mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

自己の実存を自己承認する

2024-01-21 09:47:14 | 日記
 東洋経済オンラインに《「大型哺乳類の絶滅」が農耕社会への移行を促した》という熊谷元宏の論稿が紹介されていた。狩猟採集時代から農耕社会への転換がなぜ起こったかを考察したもの。考えてみると、旧石器から新石器へと時代が移ることを当然のこととして歴史を見てきたのは、近代的な時代変遷を見る目であって、どうしてそうなったのかを考えるのは、ヒトの習性をみる考察者(の時代)の無意識を意識化する作業だと思った。
「ホモ・サピエンス誕生から現在に至るまで、95%もの時間を農耕に頼らず生きてきた」人類がなぜ農耕を始めたかと、熊谷はその入口の問いを立てる。狩猟採集に比して農耕ははるかに過酷な知恵と集団的力と労力を必要とする。
 土をつくることひとつをとっても、土質、栄養素、保水力などの経験的知識の蓄積が必要だ。さらに種を植え、それが実るまでの、植物に関する知恵が欠かせない。それに加えて気候・気象の有為転変に対応して収穫を安定させるまでの経験も、失敗を重ねて継承していかねばならない。ただ単に種を植えて収穫するまでの、1年という周期を我慢するというだけでない時間差を待たなければならない。それが、狩猟採集のどちらかというと速戦即決のような短期的因果を超えるほどに必要とさせたのは、なぜだったのか。そういう自問をするところから、熊谷がスタートしている。
 余程のワケがあったに違いないという考察の結果が、何とも単純な大型哺乳類の絶滅であったという。拍子抜けするほどの結論である。さもあらんとワタシは感じてもいる。
 この時代、一万二千年ほど前の大型哺乳類って、何だ? マンモスか?
 生成AI・Bingに訊ねると、そのほかにナウマン象、サーベルタイガー、メガテリウム(ナマケモノの仲間)。そのほかに、オオツノシカ、オオカミ、バイソン、ヒョウなど、今も生き残っているものがあがっています。そのほかに、ギガントピテクス・ブラッキーという3メートルを超える類人猿がいて、絶滅したとありました。偏食と気候変動に適応できなかったため絶滅したとありましたが、さてこれが、ホモサピエンスの狩猟の対象になったものかどうかは、記されていません。うむ。
 熊谷は世界地図に狩猟採集が行われていた地域と農耕が始まった地域を色分けて落とし、狩猟採集地区とその端境にある農耕初源地区とに相関があることを手がかりにして、結論へと接近する。こういう大きな絵柄を問題にするときにワタシは、何がどう絶滅したかと子細に入り込むよりは、大雑把に狩猟採集の対象が激減し、食うに困るようになって農耕の方へ傾いたというので納得する感性を持っている。だが、研究者熊谷は、大型哺乳類の生物学的な脆弱性(性的成熟の期間、妊娠期間の長さ、子育て期間が長いこと)に踏み込む。ただ単にホモサピエンスによる乱獲による狩猟資源の喪失へ飛ばない。

《考古学および民族学的証拠からは、初期農耕民はそれ以前の狩猟採集民よりも労働時間が長く、食料消費量も多くなかったとわかっている。農業が狩猟採集よりも優れた生産方法だと考えるどんな理論も、この事実を説明することは難しい》

 そう回り道をして、狩猟採集が行き詰まり農耕へ転換せざるを得なかったと、もっとも単純な動機を導き出す。そのために、過去数万年の気候変動データを読み込み、大型哺乳類の絶滅と農業の発生に関するパネルデータを構築した、と。ここへ来ると門前の小僧は、そうか、何か大変な操作をして科学的・統計的に理路を開鑿しているのだなと、門内のことはワカラナイままにして、腑に落としてしまっている。
 農耕の起源が、ホモサピエンスの増殖をもたらし、余剰生産物が貧富の差を生み出し、階級や文化を次々と創り出す道を拓いたと、現代につながる物語をスタートさせてきた。だが、あらためてこうやって始原を指摘されてみると、「単純な結論」とワタシが理解しているのは、わが身の裡側にそれを受け容れる感受ベースがあったからではないか。そのベースとは、実はすでにその過程を何万年かかけて通り抜けてきた我が祖先の体験が、人類史的蓄積として我が身に刻まれているからではないか、そう思えてくる。
 その感受する感性も感覚も、それをセカイとして感知するセンサーも、さらにそれを人類史の一つの理路として認識するアタマも、すべてがあるがままにワタシであると受け止めている。これは、自己の実存を自己承認することに外ならない。

