西国三十三所十一番、深雪山准胝堂は2008年8月落雷によって焼失しました。
再建までの間、札所は下醍醐の観音堂に移されていて納経、御朱印は麓で受けられるそうです。
ここからまた少し登ると、薬師堂(国宝)です。
その先に五大堂がありました。正面に小さな隙間があって覗いてみたのですが、暗いことと飾り物のため仏像の台座しか拝見できませんでした。
本尊の五大明王は災難身代わりの霊尊として全国的に信仰されているとのことです。不動明王像を始めとする明王像はなかなか迫力のある姿でした。
このお堂も度々焼失しており、現在の建物は昭和15年に作られたものと案内板に書かれていました。
如意輪堂、慶長11年(1613)建立のもので本尊如意輪観音と共に脇の間に毘沙門天、吉祥天が祀られているそうですが、拝観はできません。
開山堂。慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建されたもので、雄大な桃山時代の特徴をよく表した山上最大のお堂だと説明されています。
この先、ハイキング道は「笠取を経て岩間(西国12番札所)」となっているのですが、それらの地名を調べてこなかったので、その後の帰路が不明。来た道を戻ります。
開山堂の前から短い石段があり、きれいに整備された石鳥居と塚がありました。宮内庁の説明板がたっていて、白河天皇皇后藤原賢子ら、やんごとなき皇室の古いお方の陵墓でした。
開山堂の前にあったベンチで昼食休憩。むせ返るよ言うな青もみじ、秋の紅葉は素晴らしだろうな。
南西方向の見晴らしがよく、この方向に大阪が見えました。その左手には生駒の山々が。テッペンに並ぶアンテナがかろうじて判別できました。
あべのハルカスと思われる建物を、拡大してトリミングして見ました。通天閣や大阪城は、さすがにわかりません。(笑
下りはゆっくりと、二本ストックで膝の筋肉をかばいながら、登りと同じ位の時間をかけて降りました。
近くの食堂で、
小倉アイス、コンデンスミルク掛けをいただきました。おお、醍醐味なり!
再建までの間、札所は下醍醐の観音堂に移されていて納経、御朱印は麓で受けられるそうです。
ここからまた少し登ると、薬師堂(国宝)です。
その先に五大堂がありました。正面に小さな隙間があって覗いてみたのですが、暗いことと飾り物のため仏像の台座しか拝見できませんでした。
本尊の五大明王は災難身代わりの霊尊として全国的に信仰されているとのことです。不動明王像を始めとする明王像はなかなか迫力のある姿でした。
このお堂も度々焼失しており、現在の建物は昭和15年に作られたものと案内板に書かれていました。
如意輪堂、慶長11年(1613)建立のもので本尊如意輪観音と共に脇の間に毘沙門天、吉祥天が祀られているそうですが、拝観はできません。
開山堂。慶長11年(1606)に豊臣秀頼によって再建されたもので、雄大な桃山時代の特徴をよく表した山上最大のお堂だと説明されています。
この先、ハイキング道は「笠取を経て岩間(西国12番札所)」となっているのですが、それらの地名を調べてこなかったので、その後の帰路が不明。来た道を戻ります。
開山堂の前から短い石段があり、きれいに整備された石鳥居と塚がありました。宮内庁の説明板がたっていて、白河天皇皇后藤原賢子ら、やんごとなき皇室の古いお方の陵墓でした。
開山堂の前にあったベンチで昼食休憩。むせ返るよ言うな青もみじ、秋の紅葉は素晴らしだろうな。
南西方向の見晴らしがよく、この方向に大阪が見えました。その左手には生駒の山々が。テッペンに並ぶアンテナがかろうじて判別できました。
あべのハルカスと思われる建物を、拡大してトリミングして見ました。通天閣や大阪城は、さすがにわかりません。(笑
下りはゆっくりと、二本ストックで膝の筋肉をかばいながら、登りと同じ位の時間をかけて降りました。
近くの食堂で、
小倉アイス、コンデンスミルク掛けをいただきました。おお、醍醐味なり!