11月17日(木)~12月6日(火) 11.00~19.00
   場所:ミキモト本店 6階ミキモトホール 入場無料
   

●小林恵の革新的キルトデザイン:日本のキルトの事初め、キルト作りの虎の巻となった「アメリカンパッチワークキルト事典)の著者自ら斬新なキルトデザインのアイデア、発想の仕方を個別に指導します。
10月21日より毎月1度第3金曜日、14.00~16.00
お問合わせ:西武コミュニティカレッジ ℡:03-5949-5483

●小林恵のアメリカン フックド・ラグ作り:キルトと並んでアメリカンフックド・ラグはアメリカの2大クラフトです。キルトより簡単に作れ、個性的なインテリアを楽しめます。
10月7日より3カ月~1月20より3カ月、金曜日(第1・3・)10.30~12.30
お問合わせ:西武コミュニティ カレッジ ℡:03-5949-5483

●小林恵のラグ デイ:毎月1回 自由参加 励みのために集まる会
10月12日(水曜日)、11月16日(水曜日)
お問合わせ:ホームスパン 千代田線代々木公園前 
℡:原恵子:070-6642-6416

●小林恵の帰朝講演:10月23日(日曜日)10.00~10.50am
  「パッチワークキルト:草創期の日本と、アメリカ、そして未来へ」 無料
お問い合わせ:日本ヴォーグ社、本社ビル 03-5261-5489

 

 

 


           
       

        









私と九ちゃん: ”上を向いて歩こう”

2011-07-20 00:31:11 | 暮らしのジャーナル

   夢を持とうひとりぼっちは自己訓練

 私の20代は忙しくてアッという間に終ってしまった。
ベルモードの帽子のデザイナーであった私は若輩のくせに良い仕事を沢山もらい、楽しく張り切って麹町のアトリエに通勤していた。パリから到着する夢のような帽子を手に取れ、かぶってみるだけでも幸せだった。しかし日本はまだ貧しかった。
 当時
ランチは、角パン2枚の間に真っ赤な甘いジャム、又はマーガリンを挟んでくれるサンドイッチで他にチョイスがなく、知らないので誰も文句を言わなかった時代だ。
給料は最低で交通費とサンドイッチで消えてしまったけれど、楽しい日々だった。
 ある日友人が、ニューヨークの5番街にあったアン ディンケンという
帽子屋が竜土町、防衛庁の隣に新しく開店し、「ベルモードからデザイナーを引き抜きたいと言っているけれど貴女どう?」と声をかけてくれた。給料は当時で8万円。ベルモードの30倍近かった。
 アシスタントが二人付いた。夢中で働いたけれども、当時姉の家から通っていた私は、六本木への通勤は新宿で都電に乗り換え、満員電車での通勤は苦痛であった。3回遅刻し「今日で3回目の遅刻だ。もう我慢ならん!グッバイ」とドアからしめだされ首になった。「あのー、私の引き出しの中に私の物が・・・」というとアン ディンケンはドアの外で待つ私の前に引き出しを持ってきて通リにひっくり返し、バチンとドアを閉めた。
 ニューヨークでは驚くことでもない日常の出来事であるけれども、当時の私は初めての
凄い経験で蒼白になった。
 
 「オー可哀そうな恵!」と友人たちは同情してくれ、寄ってたかって御客を連れて来てくれた。大京町にあった
アトリエはいつもお客様や友人たちで満員。満員御礼がずっと30歳になるまで続き、寝る時間もなかったけれども、多くの方々から人生を学ばせて頂いた大切な20代であった。

 いつも人に囲まれていた私は一人になりたい願望が強く、1964年、戦後初めてツーリズムが解禁された4月、半年の休暇を取って13カ国のビザを申請し、世界旅行に出かけた。 当時、ニューヨークは夢のような処だった。何もかも面白く、毎日毎日マンハッタンをアップタウン、ダウンタウン、格子の道を歩きに歩き、3ヵ月がアッという間に過ぎていった。