共感と思いやり

2024-01-20 09:45:10 | 日記
 送られて来たメールマガジン(note.com)の記事《「共感」は疲弊するが、「思いやり」は健やかで優しい、という研究》が目に止まった。Adam Grant がNY Times に寄稿した論考を篠田真貴子さんという方が紹介しています。
 何でも脳科学だか心理学の研究で、「共感」しているときの脳は(パレスティナガザ地区の人や能登大地震の)被災者同様に痛みを感じる反応を示すが、それに対して何もできないと(感じると)、「痛み」を避けるために被災事実から目を背け無関心になる(防御をする)という。それに対して「思いやり」(相手の感情に気づいて慰めることに集中する)を以て応対すると、「共感の時とは異なり、社会的つながりや親しみを感じる神経ネットワークを活性化させた」というものです。
 あ、そうか、と思いました。「共感」というのは、我が身を被災者と同列において感じることだが、「思いやり」というのは被災者との位置関係では、慰める側、つまり優位に立つことです。昨日取り上げた介護民俗学の「聞き書き」をしている六車由実さんの場合、お年寄りの話を聞いているうちに涙を流し、語り部が「あんたが泣くことではないよ」と聞き手を慰めるというのは、明らかに篠田真貴子さんの紹介するケースとは、優位ー劣位の関係が逆転しています。
 つまり、ガザ地区の被災者に「共感」するとAdam Grantが紹介している実験の主体は、そこから遙かに離れた地にいて、メディアを通じて被災状況を知り「共感」している。ところが六車は直に対面して話を聞き書きしつつ「響震」して涙している。ここで「共感」と言わないで「響震」と用いたのは、六車の共感はすぐその場において(過酷な人生の)語り部に伝わり、語り部に慰められるという関係に身を置いている。実験の主体の共感は、、その人の内部で自己完結している。だからその後の身体反応として「被災事実から目を背け無関心になる」。
「思いやり」を以て接すれば、「被災事実から目を背け無関心になる」ことがないというのは、過酷な人生の当事者と直に対面していないとか被災の現場に身を置かないでいる人のメンタリティを気遣っているのではないか。篠田真貴子さんの紹介記事では、「共感」より「思いやり」が、過酷な事態や災難を目にしたときのベターな反応のように取り上げられているが、はたしてそうか。
 もう一段話を進めて、被災者に対して自分が無力であるという立ち位置を、ただ感じているだけでなく意識することへ持ち込めば、「被災事実から目を背け無関心になる」ことのもう一歩先へ、心裡を向かわせることができるのではないか。そう思われる。
 紹介記事は、実はまだ続いて、スーザン・シルクという心理学者がLA Times に寄稿したものも、紹介している。
  *
 ダーツの的のような同心円をイメージする。
①中心には直接被害にあった(被災した)人たちが位置する
②すぐ外には、被災者の家族や親しい人たち
③その外側は、そこの地域社会
④さらにその外側は、直接影響はないがゆかりやつながりがある人たち
 自分が同心円のどこに位置するかを確認する。で、自分のすぐ外側にいる人に支えてもらいながら、すぐ内側にいる人に思いやりを寄せる。
   *
 う~ん、そうかな? とまたしても私の疑念が起ち上がる。
 上記のダーツの同心円には、⑤ゆかりも繋がりもない人たち、が欠けている。ゆかりも繋がりもない人なんていないと、スーザン・シルクという心理学者は考えているのだろうか。あるいは、そういう人は「共感」も「思いやり」ももたないとしているのだろうか。
 今世界で起こっている様々なデキゴトがメディアを通じて時々刻々ワタシに飛び込んでくる。その大半のことはワタシの耳目を右から左へ、かすりもしないで通過していく。ところが、画像撮影がどこでもいつでも大衆的にできるようになったものだから、どこかの国の街頭で起こった(当事者にとっては)悲惨なデキゴトが(考える間のあらばこそ)目に飛び込んできて、脳髄を直撃する。そして笑ってしまうのだ。いや、痛かったろうと感じる。笑うのは他人事だからだというよりも、縁のない世界のコト、別世界のことだからだ。
 トランプやプーチン、ネタニヤフに「共感」とか「思いやり」を持ってという言葉を掛けるかい?
