散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

 「権力」と「金銭」~自爆へ向かう河村・名古屋市長の政治手法~

2013年03月10日 | 地方自治
名古屋市議会のリコール成立・出直し選挙とは何であったのか、これは減税日本代表の河村たかし市長の市政を問うこと裏表の関係にある。選挙(2011/3/1)で28議席(定数75)を得たが、不祥事・不満等で10人が既に離脱した(2013/3/1現在)。

本稿は河村市政を題材に、政治家の「権力欲」を、市民の視点(権力の極小化)から批判した「メルマガ 探検!地方自治体へ第123号 2010/5/3」の再掲載であり、3年前の試論を改めて自ら検証する試みとし、最後に追記した。

1.問題の所在
今日、地域主権が謳われるまで地方自治体の権力は強くなっている。しかし、その権力は団体自治、特に首長に集中している。その権力の発露を抑制し、住民自治の比重を高め、かつ社会の「進歩と安定」を目指すことが「市民」の政治目標と考える。それには判断の質的向上という意味で政治的成熟が必要とされる。

名古屋市での議会と市長との政治的対立は際だってきた。何が「進歩」か?混乱があり、対立の硬直化で見通しが立たない「不安定さ」を抱えている。ここでは、筆者が特に気に掛かけている一つの断面、表題に示す権力(欲)と金銭(欲)について首長及び議会に対する「市民」の視点から整理を試みる。

名古屋市政全般については中日新聞の特集【河村vs市議会】を参照した。特集は昨年10/28付『河村市長「議会解散成立なら辞職」』から始まる。最近、「名古屋の乱」5回シリーズで背景も含めて課題を論じている。地元の政治とは言え、地方自治の重要な事件として報道する姿勢に敬意を表する(2013/3/10現在、ネット閲覧は不能)。

なお、議会改革に関連して、東京財団からの報告「名古屋市会議会報告会に参加して」(大沼瑞穂研究員)がある。政令指定市初の議会主催「報告会」だからである。政令指定市初の“議会基本条例”を制定した我が川崎市議会も遅れをとることなく見習って頂きたい。筆者ら「川崎市議会を語る会」がこの件の請願を出しているにも係わらず、継続審査として棚上げにされている。

2.非対称的な政治闘争
河村市長が代表を務める地域政党「減税日本」が立ち上がった(4/26付)。市会での過半数を目指す。市長主導による市議会のリコール運動を始めた(4/29付)。実質的に議会の支配を目指した市長の権力拡大の政治運動であり、「変革」闘争であって、市長の言葉では(庶民)革命に相当する。

これに対する議会は受身の姿勢「現状維持」である。しかし、片山前鳥取県知事が指摘するように「市民の多くが議会の現状に疑問を抱いている」(3/26付)。従って、「市長の二大公約「市民税10%減税」、「地域委員会」は全面的反対ではない」と強調」(昨年10/9付)すると共に、にわかに議会基本条例を制定し、それに基づき市民への議会報告会を行い、議会改革の姿勢を示している。

基本的構図は市長による新議会への「変革」対現議会の「現状維持から改革」の非対称的な闘争である。これが新議会誕生から市長政策の遂行へ進むのか、現議会の改革から政策の相互修正へ向かうのか、予断はできない。ここに市民の判断が求められている。そこで問題は「何に向けての変革」なのか?その結果は「何をもたらす」のか?である。

3.権力と金銭の交換方程式
ここで新議会への変革とは何を意味するのか?少なくとも河村市長が続く限り批判勢力を極小化し、「市長―議会」が一体となった市政運営を可能にすることであり、二元代表制の実質的否定である。その「核心」は河村市長の権力拡大である。これが“市民による”議会リコールから市会選挙での“市民による”地域政党・減税日本への過半数議席の付与によって達成される。

権力と金銭の交換方程式として、式(1)の成立である。
 『首長の権力欲=市民の金銭欲(市民税10%減税)』・・・(1)
ここで、減税は数値としての対価が存在し、式(2)で表される。
 『市民税10%減税=既得権益削減+市債』・・・(2)

市予算案(1/12付)によれば、市税は前年度比231億円減、市民減税分161億円であるのに対し、市債85億円増加である。既得権益削減分はムダ、職員給与、政策縮小等のいずれにしても市民、職員に対象者が含まれる。市債と減税の取引は将来世代へツケを回す現世代の判断となる。式(2)の等価計算を河村市長が続く限り実行する前提として、式(1)の成立が必要である。

