mukan's blog

つれづれなるままに ひぐらしPCにむかいて

存在論的応答を生み出す身体修行

2024-01-12 06:06:23 | 日記
 木鶏の如き存在感を湛えた客演俳優の登場を通じて作家・鈴木正興は、何をとりだそうとしているのか。第三節「一回的瞬間に耀く実存」は、こう展開している。

 私がこの俳優田中泯を知ったのは前記したようにこのドラマの時が初めてであった。いや本来この人は俳優ではなく舞踊家であること、そのことは更にもっと後で知ったものである。私は舞踊についても全く無案内で最近の新聞記事で知った次第だが、それによると田中は1945年生まれと言うから我々と大して変わりがない年齢である。若い頃から現代舞踊家の土方巽(ひじかたたつみ)に私淑して只管(ひたすら)踊りを追求しいまだに矍鑠(かくしゃく)たる現役である。五十代後半に山田洋次監督に請われて映画に出演して以来時々映画やテレビに顔を出すようになったとのこと。道理で初めて見た訳だ。
 近年は歌は勿論ひとりのものが相変わらず多いが、持(も)て映(は)やされているのは数人のグループものや学校一クラス分に近い多人数ものであることは周知の通り、況して踊りは一層その向きが強い。が、田中は十代の修業時代から今日までの六十年余その時その時の流行や傾向に左右されることなく一貫して一人に拘ってきた。なぜなら人は一人として生まれ、他のひとりたる人達と関係を紡ぐひとりとして生き、最期もひとり、という生死の自然過程を践む宿縁が定められているから踊りという表現もそのことを自命(じめい)としなければならないからだ。元来ひとりなる人は他の人達との関係の糸を縒(よ)り結びつつ我が個体史を編んでゆくのだけれど、その過程ではともするとひとり性が生物学的に言う群体の一部として取り込まれ消失されてしまうことがないではない、というより大いにあり得ることである。同質志向の群体社会に抗うには孤立を懼れることなく,寧ろ孤(=個)に拘り、個(=孤)に拠り己が身体を通して人ひとりとして表現するしかあるまいと彼は考え至ったに違いない。群体化しがちなドラマの中で彼が或る種凜とした存在感を放っていたのはさような六十年余の個体の研鑽史があったが故の「自然(じねん)」現象と言えようか。
 田中は最近のインタビュー記事の中でドラマについてこう語っている。「僕にとって、演じることも踊ることもです。その役の人物がどんな人生を歩み、どんな風景を見てきたのかを考え、その人の背中はどうなのかを考える。無数の感覚的イメージを研ぎ澄ませ、細胞ひとつひとつから身体が役になり、その『場』と向き合って表現します。すると歩き方も目線も話し方も、太刀の所作も定まっていきます。セリフや喜怒哀楽は最後です」
 うわあ、そうなのかあ、私が『鬼平犯科帳』での彼に感じた静謐にして強靱な存在感は彼の自ずからに由る身体性と尤もらしい気取りで思っていたが、その読みの浅薄さはどうだ。恥ずかしい。
 身と心を自在に研ぎ澄ませて役を見据え、『場』を正対して見定めていると,ここで初めて自ずからその役柄が生きた個体として見えてくるのか。見るのは容易だが見えてくるまでになるには人間の個が具有する眼耳鼻舌身意の総発動と総集結の如何許りかが前提されるが、記述したように木鶏は端(はな)から木鶏だった訳ではなく鍛えられてそうなった。田中も人から存在感があると称されるも自ずとそうなのではなく、こちらからは不可視の所で前掲したような厳しい前提作業を経て一個の身体を造形した故の存在感であるということだ。田中にとって身体性とはただ単に身体だけではなく個的存在のありようそのものであるようだ。身体の最小単位たる細胞にまで溯ってその活力を全細胞的に糾合し、神経や血液の連関係の律動を通してアタマ、カラダ、ココロにまで敷衍貫通せしめ、個体たるの実存在を賭して他者との『場』に立ち現れる投企体的なものとも言えようか。その証しになる彼の言葉が先程引用したインタビュー記事に記されている。曰く「坂本龍一が生前取り組んだ舞台芸術の『TIME』をアムステルダムの廃墟で初演したとき、客席は静か以上に静かで、観客の感覚はこれから始まることに開かれている。演技が始まると客席の反応は『わあーっ』という風に、すごかった。発信する側は舞台だけれど、観客席からも発信して伝わってくるものがあって、舞台と観客席の『間』に踊りが生まれている、という実感が得られた」と。たぶんその時だけの一回性的な「場」に於ける己と他者との瞬間尺度な存在論的応答がその廃墟空間に現出されたのだろうと私は想像する。田中の実存はその一回的瞬間に耀いていたはずである。