 今やこの人たちとその支持者が大手を振って世界を席捲している。それを支える沢山の人々がいてこそのこととも思う。
 金正恩が能登半島地震の被災に際して岸田首相にお見舞いの言葉を送ったと報道があった。これは、言わば「思いやり」のカタチなのだろうが、報道ではリテラシーを発揮して、日米間の分断を図ろうとしていると解釈していた。それの視聴者であるワタシは、へえ、北朝鮮からお見舞いをもらっちゃた、これ、今後言葉を交わしたいって合図なのかなと、受け止めていた。細かいことだが、能登大地震に際して津波警報を出したのに竹島が含まれているのはケシカラン、日本政府に抗議しろと騒いでいる韓国の反日勢力よりも、はるかに真っ当な北朝鮮の応対だと思った。
 いや話が逸れそうだ。要は、世界の大半の人たちは、明らかに次元を異にして暮らしている。⑤の人たちに向かって言葉を紡ぐときには、「(自分は世界に対して)無力である」ということ、世界の暴虐非道なことに対して、どういう当事者性を持っているか問うことが、必要ではないか。①~④までの、心ある人たちだけに「共感」ではなく「思いやり」をと説くのでは、結局傍観者でしかないことを覆い隠してしまうと思えてならない。
 篠田真貴子さんの記事は「Adam が古い友人からもらったメール」のこんな言葉で締めくくっていました。
   *
「本当に言いたいことは、大きなハグを送りたいってことだけ。そして、私があなたとあなたの家族のことをとても愛していることを思い出してほしい。」「もし話し相手が必要なら、いつでも全力で支えるわ」
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 縁ある衆生しか、縁がないってことなのね。

「驚き」とは?

2024-01-19 13:10:10 | 日記
 六車由実『驚きの介護民俗学』(医学書院、2012年)を読み返した。最初に本書を読んだのは、2013年、11年前。ちょうど70歳になった36会の人たちの間で、「介護」や「老人ホーム」に関心が集まっていた頃であった。
 老人から「聞き書き」をしていた民俗学研究者の六車由実が、大学に残って研究する道を選ばず、介護施設に勤めて、そこでお年寄りから「聞き書き」をするという道を選んで行っている実践報告である。
 どうして読み返すことになったのか。実は昨年の秋に六車由実の新著が出版されたと知って図書館に予約したところ、著書リストに本書が載っていて手に取ったという単純な行きがかり。まだ新著は届いていない。
 2013年に読んだことは同年の4月と5月、3回に亘って取り上げている。

(1)2013/4/13 「生意気なこと言うんじゃないよ」とお思いでしょうが。
 フィールドワークが学問世界に快く受け容れられないことをとりあげ、一体学問は私たち庶民の生活現場の実践的な問題とどうつながっているかを考える途上で、本書を取り上げている。真木悠介とカルロス・カスタネダとパット・ムーア『私は三年間老人だった――明日の自分のためにできること』朝日出版社、2005年)と並べて六車由実に触れている。後の三者は暮らしの現場に密着して、人と社会の在り様について言及している人たち。真木祐介は、社会学者・見田宗介のペンネーム。見田宗介は社会学の大家だが、かつてフィールドワークで文化人類学を研究していた中沢新一を学問的方法に相応しくないと東大の教師に採用することに反対しマスメディアでも話題になった人物。その見田が、ペンネームではカルロス・カスタネダの言説を好意的に紹介し踏み台にして人間の感性と思索とのメカニズムに迫ろうとしている。それはなぜなのかと私は疑問を呈している。
