散歩から探検へ~個人・住民・市民

副題を「政治を動かすもの」から「個人・住民・市民」へと変更、地域住民/世界市民として複眼的思考で政治的事象を捉える。

レーニン主義の理解~ロシア革命後100年”を考える前に(3)

2017年06月10日 | 永井陽之助
カンボジアのクメールルージュによる自国内大量虐殺、ベトナムのカンボジア侵攻、中越戦争の一連の事件が起きたとき、佐藤昇との対談「『死か再生か、岐路に立つ社会主義』(「朝日ジャーナル」所収、1979/3/30号)」のなかで、永井陽之助は「…社会主義と共産主義(マルクス・レーニン主義)を区別すべき…マルクスとレーニンとは非常に違うんだ…」と発言している。
 『永井陽之助のマルクス観~レーニンとの違いを強調 2014/12/18』

そこでは、社会主義=マルクス、共産主義=レーニンとして、マルクス・レーニン主義を解体し、死に瀕しているのは共産主義であって、社会主義ではない」とも指摘した。

アジアの共産主義国の連鎖反応から、後の東欧・ソ連の連鎖反応による共産党政権の崩壊を予測したかのようである。それは更に『戦争と革命』(「現代と戦略」所収1985文藝春秋社)において詳しく分析されており、以下に引用する。

レーニンはクラウゼビッツ「戦争論」を徹底的に研究し、抜粋と傍注に下線、感嘆符等を付けて「クラウゼビッツ・ノート」を残した。レイモン・アロンは「戦争論」にレーニンの「ノート」を参考にして哲学的考察を加え、「戦争を考える」(政治広報センター1978、レーニンについてはP74-103参照)を著わした。

レーニン主義とは、国民の同士の対立である近代戦争に基礎を置く戦争の技術と理論を、階級間の闘争の革命理論に転換し、暴力行為の内政化を徹底的に押し進めたものである。

敵と味方を区別することが戦略論の第一歩であり、国民を階級に入替え、戦争の技術を革命の技術に翻訳し、フルタイムの職業軍人ならぬ職業革命家を擁する参謀本部ならぬ前衛政党組織を創り出した。即ち、自然発生的な大衆運動としての革命に替って、事前に計画し、準備、動員、組織する作為的な共同謀議の集団を動かすことになった。

1968年頃の大学紛争だけでなく、爆弾テロ、浅間山荘事件から最近になって何十年ぶりに犯人逮捕へ結びついた街頭闘争などの源はレーニン主義にある。スターリンもまた、レーニンの考え方を極限まで押し詰めたものと見なすことができる。

以下は筆者の感想である。
ロシア革命では1905年革命、1917年2月革命、10月革命へと進む中で、以下の順に、改革派からレーニン派(強圧派)へ主役が入れ替わった。
(1) 貴族を含む自由主義者 (2)メンシュビキ (3)ボルシェビキ
ソ連崩壊後のロシアもまた、似た様に改革派から強圧派へ主役が入れ替わったように思える。
(1) ゴルバショフ (2)エリツイン (3)プーチン
これは歴史の必然性なのか、いたずらなのか?

なお、敵概念については以下に説明がある。この議論での焦点は“絶対の敵”になる。
『在来の敵・現実の敵・絶対の敵~「パルチザンの理論」2011/06/18』

在来の敵
王朝時代の戦争における敵。戦争は、外交目的のゲーム、兵士は傭兵からなる。民族感情、愛国心を欠く兵士にとって、敵は憎悪の対象ではない。一定のルールのもとで行われる決闘に近い。従って、極めて人道的である。

現実の敵
フランス革命によって触発されたナショナリズムを基盤に、人民戦争の形態で芽生え始め、フランス軍に対するスペインのゲリラ戦で明確な形をとった。現実の敵イメージは、激しい憎悪を、戦闘は過酷さを伴った。

絶対の敵
侵略戦争が悪とされ、正義の戦争という観念が登場し、不戦条約などで、戦争の禁止と犯罪化が始まると共に不可避的な敵イメージである。核兵器の出現は目的の道徳的神聖化と敵憎悪のエスカレーションを伴う。核兵器の使用に価する敵は殲滅すべき絶対の敵となる。

      



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