7月23日(木)曇り【毒矢は抜かねばなりません】
『中阿含経』の中に「箭喩経(せんゆきょう)」という経典が入っています。また独立した『仏説箭喩経』もあります。この経典は、摩羅鳩摩羅(まらくまら、マールンキャープッタ)という尊者が、世間は有常(永久に存続する)なのか無常(永久には存続しない)なのか、世間は有辺(限りある)なのか無辺(限りない)なのか、等等について、釈尊に質問したときの釈尊の教えが説かれています。
毒矢に当たった人が、一刻も早く毒矢を抜かなくては死んでしまうにも拘わらず、「まだ矢を抜いてはならぬ、医者の名は、姓は、生まれは、長短は、東方の生まれか、西方か、南方か、北方か、武士階級か、バラモン階級か、庶民階級か、鍛冶工等の階級か、弓は柘植製か、桑製か、槻製か……まだ、まだ、矢を抜いてはならぬ、弓の弦は筋なのか糸なのか、弓の幹は木なのか竹なのか……待て待て、まだまだ、矢を抜いてはならぬ、弓のやじりを作った者はなんという名か、姓は、生まれは…………」等、等と知ろうとしたらどうなるでしょう。
それを知ることができないうちに、毒がまわって死んでしまうでしょう。摩羅鳩摩羅尊者は、その答えを知らなければ、釈尊に従って梵行(仏教の修行)をしません、と釈尊にその答えを迫っているのですが、釈尊は毒矢の喩えをもって、その質問の愚かしいことを諭されるのです。
なぜならば、そんなことを知っても、義にも法にも関係ないし、真の智慧を開かせることでもないし、涅槃(迷いの火が吹き消された寂静の境地)に導くことでもないからです。
釈尊は、説くべき事は説くけれど、説くべきでないことは説かないよ、とおっしゃるのです。わかったかね、と言われて、比丘たちはその旨がよく分かり喜んで修行しました、ということです。
毒のある言葉が刺さった時も、その言葉の詮索をするよりも、その毒矢を抜くことの方が先ということもできるでしょう。一切の詮索不要、釈尊の教えに従えば、いかなる毒矢も毒のまわる前に抜いてしまわなくてはなりません。先ず抜いて、それから解毒につとめましょう。命が終わらない間に。
いずれにしましても、毒矢を刺したまま生きていくことは、自殺行為に等しいと言えましょう。満身矢だらけの弁慶になるか、どんな矢が刺さろうと、じゃんじゃん抜き取っていき、そのうちどんな矢が飛んできても、刺されさえしない不死身の仏教徒になれるかもしれません。
いつまでも毒矢をかかえているのはやめましょう、
*ここに添付したルナの写真が×になって写っていませんでした。どうしてかと思いましたら、この写真につけていたタイトルが「のぞき」でしたのでそのタイトルによって消されていたと思います。コンピューターでチェックされているのですね。
『中阿含経』の中に「箭喩経(せんゆきょう)」という経典が入っています。また独立した『仏説箭喩経』もあります。この経典は、摩羅鳩摩羅(まらくまら、マールンキャープッタ)という尊者が、世間は有常(永久に存続する)なのか無常(永久には存続しない)なのか、世間は有辺(限りある)なのか無辺(限りない)なのか、等等について、釈尊に質問したときの釈尊の教えが説かれています。
毒矢に当たった人が、一刻も早く毒矢を抜かなくては死んでしまうにも拘わらず、「まだ矢を抜いてはならぬ、医者の名は、姓は、生まれは、長短は、東方の生まれか、西方か、南方か、北方か、武士階級か、バラモン階級か、庶民階級か、鍛冶工等の階級か、弓は柘植製か、桑製か、槻製か……まだ、まだ、矢を抜いてはならぬ、弓の弦は筋なのか糸なのか、弓の幹は木なのか竹なのか……待て待て、まだまだ、矢を抜いてはならぬ、弓のやじりを作った者はなんという名か、姓は、生まれは…………」等、等と知ろうとしたらどうなるでしょう。
それを知ることができないうちに、毒がまわって死んでしまうでしょう。摩羅鳩摩羅尊者は、その答えを知らなければ、釈尊に従って梵行(仏教の修行)をしません、と釈尊にその答えを迫っているのですが、釈尊は毒矢の喩えをもって、その質問の愚かしいことを諭されるのです。
なぜならば、そんなことを知っても、義にも法にも関係ないし、真の智慧を開かせることでもないし、涅槃(迷いの火が吹き消された寂静の境地)に導くことでもないからです。
釈尊は、説くべき事は説くけれど、説くべきでないことは説かないよ、とおっしゃるのです。わかったかね、と言われて、比丘たちはその旨がよく分かり喜んで修行しました、ということです。
毒のある言葉が刺さった時も、その言葉の詮索をするよりも、その毒矢を抜くことの方が先ということもできるでしょう。一切の詮索不要、釈尊の教えに従えば、いかなる毒矢も毒のまわる前に抜いてしまわなくてはなりません。先ず抜いて、それから解毒につとめましょう。命が終わらない間に。
いずれにしましても、毒矢を刺したまま生きていくことは、自殺行為に等しいと言えましょう。満身矢だらけの弁慶になるか、どんな矢が刺さろうと、じゃんじゃん抜き取っていき、そのうちどんな矢が飛んできても、刺されさえしない不死身の仏教徒になれるかもしれません。
いつまでも毒矢をかかえているのはやめましょう、
*ここに添付したルナの写真が×になって写っていませんでした。どうしてかと思いましたら、この写真につけていたタイトルが「のぞき」でしたのでそのタイトルによって消されていたと思います。コンピューターでチェックされているのですね。