 結論的にはこう記している。
   *
 学問の方法というよりも、この方法をつうじて六車が到達した感懐、《「介護現場は民俗学にとってどのような意味を持つのか?」、そして「民俗学は介護の現場で何ができるのか?」という二つの方向性から問題提起をしてみようと》いう問題意識は、現在を生きているものにとって学問とは何かに迫る、ひとつのみごとな結晶であると思う。ひょっとしたら、〈コミューン論を問題意識とし、文化人類学・民俗学を素材とする、比較社会学〉という真木悠介の問題意識よりも、リアリティのあることだと言える
   *
 今回読み返して気づいたことがあった。「介護」の手法にある「回想法」と「介護民俗学」にいう「聞き書き」との差異に触れて、六車は基本スタンスに違いがあると指摘する。いずれも被介護者の辿ってきた人生を介護者が聞き取っていくのだが、六車が話を聞きながらノートに「聞き書き」をするのに対して回想法はメモを取ってはいけないという。六車は聞き書きを整理して被介護者の「思い出の記」として冊子に纏め御本人に手渡す。それを「介護」ではプライバシーを懸念し、メモを取ることが語り手に「調査対象」と思わせてしまうことを心配して工夫されたという。六車はそれを、被介護者と介護者の「優位―劣位」の権力関係が背後にあることを取り出し、むしろ民俗学の「聞き書き」は「語り部と聞き手」、「教える者ー教わる者」という権力関係の逆転が生じていると指摘する。
 それと同時に、「思い出の記」という冊子が語り部の人生を纏めたものとして悦ばれ、その家族も、これほどの人生を生きてきたとは思わなかった、これまで戦争体験を聞かないでもなかったが、ここまで真剣に聞いたことはなかったと述懐して、家族の間にも好評であったと記している。これは、よくわかる。二つのことが言えようか。
 ひとつは、「介護」という社会事業が、介護施設において、介護を必要とする人と介護をする人という権力関係を生み出すのは、機能的な関係が固定されているからである。介護民俗学の「聞き書き」は、その瞬間を切り裂いて、権力関係の一時の逆転を浮き出させる。それはまた次の瞬間には、被介護者と介護者という権力関係に戻るのではあるが、この一瞬の逆転が被介護者の(ことに認知症とされている人の)あるがままの人生を減少させる。
 ふたつは、どなたも「私の世界」を生きてきている。だがそれを知ろうとする機会も、聞き取る機会も今の社会は持っていない。ところが六車の「聞き書き」は長時間にわたる聞き取りを「思い出の記」に纏め冊子にする。「私の世界」が対象化される。しかも記録にとどめられ、ほかの方々にも読んでもらえる。これは、プライバシーの権利意識などに阻まれて、人と人との関係は断片化され、小さな趣味嗜好の欠片ばかりで向き合っている空疎感を凌駕するまるごとの承認に通じる。人が生きるには、これこそが欠かせない。それを介護施設が取り戻す扉が、介護民俗学の聞き書きにある。

(2)2013/5/3  ケセラセラと逝きたいもの
