散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

現代ゲリラ戦の起源、19世紀初頭の半島戦争~イスラム国から遡る

2015年02月05日 | 政治理論
日本ではスペイン独立戦争またはスペイン反乱とも云われるが、ここでは、半島戦争(1801-14年)とする。遡って、ナポレオン戦争の最中、イベリア半島でスペイン、ポルトガル、英国の連合軍と仏帝国軍との間で戦われた。

この戦争は「ハンマーと金敷」の役に擬えられている。すなわち「ハンマー」とはアーサー・ウェルズリーに率いられた4万から8万の軍勢からなる英葡軍であり、それによって金敷であるスペインの軍とゲリラとポルトガルの民兵軍の上でフランス軍が打ちのめされたのである

戦争はイベリア半島の性質に左右された。土地が貧しく、大軍が侵攻しても侵攻先の食料が足りない。痛がって、軍を養うのが難しく、フランス軍はピーク時で3万を数えたが、軍を集結できなかった。小部隊による限定の地域、期間での戦闘となり、決定的な結果を出すのには困難であった。
(以上、ウキ参照)。

この半島戦争でのゲリラ戦を嚆矢として、現代の「戦争と革命」への繋がりを指摘したのは、カール・シュミット「パルチザンの理論」(1963)であり、1962年の2件の講演をまとめたものだ。

ヨーロッパにおいて、フランス革命とナポレオン戦争を契機に、民族主義をエネルギー源にした対立・紛争が沸き上がるようになった。それは従来型の限定された戦争ではなく、民族主義の情動を組織化して行われる対立となり、容易に収束が利かなくなった戦争へと発展した。

ポイントはスペインの背後に英国がいて、「英ースペイン対仏」の構造になっていたことだ。例えば、ベトナム戦争においては「北ベトナムーベトコン対南ベトナムー米国」の構図と類似である。北ベトナムの背後には更に中ソがいた。

シュミットは、その序論で次の様に云う。
「パルチザンの問題について、我々の考察の出発点は、スペイン人民が1808年から1813年までの間において、外国の征服者の軍隊に対して行ったゲリラ戦である。この戦争において、初めて人民はー市民以前の、工業化以前の、在来型の軍隊以前の人民ー近代的な、フランス革命の経験から生まれ、良く組織された、正規の軍隊と衝突した。」

「それによって、戦争の新しい空間が開かれ、戦争追考の新しい概念が開発され、戦争と政治についての新しい理論が発生した。パルチザンは非正規的に戦う。しかし、正規な闘争と非正規な闘争との区別は、正規なものを性格に規定することに依存する。」

そう考えれば、日本の歴史においても、一向一揆に代表される宗教的なるもの、日本武尊対熊襲、八幡太郎義家対蝦夷の対決は敗者のほうにパルチザン的なものが認められる。近代中国における毛沢東の出現も梁山泊の伝統を引き継いでいるとも解釈できる。

即ち、ゲリラ戦的なるものは、混乱期、支配の脆弱地域において、いつ、いかなる状況においても表れうるものなのだ。

シュミットは世界史的視野から「クラウゼビッツからレーニンへ」「レーニンから毛沢東へ」「毛沢東からラウール・サランへ」と展開する。これが現代的形態の継続だからだ。
それは、現代のイスラム原理主義を掲げるゲリラ・テロ勢力に繋がってゆくのだ。世界的人口から見れば、少数であっても、根の深い問題なのだ。

      
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