12月13日(火)雨【齢をとるということ】
信じられませんが、自分もかなり齢を重ねたと実感したのは、「喜寿」だわ、と誕生日に分かったことです。この言葉の響きが、私に齢を実感させてくれました。いつの間にか、齢を経ました。
時々、朝のひと時に喜多郎さんのテープを聴きます。若かったころ、「シルクロード」の番組を楽しみに見ていたことを思い出します。彼とは、一度だけ共通の友人と私の三人で、語りあかしたことがありました。
「シルクロード」の影響でもありませんが、その以後中国にも数回5,6回旅行をしたことがあります。その時々を思い出しましたが、まだあまり解放されていない頃の中国に、香港側から列車に乗って、万里の長城やら、揚子江の船旅やらヨーロッパの友人たちと旅行したことが思い出されましたし、本師とともに漓江を船で観光したことやら、慧可大和尚が住んだという泥でできたような小屋まで行ったことやら思い出されます。
新宿の歌舞伎町界隈を遊び歩いたことも思い出されます。元気でしたね。いろいろなことが詰まって、今がありますが、さあ、これから後どのくらい地上生活があるかわかりませんが、本師の口癖は「余命なんてないぞ。余った命、なんておかしい」ということでしたが、勿論私も余命とは思っていませんし、これからもやりたいことをやり、やるべきことをつとめて活きましょう。
今日は、あの世に帰った檀家さんのために、引導法語をこれから作らせてもらいます。ご葬儀における引導を渡すための法語は大事です。このようなことも、実感としてわかってきて、齢をとることはなかなかだと思っています。
ご訪問の皆様で、特に齢をちょっととっている方々は、ご自分の人生を振り返ってみて、いかがお思いですか。そしてこれからもあの世に飛躍するまで、お互いにじっくりと生きていきましょう。風邪にはご注意。
傘寿まで活きていたら、またお花をくださいませ。