《「わたしの世界」の大切さが、どう哲学的にわが身の始末を考えることにつながるのか》と私が自問し、《六車のこの本は、認知症の高齢者がじつは「わたしの世界」をもっていて、認知症という事態の中でなお、その「わたしの世界」を生き続けていると、記している》のを梃子に、では、誰もが持っている「わたしの世界」を人々はどう生きているのかと問い、その人の自律の根拠は何かを考えるケースとして六車由実の「聞き書き」を取り上げている。
 これは、上記末尾の「ふたつは」に記したことと重なる。
 たいていの「私の世界」は、ふだん、身の無意識に染みこんでいる。問われることによって、奥深くに沈んでいた記憶がぷかりぷかりと浮かび上がる。だが、当の語り部は思い出すままに、脈絡なく口にする。介護現場の事情もあって、中断することもおこる。と、話は振り出しに戻るように繰り返される。それらの断片をつなぎ合わせるには、脈絡を聞き手がイメージしていなくてはならない。と同時に、聞き手が話を誘導するのではないように、細々とした断片を糸口に語りを引き出さねばならない。六車は「驚き」がその糸口になっているという。彼女の胸中に湧き起こる驚きが次の問いを引きだし、語り部の言葉を紡ぐ。さらにそれを「思い出の記」に纏めるには、聞き手の(時代に関する)物語りがなくてはならない。
 しかしこの「驚き」を封印しなければ介護の仕事ができないことも記している。「思い出の記」が被介護者の変化を引きだしていることが現場で評価され、彼女は特別に「聞き書き」タイムに携わる時間を得ている。だが、それも適わないときが介護作業として生じてくるとき、「驚き」を封印しないと彼女の身が調えられないことを隠さない。これは、「私の世界」がそれとして受け止められるには、聞き手にもそれ相応の好奇心を持って聞く用意がなくてはならないことを示している。今の時代は、そういう関わりを無駄、無用、余計なこととして排除することを良しとしている、とも言える。
 あるいはこうも言えようか。「私の世界」の語り部の人生を職業的に受け止めるのはカウンセラーとか精神分析医と言われるが、そういう職業的な人たちは「患者ー治療者」という権力関係を崩すことはない。結局、その権力関係の軸に沿った断片を引きだして「処方」するのだが、それは「私の世界」のまるごとの承認という遣り取りとはまったく異なる次元の療法と言わねばならない。介護や治療そのものを根柢から見直す必要を問題提起しているように感じる。まるごとの承認には、向き合う人のやはり全身を傾けた「驚き」や好奇心が欠かせないのだ。しかも六車の記述には話を聞きながら涙してしまうことが記載されている。「あんた泣き虫やな」と語り部に慰められたりしているのを読むと、読んでいる私までほろりとしてしまう。共感性と言うより、語り部の過酷な人生に六車の身が響震している趣がある。その、個別の語りに心震わせる波動があってこそ、語り部のあるがままが承認されている実感が生まれるのかも知れない。そういう関係が、現代社会では稀有となってしまっているのだろう。
 もう一件、2013/5/29の記事「第2回 aAg Seminar報告3 高齢者介護をみる視線の変化」があるが、今日はそこまで言及する時間がない。とりあえず、それがあることだけ紹介・残念ながら当時のブログサイトが今は閉鎖され、現在のところに移ってきたから、閲覧できない。でもまあ、上記したことと同工異曲と思ってもらっていいかな。
 今日は以上です。

「ビヨンド・ユートピア 脱北」

2024-01-18 08:59:10 | 日記