 ある日、42丁目5番街の図書館の前で日本語の歌声が聞こえてきた。
「上をむうゥいて、あるゥーこうおォう!涙がこぼれェないようおォォに・・・」
背の高い黒人が、本当に反り返り上を向いて日本語でキューちゃんの歌を歌っている。
その黒人が歌う日本語の歌はカルピスを飲む様な思いだった。

 上を向いて歩こうのアメリカ版タイトルはスキヤキといい、大流行していたのだ。ニューヨークの街角で初めて聞く日本語。彼の足元のビールの空き缶には5セントか10セントが投げこまれた。
 当時コーヒーが10セント。ドーナツが5セント。地下鉄は均一にどこまででも15セント。
私の泊っていたレキシントンのYWCAの本部のホテルが一日、7ドル50セントだった。

 869、ナカムラ八大、エイ六輔、九ちゃんのトリオが作った「上を向いて歩こう」の歌は石ころを飛ばしながら歩きたくなる歌だ。「私は今ニューヨークにいる! そうだ。上を向いて歩こう。ひとりぼっちを楽しもう」と。

 そこで47年間もマンハッタンで暮らすとは夢にも思わなかった。ニューヨークから引っ越しの荷物が届いたのは今年の3月11日の2日前だった。
このたびの東日本大震災でまたこの曲が歌われるようになり、繁栄に甘えていた日本人は今やっとこの歌の”一人だけ”の一人ぽっちの意味がわかり、涙をこぼさないで歩いて行ける人々に接し、感慨深くニューヨークを思い出している。いろいろのひとリぼっちがあるだろう。しかし、一人ぼっちがどれだけ人間を育んでくれることか。友人の大切さを学ぶ。開拓時代、相互協力が必要だった時、コミュニティの大切さをアメリカ人は学び助け合いとアイデアを大切にしてきた。アメリカの力強さだ。開拓時代この歌があったならばアメリカ中の大合唱になったかも知れない。今日本は国作りの原点、助け合い精神に皆が目覚めていると思う。涙をこぼさず、上を向いて歩かねばならない。励まし合う良い時に日本に帰ってきたこのチャンスに感謝している。

 私と同じ年の永六輔さんが書いたこの歌。
私がアメリカに行く時、流行っていたもうひとつの歌は ”有楽町で逢いましょう”だった。
時の流れで有楽町の橋はもうないけれど、六輔さんも健在で、心に響く日本の歌があることは嬉しい。 そして今,日本で 「六輔さんよ。ありがとう!」と書いているのも嬉しい。
お風呂の中で”有楽町で逢いましょう”の歌にかえて、フランク永井調に歌っている。

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 思い出す春の日 一人ぼっちの夜

 上を向いて歩こう
 にじんだ星をかぞえて
 思い出す夏の日 一人ぼっちの夜

 幸せは 雲の上に
 幸せは 空の上に

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 思い出す秋の日 一人ぼっちの夜

 悲しみは 星のかげに
 悲しみは 月のかげに

 上を向いて歩こう
 涙がこぼれないように
 泣きながら歩く 一人ぼっちの夜

 一人ぼっちの夜
 一人ぼっちの夜

(永六輔作詞)

 

 

 


谷中は猫の町:ニューヨークは犬の町

2011-06-12 17:41:46 | 暮らしのジャーナル

愛情と責任:糞の始末 東西の違い

 1970年代の初めニューヨークのストリートは犬の糞で水玉模様だった。
ロンドンから訪ねてきた友人の4歳の息子は 「恵ちゃんニューヨークは楽しかったです。
ウンチが道に沢山ありましたね」 と,はがきが来たのでよく覚えている。
 ニューヨークでは市民が文句を言ってもそれを市長選に旗揚げすれば、落選確実と言われた暗黒時代だ。
 そのころはパリもウンチの水玉模様。でもパリではウンチ清掃車が街を廻りストリートの地下道にウンチを流していた。

 私はアパートに来た人には必ず靴を脱いで頂いた。靴を脱ぐ習慣のないアメリカ人は「靴下のほうが汚いんだよ」 とぼやいていたが、靴のまま部屋に入るのは本当に不潔だと思う。
 勿論外国では床の上にかばん以外はあまり置かないのが常識。公衆トイレでもみなトイレの床にかばんを置くので習慣とはいえ不思議なことだ。かばんをあいている家具の上に置くのはマナーに反し、日本人はなぜ洋服やかばんを家具の上に置くのかと何度もきかれた。

