12月25日(日)晴【仏教色をださないというボランティアについて】
昨日、母の薬を貰いに病院に行きました。そこで、週刊誌を読みました。震災のボランティア活動で宗教色を出さないという記事が気になりました。
いつぞや「中外日報」紙にも同じような記事があり、その時も気になりました。
宗教色を出さないために、作務衣ではなく、Tシャツにズボンというスタイルで敢えて行くようなことが書いてありました。
別に合掌を強いることも、仏教に勧誘することも必要とは思いませんが、なぜ僧侶であることを隠す必要があるのでしょうか。
仏教の「ぶ」の字も言わなくてもよいかもしれませんが、僧侶として作務衣でボランティア活動をして、なにが悪いのでしょうか。
「中外」の記事を読んだ時も、韓国の話を思い出しました。戦争で疲弊した韓国にアメリカ資本がどっと入ってきて、同時にキリスト教が押し寄せました。貧困にあえぐ人々に、キリスト教の牧師さんや神父さんは、宗教色を隠すことなく、布教をしました。今や韓国の仏教信者は、戦前の半分になってしまいました。その真似をしようというのではありませんが、やはり昨日読んだ週刊誌でも、キリスト教の牧師さんは宗教色を隠さないと、たしか書いてありました。
今回の震災で、別にボランティアに行って、布教はしなくてもよいでしょうが、僧侶の姿に自然に人々が感じる何かがあるのではないでしょうか。僧侶がTシャツを着て、身分を隠す必要は私はないと思います。
ご意見があればお教えくださいませ。
あ、今日はクリスマスですね。イエス様がお生まれになった日です。クリスマスは浸透していますが、お花祭りはあまり浸透していませんね。クリスマスプレゼントという商売と連携したことが、強い影響でしょうが、お花祭りプレゼントはありませんからね。
キリスト教でも仏教でもいいですから、人々の安らぎと平和に役立てれば、この上ない有り難いことですが。
作業の内容にもよるでしょうが、私は、作業をするときにはほとんど作務衣は着ません。
実際、私が普段作業をするときは「ツナギ」です。真夏でも体の保護のため長袖を着ます。真夏の屋内作業であれば、Tシャツを着ることもあります。
土木作業のような場合に作務衣を着てくる人がいたら、持っているのであれば作務衣以外に着替えてくるよう促すかもしれません。
私も作務衣の上着を着ていると仕事をしづらいことがあります。
仕事が終わったら、作務衣の上を着るというのもよいかもしれません。
しかし、キリスト教の方々は、神に祈りましょう、と勧めますが、仏教の方々は、遠慮深いという感じがありますね。
キリストとかその他の排他的なものは、性質が悪いですね。そうであれば、そのいう仲間だけで暮らしなさいと言いたくなります。
その点、遠慮深いですし押しつけがましくないのが良いですね。
ただ、日本人の僧侶は、一見して僧侶とは分からない場合がありますが、韓国の僧侶は一見して、すぐに僧侶と分かります。
ここに私は、日本の仏教の姿を見ます。