 誘われて表記の映画を見に行った。ドキュメンタリーである。再現映像などを挟んでいないと断りも入れている。ここで感想を書くにも、一部ネタバレになるが、致し方ない。御容赦ください。
 二組の脱北ケースを映像にしている。一つはすでに脱北して韓国にいる母親が息子を脱北させようとするケース、もう一つは、脱北して中国へ入ったものの、そこで捕まっては北朝鮮へ送り返されるから大陸中国を縦断して北朝鮮との友好国でない国へ抜け出ないと脱北にならない。懸命の逃避行が続く。
 ドキュメンタリーの構成は北朝鮮脱出を手助けする牧師と仲介業者に密着して、SOS発信地から脱北先の国へ至る行程をにカメラが付き添う。どなたかが「ミステリーではなくドキュメンタリーだ」と感想を漏らしていたが、まさしくドラマチックに展開する。その公式サイトにも「2023年サンダンス映画祭にて開催直前までシークレット作品として詳細を伏せられてきた」と紹介される。
 それと同時に、隠し撮りされた北朝鮮の人々の映像が重ねられる。あるいは、すでに脱北した人の思い、北朝鮮に暮らす人々が自らの境遇をどう思っているかの感懐、脱北途中の人たちの胸中の変化が映し出されていて、北朝鮮という国がどういう「くに」であるかを如実に示している。
 これがもしパッチワークであるならば、この国の人々は「反北宣伝」のフェイクと誹るであろう。その画像がありのままを映しているとすれば、ここが「楽園/ユートピア」どころか、国ごと収容施設化して、それはそこに住む人々の精神性もまるごと蝕んで食い潰しているといえる。
 まるで、破綻寸前の動物園のようだと思った。その地で生まれ育った人は外の世界はもっと厳しくすぐに取り殺されてしまうような過酷な定めに身を置いているという物語の刷り込みを信じている。翻って自らは、慈愛に溢れる自国の金正恩総領が何に付け采配を揮ってくださっている、でも事態が上手く行かないのは私たち国民の努力が至らぬからだ、とまで。
 天皇制国家日本の再現をみているようであった。胸に突き刺さる。どこにそう感じるのか。
(1)情報を含めて、北朝鮮はピッタリ国家が閉ざされている。戦前日本の国際交流はもっと幅広く、そもそも欧米を模倣して国づくりをしてきた。情報は法的取り締まりと社会的規範の枷によって統制されていたから、外界を知らなかった訳ではない。ここが決定的に違うが、統治者の精神性は同じように感じられる。外界はもっとひどいと思い込んでいる北朝鮮の人々のそれとはずいぶんと違う。でも「島国」と言われた列島の境界を破るのは知識人とメディアの介在を経なければならなかった。天皇制に収斂される政治経済文化国家の、インフラを基本的にお上(国とメディアと知識人)に依存する暮らしの拠り所は、自発的精神性をそれらしく依存させ、自己への内省を(修身斉家治国平天下への一体化として)迫るもののようだ。
(2)朝鮮戦争後70年を経た隔離世界で、統治者は暮らしのすべて、人の生き方の心までをも蔽うものがたりを仕上げて、ほぼ完璧な支配(ルール)体制、檻を完成させた。庶民は慈愛溢れる統治者に感謝を献げつつ、それを阻害する外圧に抗する国家体制を支持する裏返しとして貧窮に耐え、なおかつ、自分たちの至らなさを自己に問い詰める。自分の知らない驚くような外からの情報に接しても、それをフェイクではないかと自問する精神性を自律的に培っている。