 お墓の多い谷中には昔から捨て猫が多く、誰かが食べ物をあたえ、今も太った野良猫が多い。谷中銀座は猫の町。夕焼けだんだんには野良の群れが居て名前が付いている。あまり美人猫はいない。みなおっとりと眠っているが、人を見る目は疑い深い。ウンチはどこかの家の下にもぐってするのか白猫も凄く汚れている。我が家の庭にも、のしのしと歩いて人の顔をうかがいながらトイレット土探しにやってくる。日本で初めて見る製品、30センチ角又は15センチ角のプラスチック製の針のむしろ状のものが売っている。猫が歩けない拷問板だ。すごーい発明だ。又は猫が臭くてとても近寄れない臭いを発散する粉状のものもある。
 谷中の猫にはエイズが流行っていて咬まれないようにと注意された。食べるものはあっても臭いと嫌われ、遊んでもらえず、ウンチしたくても土もなく、あっち行けと言われる可愛いそうな猫たちだ。

 ニューヨークには動物保護協会があり、貰い手を探せるまで動物たちを保護している。「動物の権利」 同盟もあり、お金を出せば人間と同じ高級レストランで、テーブルに犬料理をサーブしてくれるところもある。その記事を読んだ時、デカダントだというとアメリカ人の友人は 「ペットのほうが人間よりずっとフレンドリーで、お行儀もよく、忠実で人格さえある」と言った。

 ある時、猫キチの友人がディナーに招待してくれた。彼は自分のフォークでテーブルの上で猫にたべさせた。驚いた私は日本語で 「お行儀がわるい!皮をはいで三味線屋に売り飛ばしてやる!」 といった。日本語のわからない友人は 「今、恵は最も意地悪いことを言った!」 といったので可笑しかった。 

 




お願いしますではなく、法律です。無視した人はニューヨークでは罰金$1.000! 


谷中の自転車 vs ニューヨークの自転車

2011-06-01 20:35:28 | 暮らしのジャーナル

    自転車は素敵 

 セントラルパークを散歩しているとサイクリングの自転車がスイスイと通りすぎる。
太った人は一人もいないし、この上なくカッコ良い。
スポーツ駄目人間でもやりたいと思つたことはサイクリングとローラースケート。
 スイスイとセントラルパークを一周するといい気持ちだろうなー。「ああうらやましい!」
といつも見とれて見送るだけ。
 40年以上前、友人に言うと「やめたほうがいい。転ぶと骨がバラバラになるわよ」と。
アドバイスをくれた友人は当時、セントラルパークのアイススケート リンクで転び、大けがをし、
2カ月以上動けなかった由。もしも「ぜひおやりなさい」と言ってくれていたら今頃、谷中の
富士見坂を上から家の横まで自転車でペタルを漕がずに、手もハンドルから放したりして滑り下りているかもしれない。残念至極。坂の多い谷中は登りと下り、両方楽しめて凄い地形だ。
 自転車大好き。ニューヨークには各パートを色別に塗装した自転車があり、巡り合うと言わない
けれども ”へーい!カッコいいよーッ”と手を挙げて叫びたくなる。国が変わり、自転車の
バックグラウンドが違うと新しい世界になる。自転車に乗っていたら見逃していたかも知れない。

 
 オランダは自転車の国。行った方はご存じのように国中どこまでも自転車専用道路がある。海より低い
国作りをアフリカから土を購入し海岸線全域に防波堤を作っている。オラン人の考え方は実際的で、政治家ばかりでなく普通のオランダ人が国作りを、国を意識している。
 ニューヨークに訪ねたオランダ人と日本から訪ねてきた友人、台湾人、イギリス人も加わってニューイングランドでのサマーハウスで自転車の話題から徹夜の大デスカッションになり、今は懐かしい思い出となった。

  
      
 
                               
以上谷中の自転車風物 



            

                                以上マンハッタンにて