 何かマジック的である。式(2)は具体的数値であるが、式(1)は欲という心理に依存するからである。しかし、そこに政治家が入り込む余地がある。河村氏は議員報酬を「庶民とは別世界の高額」(金銭欲)として批判する。これは多くの市民に共感を呼ぶ。しかし、減税は市民の金銭欲を満たすとは決して言わない。ここが市民と議員を切り離す「変革の論理」の心理的カラクリである。

以下はソ連共産主義に対する批判として1952年に書かれた文章である。
『…たしかに、われわれはブルジョア的な快適の追求と、冨への欲望の危険に対して軽蔑の念を「植えつけ」られているので、もしコミュニストが冨への欲望をもたずに権力に対して欲望をもつようになると、たやすく一見、理想主義とそれを取り違えがちである。おそらく、我々は忌むべき金銭欲でも、禁欲的な権力欲にくらべたら、人類にとって、まだしも恐れるに足りないことを教えこまなければならない。…』
(D・リースマン「全体主義権力の限界」『政治について』所収 みすず書房1968)

河村氏はソ連共産主義のコミュニストではないし、禁欲的な権力欲の持ち主でもない。『おい河村!おみゃぁ いつになったら総理になるんだ』との気概を有する普通の政治家である。従って、コミュニストを単に河村氏に置換えるのは全く不当である。しかし、河村氏の「変革の論理」には上記のコミュニストにミートする部分をどこか内在しているように感じられる。逆に言えば、リースマン氏の権力と人間に対する洞察が余りにも鋭く、深いのであろう。

4.市民の政治的成熟
権力は数値表現できないが、ゼロサムゲームの側面をもち、式(3)になる。
 『首長の権力拡大分=議会の権力縮小分+市民自治の縮小分』・・(3)

減税日本以外の会派は少数であっても批判は継続できる。しかし、議会総体としては河村市政に対してNoを言う立場を実質的に放棄する。結果として二元代表制を封じ込められる。但し、これまでも二元代表制が機能していなかったら…暗に存在していた市長の拡大された権力が明示的になったと理解できる。

更に議会の権力の縮小は市民自治の縮小を本来は意味する。しかし、議会が市民に対してこれまで門戸を閉ざしていたら…市民参加の意味を市民が実感をもって理解できないことになる。結果として式(3)が実は現状に近いのである。

ここに、式(3)を想定できず、式(1)の成立に対するバリヤが低くなる素因が潜んでいる(式(1)『首長の権力欲=市民の金銭欲(市民税10%減税)』)。
一方で河村氏は「地域委員会」により地域行政での住民参加を提案する。これは市議会に対する対抗機関にもなり得るため、議会の権力は更に低下し、市長の下で「議会」と「地域委員会」が競合することもあり得る。

但し、「地域委員会」はあくまで市長の下での行政施策の一環である。住民自治の拡大を単純に意味するわけではない。市議会においても議論されているようだが、住民自治の拡大は先ず住民投票制度の確立にあると考えられる。

市民の政治的成熟を目指す立場からの結論は以上の議論から明らかである。

式(3)『首長の権力拡大分=議会の権力縮小分+市民自治の縮小分』を、
実は明示されていない現実であるとして認識すること。
式(1)『首長の権力欲=市民の金銭欲(市民税10%減税)』を、
逆に言えば、権力者の更なる権力に対する欲望を冷徹に認識し、その欲望を制御することこそが市民の役割であること。それに比べれば金銭は二次的な問題であること。

追記(2013/3/10)
式(3)の「市民自治」だけは今回書き換えた(当時は「市民参加」)。しかし、基本的な視点及び認識は3年後の現在も特に変わっていない。

名古屋市民が「政治的成熟」によって、河村市長の「権力欲」を制御したというよりは、河村市長が自己の権力拡大に走るだけであって、にわか作りの減税日本のなかに、質の低いオポチュニストの不祥事を端緒として、崩壊の道に進んだのが実態であろう。

河村市長に従って議会リコールに動いた市民の人たちは、今、何を考えているのだろうか?事務局長を務めた前磐田市長は、維新の会へと変わり身の早さだけを示した。これらオポチュニストの群れが政治の世界に入り込んだこともまた、河村氏の政治行動における「負の側面」であることも認識の必要がある。

  

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