(3)でもいくら物語を創りあげ、繕っていても、経済的な貧窮の行き詰まりは街路の死者を目の当たりにさせる。苦役とも言えるような原始的労働に耐えねばならない。人ってそういう生き物なのよと思えば、人類史はそういう段階を辿ってきたから、無意識はそれを肯う。だが外界の豊かさを目にするとどちらがフィクションかは一目瞭然。その瞬間に国家への幻想は立ち消え、脱北以外の方途がないことに気づく。故郷を捨てることになる。
(4)脱北の失敗は死を意味する。自分だけではない。家族ともども、近縁のものを含めて死の危険にさらされる。行き着く処、ここに於いて、脱北か死かの選択を迫られる。それも家族ぐるみで脱北するしかなくなる。一人脱北した母親が息子も脱北させようとする。応じた息子は中国で捕らわれ北朝鮮に送還されるが、自らは脱北したかったのではなく母親を連れ戻したかった、母親と一緒に暮らしたかったと証言していると聞かされる。息子を育ててきた祖母は(息子を連れ出そうとした)母親が悪いと口を極めて誹る。この祖母と母親とのやりとりを見ると、国家の犯罪というのは、国境を囲って、人々の往来を止めていることだはっきりする。昔日の入会地(common land)が懐かしく思い起こされる。明々白々なのは、「人権」の国民国家を超える理念としての優位性である。貧窮動物園の経営者は、いかに慈愛溢れて食べものを給しようとも、檻を解き放たない限り犯罪者である。北朝鮮でなくとも、国民国家の国境をもっている私たちは、動物園の檻の延長上に暮らしている。ただ、そこの扉を開ける権利を有しているかどうかの違いだ。扉を開けて外へ出たからといって、そこが生きるに心地よい土地かどうかはワカラナイが。
(5)心地よいと感じるには、ヒトが生きてきた人類史の中で身に刻んだ「ふるさと」のヒト・コト・シゼン(との関係の無意識)という皮膚を血肉から剥がすように取り払わなければならない。これが、この映画の中でも浮き彫りになる。すでに脱北した人が北朝鮮に暮らす人の実態を耳にすると辛い、むしろ知らないままの方がいいというのは、「ふるさと」を離れたときの剥がされた皮膚の痛みのように切々と響いた。
(6)話は少し変わるが、この点で、華僑(中華民族)のもっている人間到る処青山ありという生き方の精神の強靱さに、列島住民はとうてい及ばないとつねづね感嘆させられている。ワタシはと言えば、そうやって世界に飛び出していくくらいなら、貧窮に耐えてこの列島に住み続ける方を選ぶかな。そう考えると、ワタシはとうてい「脱北」する道を選べないなあと臍を噛む。ま、八十爺がいまさら何を、と言われることには違いないが。
 こうやって考えていると、「ビヨンド・ユートピア」というタイトルが、とても意味深だ。脱北したところで、国民国家の檻に囲われている。あなたのユートピアはもっと先にあるんじゃないか。そう問う声が聞こえる。それが響き続ける限りあなたは、北朝鮮モンダイの当事者ですよと、監督・編集のマドレーヌ・ギャヴィンは訴えたいのではないか。

一変する雪化粧に悲喜こもごも

2024-01-17 08:43:51 | 日記
 大雪注意報の出ていた関東北部へ、一昨日から昨日まで「ささらほうさら」の合宿に行ってきた。これまでの恒例は伊香保だったのだが、コロナ禍解除後の値上げと人手不足の扱いに少しばかり場を代えようかと奥日光へと車を走らせる。月曜日とあって、東北道はトラックが多い。だが混むというほどではなく、運転手はいろは坂から上の雪道の懸念を口にする。函館の生まれというのに、なぜそんなに心配するのだろう。
 これ、夏タイヤ?
