前日にデリー市内の裁判所の前で爆弾事件があったことと朝から強い雨が降ったので、午前中は豪華ホテルで休養。
午後になってデリー博物館を見学しました。
さすがに大きな博物館です。ここでもカメラ料金を支払えば撮影ができます。
古代文明展示部屋の最初のポスターです。
エジプト、メソポタミア、インダス、中国。・・・ギリシャ、ローマの文明はこれらの後の時代。
当時のインダス・ヴァレー文明の地域は、現代では、パキスタンとインドの両国にまたがります。インダス文明が栄えたのは紀元前2600年から紀元前1800年の間でした。
ハラッパー(現在パキスタン)、モヘンジョダロなどの遺跡には、都市遺跡が発掘されています。当時の都市がインダス河のほとりにあって交易で栄えていた様子を絵画で解説してありました。
インダス式印章が多数出土していて、インダス文字も発見されています。その文字は未解読。統計的分析ができる程度に長文のものや、ロゼッタストーンのような多言語併記のものがないため解読できません。最も、未解読の言語だけで併記されていても手がかりがないですが。
多数の興味深い展示品がありましたが、こんなデザインは現代でも通用しそうです。
スレンダーな人物像。
この穴がたくさん開いた土器はなんのために作られたのでしょうか。
途中の展示物はすべて省略して、仏像の典型例を2つ並べてみます。
仏陀が仏教を創始しそれが流布した初期には、仏像のような人工的な偶像を信仰することがなかったとされています。数百年たってから仏像が作り始められたので、当時の理想的人物の姿を手本として仏像になったと想像されます。
上はマトゥラー博物館で見た西の方に住んでいた目鼻立ちのはっきりした人相です。
ガンダーラ(インドの西部にある洞窟遺跡)に多くみられる様式。
こちらは、鼻が低く丸顔系の仏像です。
日本に現存する飛鳥時代、平城京時代の仏像や仏画は、どのようにして作成されていたか大いに興味がわきました。なにしろ、インドのナーランダ(仏教大学)に中国の三蔵法師らが留学して持ち帰ったのは、教典、いわゆるお経でしょう。中国からインドへの往復は、ヒマラヤを越える大変に交通不便のルートで、天候や盗賊のリスクも大きかった。仏教情報が詰まった教典を優先して持ち帰ったと考えられます。
それでも、日本の古い仏像の顔がインド人に似ているのは、当時の中国の仏像制作者が天竺から来訪していたインド人をモデルにしたのでしょうか。
宗教の神秘性を強調するには、エキゾチックな人物像を恐らく必要としました。
さて、この博物館の仏教的目玉展示です。
金色の装飾容器の中心に置かれたガラスのなかには、仏陀の遺骨(仏舎利)が収容されています。
カピラバストで発見された古いストゥーパの中に骨壺が見つかり、仏舎利であることの古代の文字で文章が記録されていました。その骨壺はケースの前段に展示されています。
この展示物の裏側の壁にはその拡大写真が掲示されています。
京都嵯峨野にある清涼寺の釈迦如来の衣文の源流がここでも見られました。
後に日本では「清涼寺式」と称される衣装の様式です。
ヒンドゥー教の像で多くの手をもっていますので、千手観音の源流でしょうか。
博物館や美術館は、教育のための設備でもあります。外国では、このように展示物の前に座って、先生の説明を聞いたり、スケッチや模倣画を描く学生たちを時々見かけます。日本の博物館や美術館でもそのような教育的行動を柔軟に許可してほしいと感じました。
長々と書いたインド記事は、これで終了といたします。
午後になってデリー博物館を見学しました。
さすがに大きな博物館です。ここでもカメラ料金を支払えば撮影ができます。
古代文明展示部屋の最初のポスターです。
エジプト、メソポタミア、インダス、中国。・・・ギリシャ、ローマの文明はこれらの後の時代。
当時のインダス・ヴァレー文明の地域は、現代では、パキスタンとインドの両国にまたがります。インダス文明が栄えたのは紀元前2600年から紀元前1800年の間でした。
ハラッパー(現在パキスタン)、モヘンジョダロなどの遺跡には、都市遺跡が発掘されています。当時の都市がインダス河のほとりにあって交易で栄えていた様子を絵画で解説してありました。
インダス式印章が多数出土していて、インダス文字も発見されています。その文字は未解読。統計的分析ができる程度に長文のものや、ロゼッタストーンのような多言語併記のものがないため解読できません。最も、未解読の言語だけで併記されていても手がかりがないですが。
多数の興味深い展示品がありましたが、こんなデザインは現代でも通用しそうです。
スレンダーな人物像。
この穴がたくさん開いた土器はなんのために作られたのでしょうか。
途中の展示物はすべて省略して、仏像の典型例を2つ並べてみます。
仏陀が仏教を創始しそれが流布した初期には、仏像のような人工的な偶像を信仰することがなかったとされています。数百年たってから仏像が作り始められたので、当時の理想的人物の姿を手本として仏像になったと想像されます。
上はマトゥラー博物館で見た西の方に住んでいた目鼻立ちのはっきりした人相です。
ガンダーラ(インドの西部にある洞窟遺跡)に多くみられる様式。
こちらは、鼻が低く丸顔系の仏像です。
日本に現存する飛鳥時代、平城京時代の仏像や仏画は、どのようにして作成されていたか大いに興味がわきました。なにしろ、インドのナーランダ(仏教大学)に中国の三蔵法師らが留学して持ち帰ったのは、教典、いわゆるお経でしょう。中国からインドへの往復は、ヒマラヤを越える大変に交通不便のルートで、天候や盗賊のリスクも大きかった。仏教情報が詰まった教典を優先して持ち帰ったと考えられます。
それでも、日本の古い仏像の顔がインド人に似ているのは、当時の中国の仏像制作者が天竺から来訪していたインド人をモデルにしたのでしょうか。
宗教の神秘性を強調するには、エキゾチックな人物像を恐らく必要としました。
さて、この博物館の仏教的目玉展示です。
金色の装飾容器の中心に置かれたガラスのなかには、仏陀の遺骨(仏舎利)が収容されています。
カピラバストで発見された古いストゥーパの中に骨壺が見つかり、仏舎利であることの古代の文字で文章が記録されていました。その骨壺はケースの前段に展示されています。
この展示物の裏側の壁にはその拡大写真が掲示されています。
京都嵯峨野にある清涼寺の釈迦如来の衣文の源流がここでも見られました。
後に日本では「清涼寺式」と称される衣装の様式です。
ヒンドゥー教の像で多くの手をもっていますので、千手観音の源流でしょうか。
博物館や美術館は、教育のための設備でもあります。外国では、このように展示物の前に座って、先生の説明を聞いたり、スケッチや模倣画を描く学生たちを時々見かけます。日本の博物館や美術館でもそのような教育的行動を柔軟に許可してほしいと感じました。
長々と書いたインド記事は、これで終了といたします。