散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

イメージギャップの中の日本1972年~国際的地位向上の帰結

2014年06月14日 | 永井陽之助
「…よど号ハイジャック事件に明けて、三島由紀夫切腹事件に暮れた1970年という年は、70年代の開幕にふさわしい、不吉な兆候をはらんでいた。…」と、永井陽之助が1971年5月に「柔構造社会と暴力」『あとがき』に書いた少し後、米国大統領・ニクソンによるダブルショックが立て続けに発表された。

第一次が「ニクソン訪中」発表(7/15)であり、第二次が「米国による金・ドル交換停止」発表(8/15)である。そして、日本の繊維輸出規制問題を巡る日米繊維交渉が妥結した(10/15)。これは沖縄返還が決まった佐藤・ニクソン会談(1969/11)における「糸と縄の交換」問題で、その後、日米間の交渉が拗れた経緯がある。

この頃、日本は高度経済成長によって欧米諸国に漸く追いついた、との意識が強くあった時代だ。それでも、米国は圧倒的な経済力で、日本は未だ対応な競争は無理だ、とも考えていたのだろう。

一方、米国の日本イメージは、官民一体の「日本株式会社」だ。安全保障で米国に「ただ乗り」し、関税障壁を設け、輸入制限を掛け、低賃金、ダンピングのアンフェアな条件で米国に挑戦する国とみられた。日本の高度経済成長による地位向上の結果、互いのイメージの違いが急速に膨らんだ時期だ。

インタビュー記事『イメージ・ギャップの中の日本』は、「諸君」(1972/7)に発表された。質問も含めて原形は永井が構成した様に読める。そこで冒頭に掲げた不吉な兆候を示す事件の連鎖と日本論の流行は、高度経済成長による日本の社会変動に共通の根をもっていると指摘する。

それは“ふるさとを喪失”と“国際化の波”だと云う。
「70年代になって日本人は“ふるさとを喪失”しはじめていることに気が付いた。そこから、日本とは何かという問いと共に故郷さがしが始まった…その象徴として国鉄の「ディスカバージャパン」がある。…英語で表現されていることが興味深い…日本社会が無意識のうちに晒されている…「第三の開国」というべき怒濤のような“国際化の波”です」。

「そこで生じたのが日本を巡っての評判と自己像のギャップです。日本人の持つセルフ・イメージ(自己像)とパブリック・イメージ(他者からの像)が全く噛み合わなくなってしまった」

更に国際化と共にもう一つの背景として、
「大衆消費社会の全面化と深く係わる…自分に代わって演ずるシンボリックヒーローを大衆は求める…」「M・モンロー、A・ミングウェイ、三島由紀夫、川端康成…公共財と化した虚像との心中か、虚像による嘱託殺人の感じ…」。

そのイメージギャップに悩む日本は、「日本列島改造論」を掲げ、都市集中から日本全域にわたって社会資本投資を行い、高い成長を持続しようとする田中角栄を佐藤栄作の後釜に選んだ。しかし、それは地価上昇から激しいインフラを招き、土建国家の道を進むことになる。

一方、74年の経済白書のタイトルは「新しい福祉社会の建設」であった。“福祉”の文字が経済白書において使われたのは、これが始めてであった。

      
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