 まさか、ちゃんとスノータイヤにしてますよ。でもね、雪が溶けてたり、圧雪が凍っていたりすると滑るんですよ。
 と、蘊蓄を語る。が、はじめての奥日光。知らない土地を走る不安なのだろうなと推測する。ところが日光道に入っても雪はない。いろは坂の入口でも外気温は4℃。雪はない。凍ってもいない。前後を走る車もない。合流点へ先についた車から電話が入る。
「店、開いてないよ」
 実は前日、月曜日だからお店開いてないかもよとカミサンに言われて、ネットで調べた。駐車場あり、年中無休とあったから、幹事にも問い合わせることはないと放っておいた。近場の店が開いていてそちらに変更した。そうだ、日光の冬は閉店する店が多い。店の方々も避寒のために「下へ降りる」。そもそも人が来ないのだ。だから山の会は、冬になるとここにやってきて泊まりでスノーシューを愉しむ。だがこんなに雪が少なくては、それすらできなくて困るだろうなあと営業方面を慮る。
 中禅寺湖は強い風に波立っていた。かすかな粉雪が風花のように待っている。その向こうの社山や黒檜岳の姿がいつもよりくっきりとみえる。もちろん男体山や女峰山、大真名子や小真名子山は東北道からも見事な山容を誇るようであった。
 車道の路面に雪が積もっていたのは、湯元のビジターセンター傍の三叉路を曲がったところから。すっかり圧雪されているが、凸凹しているほどでもなく走るのに障りはない。こうして宿に着き、会議を始める。合宿なので、第一日目と第二日目の二本の「レポート」。いずれも八十団子の鈴木さんと河上さん。いずれこれについては、触れることがあるかもしれません。
 小降りであった粉雪はいつしか蕭々と降り続いて湯の湖は霞み、ときどき視界を遮るほどになったりして、おつ、これホワイトアウトって言うんだっけと、目を外へ向けた口をついて出る。平地に暮らす埼玉県人は雪が珍しくうれしいのだ。
 二、三人しか入っていない風呂は、ちょうどの湯温が好ましい。露天風呂に入るのは外気の寒さを堪えなければならないが、湯船に入ってしまえば、顔に当たる粉雪も却って湯あたりをしなくて長湯を愉しめる。ぼーっと浸かる。
 翌日朝、積雪量に驚く。あんな粉雪が、こんなに積もるなんてという驚きがある。30センチは越えていようか。そのふかふかとした雪質がうれしい。今週末にスノーシューでここへ訪れるリョウイチさんの奥方はきっと素敵な雪上ハイキングを愉しめるに違いない。私は、伊香保と違い、雪をつけて黙々と佇む巨木を目の前に観ながら朝食を摂る、湯元の宿の醍醐味をやっと味わってもらえたと悦んでいる。
 ところがお昼近くに宿を出て車で出発してからが、大変であった。函館生まれの運転手がおどおどして、道が見えないとしきりにぼやく。背を屈めて少し見通しの利く曇りの取れたフロントガラスの下の方を覗いている。何だ窓のくもりがとれてないじゃないか。
 デフロスターをかけてる?
 かけてるよ。
 もっと強くしなさいよ、送風を。
 と、助手席や後ろの座席から声がかかる。あなたホントに雪国の人? とまでいわれて運転手は気分が腐りかけている。三叉路に差しかかる。
 ここで曲がるんですか?
 と運転手は聞く。そりゃあ曲がるしかないよと道を知ったワタシは呟いているが、どうも運転手は雪のせいで三叉路だと見えないらしい。右の方から車が来て、三叉路とわかったみたいだ。道路の雪と除雪した雪の壁とその向こうの雪景色の端境が見て取れず、おどおどしている。勝手知ったる日光ホームフィールドのワタシは、なにしてるんだと運転初心者かいと、言葉に棘が混じる。
 でもまあ、その頃には強くしたデフロスターのお陰で前が見通せるようになり、運転手も落ち着いてきた。でもスピードは30km/hくらいでのろのろと進む。後ろから車が来ていると、脇へ寄って道を譲る。初めての雪道体験者のようにみえるが、滑るんですよ凍っているとと呟きが漏れる。緊張しているんだとわかるから、声をかけるのをやめる。これがいろは坂を下りきるまで続いた。ふだんの倍以上の時間をかけていた。慎重な人なのだね。
 日光宇都宮道路へ入ると路面の雪はなく、急にスピードを上げて走り出す。東北道ではバンバン追い越して最高速度120km/hを超す速さで合流予定のPAへ辿り着いた。これなら大宮駅に3時、3時半頃に帰宅できると踏んでいたが、加須と久喜の間で事故があったらしく、渋滞。通過するのに1時間以上かかり、運転手はすっかり草臥れていたのではなかろうか。ときどき目覚ましの利くドロップを口にしていたから、心配したが、走り始めるとさすがに函館まで車で帰るほどの熟達者、さかさかと一般道も走って無事に送り届けてもらった。いやはや、お疲れさまでした。