 なんとものすごい切り取り方であろうか。田中泯の語り出す演技論のすさまじさは、私たちの日頃ヒトと対する在り様を、まさしく鋭く批判する言葉となって突き刺さってくる。まずヒトを見るにどんな人生を歩み、どんな風景を見てきたかを考えて接していない。むろんその人に成り代わって何かの役を演じるわけではないから、そこまで人を知ることは無用といえば言えるし、そこまで知ろうとするとプライバシーの侵害とやらにまでなってしまう。
 逆か。近代市民社会のヒトとヒトとの間合いの取り方は、触れずさわらず、向き合ったときにのみ(その領域側面に)関心を傾ける。ヒトを一人の市民として遇するということは、深入りしない、穿鑿しない。市民という場の表面だけで接して、それ以上もそれ以下も知らぬ顔の半兵衛というのが、程よい接し方ってことか。そうだね、放っておかれることが都市生活における自由の基本条件。それが身軽でクールな関係の秘訣と誰に教わったわけではないが、そう思ってお気楽に過ごしてきた。
 その「関係的実在」にガツンと衝撃を食らわすヒトのとらえ方である。

《無数の感覚的イメージを研ぎ澄ませ、細胞ひとつひとつから身体が役になり、その『場』と向き合って表現します。すると歩き方も目線も話し方も、太刀の所作も定まっていきます。セリフや喜怒哀楽は最後です》 

 いや現に、己自身をもこういう風にとらえていないのではないか。ほとんど無意識のままに任せて立ち居振る舞う。衝突や軋轢、無視・蔑視、齟齬に出喰わす。その時、己自身を、「細胞ひとつひとつから身体が役になる」ように「向き合って」世の中に押し出すってことをしているかと、問われているように感じる。そうか、鈴木正興が自らを振り返って記すように、《彼に感じた静謐にして強靱な存在感は彼の自ずからに由る身体性と尤もらしい気取りで思っていたが、その読みの浅薄さはどうだ。恥ずかしい》。つまり、我が無意識を取り出して己自身を見る目を培えと、活を入れられている。
 ふと思い出したのだが、2018-7-29に「庶民の気骨の原基をみた」と題して、河治和香『がいなもん――松浦武四郎一代』(小学館、2018年)の読後感を記している。北海道の名付け親・松浦武四郎(1818~1888)の一代記を、絵師・河鍋暁斎の娘を舞台回しに介在させて書き記した小説である。このときに感じた松浦武四郎のありようが、まさしくこの田中泯の実在感と重なってくる。
 身をつくることがヒトの生きる基本であった時代的な気風が、あった。北海道を探検することを含め、基本歩くことによって、恒につねにわが身がどこにいて、どのように振る舞っているかを意識しないでは居られない、未知の土地を旅している日常の中で培われる「身のこなし」は、まさしく全神経を意識して振る舞うことを必要とする。旅そのものが修行であり、文字通りわが身の切磋琢磨であり、その佇まいと居ずまいが自ずから身を立てることを培ったのだ。
 そう考えてみると、社会的な変化に合わせてヒトが変容し、武四郎没後まだ145年ほどしか経っていないのに人の身が変わってしまった。そこから考えてみよと鈴木正興はモンダイ提起していると思った。